謝辞

(*初版掲載)


本書は、誠に恐れ多い企てだと叱責されるかもしれないことを承知の上で、世間一般には殆ど知られていない故酒井得元老師の仏法(禅)の真髄を、少しでも多くの人に伝えたいと思う私の願いから生まれたものである。


非常に大雑把に言って、現在書店に並んでいる仏教関係の書物には二種類あると思われる。一つは仏教学者の著作に係るもの、他は各宗派の僧の手によるもの等であるが、前者は、仏法を仏教学者が自分の問題として捉えるのではなく、あくまで学問の対象としてしか考えていないため、後述のとおり、本当の仏法が何かを彼等自身が分かっていないことを暴露している。

また後者は、自派の宗旨を論理的に明確に述べたものは少なく、倫理・道徳的な一般大衆向けの説教話に終始しているものが多い。

そのため科学の時代に生きている我々現代人には、後者は初めから何か胡散臭さが付き纏い、本気で読んでみようという気持ちが起こらない。従って現在本当の仏法(禅)を学ぶ手がかりは殆ど無いと言っても過言ではない。


その点、酒井老師は、希代の禅僧故澤木興道老師の御高弟であり、本当の道元禅師の仏法を現代に伝える禅僧であったと同時に、既成の教団の在り方等についてもかなり批判的な考えをお持ちであった。

つまり酒井老師のように、生涯坐禅を続け且つ学問研究も怠らなかった、即ち禅僧でありながら学者であった方は本当に稀有ではないかと思われる。

残念な事に、老師は生前様々な禅籍や仏典について御提唱をなされたが、実際に残された書物としては少なく(末尾「参考資料」参照)、老師の仏法の全貌を伝え得る書物は殆ど無いと思われる。

老師の師匠の澤木老師が著述を残されず、提唱録(『澤木興道全集』)しかないのと同様、酒井老師の本来の面目は、まさに本音で親切に仏法を語られるその御提唱にあったと言える。


ところが、有難い事に、私は後述の経緯の通り、老師の御提唱の録音テープによって、老師の仏法、即ち一般に誤解された通俗的な仏教とは根本的に異なる本当の仏法を徹底的に聞法する事が出来た。

本来ならば、このような幸運を私が一人占することは許されず、御提唱テープを起こし、出版物として刊行することが良策であることは分かっていたが、それには膨大な時間と作業が必要であり、会社勤めの私には手に余ることであった。


そこで、私は、予てから老師の御提唱を聴きながら要点をメモにとって纏め、自分が理解し易いように仏法のキイワード毎に整理していたので、これを基に、4年程前、妻の助けを借りて自らワープロ打ちの『仏法御聴書抄(酒井得元老師提唱より)』を作成し、後述の妙壽寺参禅会で配布した。

その時同寺の栖川隆道和尚から、参禅会で話をしてみないかと勧められ、面映い気持ちはあったものの、本当の仏法を伝えたいと思う気持ちが羞恥心を上回り、上記拙著をテキストにして講義を始め現在に至っている。お蔭でこの参禅会での講義が基本になって、本書が生まれることになった。


ところで、私が仏法を学び始めてから既に相当の年月が経過している。

曾て30代初め、私は、鉄道会社の用地室で、公共事業用地の買収業務に従事していた。その当時、所謂「立退き交渉」の厳しさに直面し、他人を本当に説得するためには、自分を支えるバックボーンが必要だという事を痛感したが、自分が確たる人生観を持ち合わせていないことに気付き情けなくなった。

そこで自分の行動の判断基準にできるような具体的な人生観を持ちたいと考えて、西欧哲学から独学を始め、仏教や儒教、キリスト教に至るまで、権威有る学者の書物を中心に乱読した。

特に仏教については、阿毘達磨・唯識・中観・天台・華厳・禅・浄土・密教・仏教論理学等、仏教学者が著した書物を貪り読んだ。


然し、後に仏教学者は所詮本当の仏法を知らないのだということが分かった。

何故なら、彼等は仏法の重要なキイワード、例えば「心シン」「三昧」「解脱」「悟」等を、人間の心理的・精神的な境地を表現する言葉であると考えて解説していたからである。

当時私は未だ酒井老師にお会いする機会を得ていなかったので、学者のもっともらしい解説を何となく理解した積りでいたが、必ずしも満足していなかった。

特に彼等の説明で納得し難かったのは、さとりの境地というものは、一度悟れば二度と迷わないものなのかという疑問を持ったからである。

私自身常に自分の「こころ」が変化していることを自覚しており、こころが変化しない等と言うことは、経験上考えられなかったからである。

やはり「さとり」は、特別な人即ち聖人にしか有り得ないのだろうかとその時は考えていた。


ところが30代後半になって、仏教学者の書籍をいくら読んでもさしたる足しにならないことに気付き、学問書に飽いていた時、それまで見過ごしていた『澤木興道全集』にふと目を留める事になり、やがて全巻を貪るように一気に読了した。

特に今も記憶に鮮明なのは、その中の「一超直入如来地」を捩った「一超直入泥棒地」という言葉であり、まさに目から鱗が落ちるような感激を味わった。

それ以後、澤木老師の御高弟である故内山興正老師の『生命の実物』を始めとする同老師の書物を全て読み漁ると共に、老師の宗仙寺(京都市)の参禅会にも参加し、老師の涼やかな風貌に接して、本格的に生涯坐禅を続けようと決心した。

