第T章 仏法の大意

1 仏法

本項では、本章の総説として、「仏法」と言う言葉そのものを採りあげて、仏法の実態について述べる。なお仏法は「仏の法」ではなく「(後述「尽十方界真実」)は(出来事、事実)なり、法は仏なり。」ということで、仏と法は同じ事実である。

ところで、禅籍等に見られる所謂「公案」や「古則」において、修行僧が禅の祖師に対して問う基本の質問が、必ず「如何なるか是仏法」ということになっている。「禅」(後述の通り仏法と同じ事実を言う。)においては、弟子も師匠も、常に修行の最も根本を問う事によって、修行の方向を誤らない様に心掛けている。




一 仏法は宇宙の絶対的な「事実」であり、所謂「思想」ではない

 

    さて、それでは仏法とは何か、結論から言えば「仏法とは〜である」と定義する事が出来ない

    何故なら、仏法は、「我々が生きている事実」を含めて、この「宇宙・大自然の生命ないし生滅活動やそれに伴うありとあらゆる事実」を言うのであって、所謂「思想(観念)」や「〜という考え方」等、人間の考えた概念ではなく、実際の「事実」そのものを指すからである。

    但しこの「生命ないし生滅活動」と言う表現は単に生物のそれだけに限らず、非生物の生滅をも含む広義の概念であり、以後本書においてはそのような広義の意味で使用するものとする。

    尤も今述べたように、仏法とは、「宇宙・大自然の生滅活動におけるありとあらゆる事実或いは「宇宙・大自然の絶対事実乃至動かし難い真実(真の事実)」等と一応説明することは出来るのだが、「宇宙・大自然」という言葉そのものが既に概念であって、「宇宙・大自然」の実物そのものではない。ただ仏法を理解するための指針となる便宜的な概念に過ぎず、仏法を定義した事にならない。

    例えば、ケーキを食べた事が無い者に「ケーキはどんな味だ」と訊かれて、「甘い」と答えても、実際に実物のケーキの具体的甘さそのものを示した事にはならない。このように、ケーキの実物の味を定義する事が出来ないのと同様、仏法は定義できないのである。

    いわば誰もが経験的に知っている「甘い」とか「宇宙・大自然」というような万人共通の観念的な言葉で、ケーキや仏法を一応表現するしか方法がないのである。

    ところで一般的に言って、人間は、どんな事物(現象)でもその背後に何か本源・本質のようなもの、或いは原理・原則のようなものが存在するのではないかと考え、それを必死に求めようとする。しかも求め得たと勝手に考える本源や原理(概念)で以って自ら理解(納得)を得ようとする習性がある(このような態度を「還源返本ゲンゲンヘンポン」と言う)。

    ところが仏法は、人間が勝手に考えた根本原理としての真実・真理というようなものとは全く異なる。仏法は、我々が生かされて生きているこの宇宙・大自然の活動やありとあらゆる事実を指し、それは人間の価値判断が無意味な真の事実即ち動かし難い絶対的な事実を言うのである。

    他方「思想」とは、上述の還源返本により得られた概念のように、人間が自分を単なる観察者の立場に置き、自分だけは其処から除外して自分の前に置いた頭の中の対象(観念)に過ぎない。我々がものを考える場合、自我の範囲だけでしか考えられないという制約がある。自分の経験した範囲でしか考えられないのである。しかも自我意識そのものは脳の生理現象であり、人間生命の活動の一表情に過ぎない。

    繰り返すが、仏法は宇宙・大自然のダイナミックな生命活動の事実(後述「尽十方界真実」)を言うのであって、考える主体である人間もその中の一つの事実・実物(尽十方界真実人体)に過ぎない。人間が仏法即ち自らを含む宇宙・大自然を対象として観察・記述する事は、根本的に不可能なことである。

    つまり人間の思考や感覚によって、仏法(宇宙・大自然)を完全に把握しようとしても不可能であり、仏法を対象として体験(分別・知覚)する事は根本的に出来ないことなのである。




二 「何」「如何」「什麼(ナニ)」「誰」等の疑問詞で仏法を表現する


    以上のように、我々は仏法そのものを定義する事はできないのだが、中国の禅の祖師達は、仏法の修行や参究の過程で、仏法(の真実態)を端的且つ正確に表現する方法は、「何」「如何」「什麼ナニ」或いは「誰」等の疑問詞であることを発見したのである。

    それは如何いうことかと言えば、例えば我々は今迄見た事も無い事物や人に出会った時、これは「何」、この人は「誰」、と素朴な疑問を持つ。この「何」、「誰」という疑問詞は、我々の既知の概念では把握出来ない未知の事物や人の実態について、当該実物の無限定性を最も正確に表現し得る言葉なのである。

    つまり疑問詞は、無限定の事実・実物を表現し得るという点において、正に無量無辺の仏法の実態を表現するのに相応しいということなのである。 因みに、前述の「如何なるか是仏法」について、通常の意味は、「仏法とは何か」と、僧が師に質問した形であるが、仏法の二重構造的表現解釈からは、「如何なるか」は「如何なるものも」と訓むのが決まりである。その結果「如何なるものも(ありとあらゆるもの)が仏法だ」ということになる。

    この場合、僧が自ら分かって質問したか否かは別として、質問と同時に、自ら答えを出した事になるのである。これを仏法では「問所はなお答所の如し」或いは「問所の道得」と言うのである。

    なお同様に「誰か」は「誰でも」と訓むのが仏法の常識である。




三 仏法の実態


    ところで、仏法(宇宙・大自然の活動)の実態は以下の通りである。

    1. まず、この世界に存在するありとあらゆるものは、生物であれ、無生物であれ、自分勝手に存在しているものはなく、何らかの条件(因縁)によって存在させられている。即ち、すべてのものは、「四大」(仏教用語。「地水火風」等異質の要素)が何らかの条件(因縁)によって和合した相スガタである。この「四大因縁和合」の事実を「如去如来」或いは「大乗」(あらゆるものは勝手に存在していない)と言う。

