今年も、JR西日本旅客鉄道株式会社の文芸年度賞の授与式があった。俳句部門の審査員をしている関係上、招請を受けて、私も出席した。そのあと茶の席で、私に句集の無いことが話題にのぼった。
私も、還暦記念に句集を出そうと思ったが、出しそびれてしまった。陶淵明に「焉んぞ覚
( かれん、一人無( けしを」という詩句がある。人は誰も、死ねば歳月の彼方に忘却されてしまう。生きているうちは自らの想いとして句を作っても、死後に句集を残す必要はないと私は思い続けて来た。私は僻村生れで、旧制中学校だけは出して貰ったが、上級学校にやって貰える境遇ではなかった。中学校を卒業しても、就職難の時代で、十一月まで待って、やっと吹田機関庫に就職することが出来た。機関助手、機関士、判任官試験は、みな順調にうかったけれど、栄進は他人事で、いつも冷飯喰いに甘んじねばならなかった。父は、「学校を出してやっていないのだから、昇進など望もうと思うな。不遇だと思はず、趣味を持って、ほんとの人生の倖を掴め」と言った。
金がかからず、手帖とペンさえあれば俳句は作れると思った。それが趣味に俳句を選んだ動機であった。国鉄の無賃パスがあったから、吟行に出掛けたり、仏像を見てまわることが出来た。読書も、小説には興味が無かったが、杜甫や陶淵明の詩は好んで読んだ。特に仏書には魅かれるものがあり、独学で読み漁った。道元禅師の「正法眼蔵」との出会いは、その後の私の生きざまを決定的なものにした。
「正法眼蔵」に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは自己を忘るるなり。自己を忘るるといふは万法に証せらるるなり」という言葉がある。また「自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するは悟なり」とも言ってある。何れも私意を捨てて万法に即けという教えだ。自然に随順して行きよという教えだ。
昭和45年を最後に、私は「天狼」への投句を一切やめた。道元禅師を師として俳句を作ろうと自覚したからだ。俳句発表の場が無くなったから、昭和53年1月、私の俳句発表の場として「鷲」を創刊した。
六十年近く作句して来ても、句集に遺そうと思う句は寡ない。選句に当たっては、一句一句邦水女の意見を聞いた。
「琴座」時代の句は表現が粗雑で、遺そうと思う句が無い。
昭和31年から昭和59年末まで、途中中断するときはあったが、山口誓子先生に添削指導を受けた。丸を付けて貰った句が六百五十余句あったが、その中から自選して百七十句を採録した。
昭和60年以降の句は総て自選句である。誓子先生の添削指導を受けなくなって、一番危惧したことは表現が荒れはしないかということであった。如何に優れた俳人でもトレーナーの添削指導を受けないと表現が荒れてしまう。世界で一流の歌手でも、常にトレーナーの発声練習のレッスンを受けるという。倖なことに私には邦水女という伴侶がいて、表現について常に助言をして呉れた。邦水女も私同様同じ期間誓子先生の添削指導を受けた。表現については、邦水女が私の句を見、私が邦水女の句を見てきた。
邦水女は結婚以前から俳句を作っていた。
年寄るはよきもの夫と日向ぼこ 邦水女
今年私たちは2月6日金婚記念の日を迎えることが出来た。
句集の題名「有時」は「正法眼蔵」から選び採った。「有時」の深意にはほど遠いが、私にとっての「そのときどきのいのち」というほどの気持ちからである。