更にそれと相前後して、新聞紙上の案内を契機に、1982年(昭和57年)3月8日、「妙壽寺」(大阪福島区)に於ける酒井得元老師の法益(当時『証道歌』の御提唱)に浴する幸運を得た。


私は、酒井老師や内山老師を目の当りにして、まさに道元禅師の「正師を得ざれば学ばざるに如かず」(『学道用心集』)の言葉通りであることを痛感すると共に、坐禅についても、「仏教的人生観がはっきりしてからでなければ、真の坐禅修行にはならぬ」(興道)ということが身に沁みて分かった。

この時以来現在に至る20年余、妙壽寺栖川隆道和尚の指導の下で、毎週火曜日(年中無休)の夕べの一チュウの坐禅及び臘八接心を行じ続ける人生が始まった。


ところで、妙壽寺栖川隆道和尚は、実際の坐禅の指導は勿論のこと、参禅者は、誰でも一切金銭的負担無しに自由に坐禅出来るよう常にお寺を開放して下さっている。

特に私の場合は、同和尚の親切なお計らいにより、1984年(昭和59年)3月、妻共々酒井老師から在家得度のお許しを頂いた(戒名:宏巖正覚居士)上に、上述のとおり参禅会での講義のお許しまで頂き、まさに本書完成についての大恩人と申し上げても過言ではない。

栖川隆道和尚には、此処に改めて心から御礼を申し上げる次第である。


さて以上述べたように、妙壽寺での酒井老師の御提唱(年2、3回)は、老師が遷化される迄続いた(遷化直前の老師の御提唱は『良寛詩集』(未完)であった)。


ところで話は十数年前に遡るが、私は、私の妹・浄英(老師により在家得度)の縁で、老師のお弟子である静岡県裾野市「東光寺」住職落合道順和尚の御好意を得て、老師の『正法眼蔵』『永平広録』等を始めとする種々様々な禅籍の膨大且つ貴重な御提唱のテープをコピーさせて頂く幸運を得た。

爾来十余年の間、私は、通勤電車の中で、約15〇〇巻を超えるテープ(主に9〇分/巻)を聴きながら、テキストへの書き込みを日課としたが、御蔭で日常生活の中で、老師ならば必ずこのような場合このように仰るに違いないという事が判るほど、老師の教えを聞くことができた。

常々老師は「宗門の修行は聞法第一」と仰っていたが、私は、実際に遍参せずに、文明の利器を利用し聞法できたことを感謝すると共に、本当の仏法を学ぶ眼が開けたことを心から有難く思っている。


尤も仏道修行者は、本来師匠と日常生活を共にし、生きた手本から学ぶ必要がある。また仏法を学ぶ態度は常に謙虚(「将錯就錯ショウシャクジュシャク」)でなければならないことは言うまでもない。

それは常に「人間が納得する処に真実は無い」と老師が注意されたところであり、その根拠は、『正法眼蔵』における道元禅師の特徴的な説き方、即ち「〜は〜である」と一応の目安は述べるが、そこに腰を据えないように必ずそれを覆し、「これこそ真実」と勝手に納得してしまう人間の誤りを正された道元禅師の老婆親切にあったことを承知しなければならない。


因みに、現代においては、もはや『正法眼蔵』や『永平広録』等を本当に提唱出来る禅僧は、恐らく酒井老師を措いて他には居られないと思われるが、残念な事に、老師は1996年(平成8年)11月22日に遷化された。

そのため定年退職後、酒井老師に出家得度をお願いしようと思っていた私の願いもその時点で消えた。そこで三年前、私は会社勤めのまま思い立って、酒井老師に長年随いてその御提唱を録音し、老師の仏法の全容をそのまま後世に残す偉業(老師の録音テープは貴重な文化遺産)を成された上述の落合道順師に、特にお願いして、1999年(平成11年)9月19日出家得度のお許しを頂き、曹洞宗僧侶の端くれに加えて頂いた。

なお私は、今年2002年7月末、定年に一年半を残し、33年余勤務した会社を退職した。


以上の通り、私にとって、落合道順師は、受業師としての恩もさることながら、正に酒井老師が説かれる真の仏法を学ばせて頂いた大恩人であり、同師無くしては本書の存在は当然有り得ず、感謝の念は尽きる事がない。落合道順師には、此処に改めて心から御礼を申し上げる次第である。


以上縷縷述べたとおり、本書完成に際して、私は妙壽寺栖川隆道師及び東光寺落合道順師の御両師に心から御礼を申し上げると共に、今後とも宜しくご指導を賜りたくお願い申し上げる次第である。


なお御両師以外にも、多くの方々のご厚意に支えられて来た事は申すまでも無く、特に此処では触れる事ができなかったが、高校時代からの畏友で曹洞宗の大阪豊中東光院住職村山廣甫和尚とは四十年来の付き合いであり、私にとっての善知識であることは申すまでも無く、此処に改めて謝意を表する次第である。


2002年10月

 小子 宏巌正覚 九拝





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