良寛さんは、「詩」について次のように述べている。
「孰か我が詩を詩と謂う 我が詩は是れ詩に非ず 我が詩の詩に非ざるを知らば 始めて与
( に詩を言( るべし」つまり、この言葉を理解するためには、良寛さんが基本的に「出家」即ち自己満足追求の放棄を努力する仏道修行者であったことに想いを至さなければならない。
良寛さんの詩は、通常の詩人や文学者の、言わば自我を前提とする人間の価値や感情などの精神を表現したり、表現上の技巧に重点を置いたりする文学とは根本的に違う筈のものであった。例えば、良寛さんの有名な句に
・裏を見せ表を見せて散る紅葉
・焚くほどは風がもて来る落ち葉かな
があるが、これらの句は正に仏法、即ち尽十方界真実(宇宙・大自然の生命活動並びにそれに伴うありとあらゆる絶対的事実)を見事に表現した句である。
つまり、前の句は、迷いやさとり、或いは人間の喜怒哀楽などは全て生命活動の表情・景色として素直に頂くべき性質のものであり、生きている限り避けられないものである。
即ち一方(表)が良くて一方(裏)が悪いというようなものではない。
いずれも一時の在り方であるが、同時にその時の尽十方界(宇宙・大自然)の絶対的な真実の様相・姿であり、自我でどうにかできるものではない。
ただそれをそっくりそのまま頂戴するしか仕方がないものである。
これは、曹洞宗の僧であった良寛さんが、宗祖道元禅師の『正法眼蔵』を貫く「現成公案」の信仰を示した一句だと言えるのである。また後の句は、我々は、すべて尽十方界真実により「生かされて、ただ生きている」即ち「無所得・無所悟」であるということを述べているのである。
即ち『正法眼蔵随聞記』(第一)の「世間衣糧の資具は生得の命分ありて求めに依ても来らず、求めざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ」という言葉に、「生得の命分」ということがある。
つまり我々が食べたいということは、個人の要求ではなく「命分」即ち「大自然の活動」によるものである。我々は命分によって生活している。
大自然においては、腹が減っている時に食べ物があれば食べればいいし、なければ食べられないだけである。
我々が生きているということは、自分が勝手に生きているのではない。人間が苦しむのは、自分の力で勝手に生きていると思うから苦しむのである。我々が生きているということは自然の恵みであるから、食べ物に巡り合えば食べればいいし、食べ物が無い時は環境に恵まれないだけのことだと覚悟するしかないのである。
自然界の生物は皆このような生き方をしている。人間だけがあくせくしているのである。
このような仏法の在り方をこの句は表現しているのである。要するに、良寛さんは、表現形式としては詩や俳句などの文学の形を借りてはいるものの、その表現内容は、仏法即ち尽十方界真実を表現する「法句詩」或いは「法句」なのである。
以上のことから、私の句集は、誠に未熟・稚拙で恥を曝すものであるが、敢えて現成公案ないし尽十方界の真実(牆壁瓦礫)を、折に触れ、俳句形式を借りて表現出来ればと考えて作句したものであり、それが成功しているかどうかは兎も角、私自身としてはおこがましくも「法句」集を意図しているつもりである。
なお私は、俳句は仏法を表現するのに最も適した形式だと考えている。
僅か十七文字であるが故に、将にその時感動した尽十方界(宇宙・大自然)の様相、景色(絶対的事実)を端的且つ簡潔に捉えようとするのに最も相応しい形式である。
それには「対象(自然)」を観察して一切の余分な主観(自我意識)を削ぎ落とした必要最小限の緻密な表現が要求される。
但し作者は対象に出逢った時の感動がなければならない。そしてその感動の表現はあくまで対象の客観的描写でなければならない。
感動を伴わない所謂「観念」だけの句は単に自我の作為だけで尽十方界真実ではない。
故に一句を味わう側も当然その修行、力量に応じた一句の頂き方しかできない。
但しこのような仏法即ち尽十方界真実を詠む所謂「法句」に於いても、俳句同様必然的に「季語」が詠み込まれる。尤も「無季」の句も皆無とは言えない。
然し「季重り」を避ける通常の俳句の常識に捉われる必要もない。何故なら、偶々自然物即ち「季語」が重なっても、実際にその時の大自然の景色に感動したのだから素直にそれを表現すべきであり、自我に基づく技術を主とする文学的修辞を考慮する必要はない。
更に仏法は、人間の生命活動の表情、景色に過ぎない心理、精神即ちこころを問題にはしない。あくまで日月星辰、山河大地、草木など有情、非情の在り方を教示する。
従って一句を表現する言葉は原則として客観的な事実を描写すべきであり、抽象的な事柄や心理を描写する言葉は不適当である。
実際に詩や和歌と異なり、僅か十七文字でこころを直接的に表現することは殆ど不可能である。
つまり客観的事実を表現してこそ一句を味わう者も客観的にその時の尽十方界の様相、景色を推察できるからである。
仏法は個人的な自我と一切関係がない。仏法は尽十方界真実故に一般、普遍だからである。2017年11月改訂
尾崎正覚識