『普勧坐禅儀』の本文の解説を書き終えて、改めて仏法は、「尽十方界真実」ないし「尽十方界真実人体」の視点からアプローチすれば、実に明確に理解できるということを実感した。道元禅師の文章の表現は、一見難解であるが、その教理は実に明快・説得的であることがはっきり分かる。
このことは、『正法眼蔵』にも共通していると言えよう。嘗て、酒井得元老師の『正法眼蔵』の提唱をお聴きした時、目から鱗が落ちる思いをしたが、酒井老師は常に「尽十方界真実」「尽十方界真実人体」の語を用いて説明されていた。この言葉を抜きにしては、明確に仏法を説明することは出来ないと言っても過言ではない。
そもそも「尽十方界」という語は、一般には馴染みが薄い言葉であるが、現代の科学的知識における宇宙・大自然の実態を最も的確に表現し得る言葉だと思われる。
つまり、先ず「十方」は、「東西南北四維(北東・南東・南西・北西)上下」のことで、「あらゆる方向」を表している。そして「尽」は「盡」(つく、つくす)の略字であるが、「尽十方」で、「あらゆる方向を尽くす」という意味となり、実際にはあらゆる方向を尽くす事は不可能であるから、「無際限」の意味となる。次に「界」とは「因」の義(『大智度論』)即ち「生じている」「生じさせている」という意味である。
従って、「尽十方界」とは「無際限のあらゆる方向に無限にあらゆるもの(無という事実も含む)が生じている」状態を表現している事になる。
元来この言葉に該当する語はインドには無く、中国禅宗の祖師、即ち南泉普願やその弟子達が使い始め、広めたとされている。まさにこの言葉こそ、禅というものが、インドの瞑想に終始する人為的・自調の行を超えて、中国禅宗における宇宙・大自然的規模の只管打坐の坐禅へ進化した証そのものだと言える。
恐らく如何に後世の者が、更に最適な言葉を発明しようとしたとしても、この「尽十方界」の語を超える事は難しいであろう。その証拠に、天才道元禅師が、当初は「尽大地」などの語を使用されていたのに、後に「尽十方界」の語を用いられるようになった事から考えても明らかであろう。
私は、酒井老師を近・現代禅僧の第一人者であると考えているが、老師程の方が、自分の独自性を出そうなどとされず、徹底的に由緒ある「尽十方界」の語をキーワードとして大切に使われたことは、流石道元禅師の仏法の承継者だと改めて敬服する次第である。
ところで『新普勧坐禅儀』を瞥見するなかで、同書に幾つかの単純な誤りを発見した。 参考までに、例えば、同書9頁記載の(東)晋の道安の生存年代が、正しくは314〜385であるべきところを、1638〜1715となっていたり、同じく212頁記載の阿難の刹竿倒却の則について、正しくは『正法眼蔵三百則』第六十九則であるべきところを、第百六十九則となっていたりする。
更に、本文の「那ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや」の解釈について、確かに紛らわしい表現ではあるが、同書202頁の記載では、反語の訳を誤って「私どもの認識や判断以前の法則であるというわけのものでもない」とされている。しかし、この訳では、正しくは「軌則」即ち「大自然の法則(尽十方界真実)」であるのに、「知見」即ち「認識や判断」だということになってしまい、道元禅師の意図と逆になってしまう。初めて禅を学ぶ者を誤らしめる可能性があるので、私自身、自戒の意味を込めて、ものを書く以上は細心の注意を払わなければならないものだと肝に銘じた次第である。
著者 識
【参考文献】
・『酒井得元老師提唱より聴き書き 正伝の仏法 道元禅と只管打坐』 (拙著 妙壽寺仏法参究会刊)
・『入門 仏法と坐禅』 (拙著 妙壽寺仏法参究会刊)
・『新普勧坐禅儀講話』 (小倉玄照著 誠信書房)
・『宗教としての道元禅(普勧坐禅儀意解)』 (内山興正 柏樹社)
・『道元禅師全集』「解題」 (大久保道舟編 筑摩書房)
・酒井得元老師提唱「普勧坐禅儀と坐禅箴」(『返照』第450号及び451号・妙元寺返照会・野沢和光)
・駒澤大学日曜参禅会(昭和47年)の酒井得元老師「普勧坐禅儀」提唱録