       また、例えば人間について言えば、人間の身体(「正法」と言う)は、単独で存在しているのではない。身体は、その時間的・空間的全体の環境(「依法」と言う)と一体で生きている(「人間」している)のであって、この事実を「依正エショウ一如」と言う。

      (因みに『脳はなぜ「心」を作ったのか(「私」の謎を解く受動意識仮説)』(前野隆司著 ちくま文庫50〜53頁参照。)

      つまり身体は環境、即ち空気や水の存在は勿論、身体の存在している場所(空間)や等全てと一体でしか生きられないのである。

      更に、例えば「見る・聞く」等の人間の生命の働き(行為)等も、その時の「宇宙・大自然(後述「尽十方界」)の様相・表情」である。何故なら、人間もこの宇宙・大自然(尽十方界)の一部であり、人間の生命活動そのものが即ち宇宙・大自然の生命活動そのものと言えるからである。

    2. 次に、宇宙に存在するありとあらゆるものは、一刻も休まず生滅活動(変化)し続けて(「刹那生滅」と言う)いるが、この事実を「修行」と言い、後述の「仏向上事」とも言うのである。

      例えば、奇異な表現と思われるかもしれないが、「石は石を一時も休まず修行(存在を努力)している」のである。かつて日航機事故で、飛行機の「金属疲労」が問題になった事があったが、仏法から言えば、金属も休み無く金属を努力(修行)し続けている以上、疲労する事は当たり前の事実なのである。

      勿論人間の身体も休み無く「修行(生命活動)」し続けているのである。通常の国語辞典的な説明のように、特別人為的な努力だけを修行というのではなく、有情非情を問わず、ありとあらゆるものの変化・生命(生滅)活動のことを「修行」というのである。またこのような宇宙・大自然が生命(生滅)活動を続けている在り方そのものを「脱落」「解脱」「三昧」とも言うのである。

      そしてこのような活動はいつも「平常底(何とも無く当たり前)」であり、真実(真の絶対的事実)である(これを後述「平常心是道」と言う)。つまり平常底ということは、たとえ地震や台風や火山噴火等人間にとって望ましくない事象が発生しても、宇宙・大自然にとっては当たり前で何とも無いという事である。

      なお、ここでいう「脱落」は、通常の国語辞典的な「抜け落ちる」の意味とは全然異なるので注意しなければならない。これについては、酒井得元老師がいつも喩えに出されていた、大河の流れと波の関係で説明するのが解り易いと思われる。

      つまり大河の流れ(宇宙・大自然の生命活動)は、時々刻々の状況により、その水面は穏やかであったり、波打ったり(活動の表情)するが、流れ(生命活動)そのものは常に変わりなく続いている。この流れそのものの流れ続ける事実解脱、脱落、三昧と言い、水面の波はあくまで生命活動のその時々の一時の表情に過ぎない。

      そしてこのことは、宇宙・大自然の一部である人間の身体についても同じ事が言える。

      即ち人間は、身体の生命活動(川の流れ)の中で生命活動の表情である自我中心の喜怒哀楽の人生(波)を送っているのである。自我を超えたこの身体(後述「尽十方界真実人体」、「」)の生命活動そのものを脱落・解脱・三昧と言うのである。

      これについては、後述「坐禅」で詳しく説明するが、身体の生命活動の実態を、「身心脱落」「脱落身心」或いは「非思量」等と言い、「坐禅」は、喜怒哀楽の原因である自我意識を棚上げし、自我意識を超えた身体本来の生命の在り方に還る努力をすることである。

    3. 第三に、現在の事実即ち「現実」は、如何なる状態にあっても、その時の宇宙・大自然(尽十方界)の動かし難い絶対的な真実(本当の事実)であって、且つ過去の成果の実態が現在の事実そのものである。従ってこの現実は現在の事実以外の事実は有り得ないという意味で「完全無欠」である。これを後述の「現成公案ゲンジョウコウアン」と言う。

    4. 第四に、宇宙・大自然においては、ありとあらゆるものが真の事実であるから「これこそは真実」という還源返本的な特別な真実はない。西欧の哲学や宗教のように「それに拠って全て説明が可能な一つの根本原理」即ち形而上学における所謂「真理」等は存在しない。

      そのような還源返本の考え方は、人間の自我(自己満足追求)即ち思想(脳の生理現象の所産)に過ぎない。

      仏法においては、現実にこの宇宙・大自然に生滅するありとあらゆる事実が全て真の事実即ち絶対的な事実(真実)であり、これを「諸法実相」と言う。

      つまり現実は、その時の宇宙・大自然の生命活動に於ける表情・景色(尽十方界の様相)であるが、それはその時の動かし難い絶対的な事実でもある。

      また同時に宇宙・大自然全体が絶対的な真実であり、これを「全体本然ホンネン」と言う。要するに仏法には上述の「還源返本」の考え方は有り得ないのである。

       例えば、本格的な中国禅の礎を築いた六祖大鑑慧能(638〜713年)と弟子の南嶽懐譲(677〜744年)の有名な問答の中に「什麼物恁麼来ナニモノカインモライ」という言葉がある。

      つまり、什麼物(何物即ちありとあらゆる事実)は恁麼来(どのように来た即ちありとあらゆる在り方)だということであり、所謂「諸法実相」(ありとあらゆるもの

      が真実)を表現している。

      そして同時に、仏法の真実の在り方は、正体が無い、決まっていない (判断以前)。或いは真実は「虚空(手がかり無し)」の如く掴むことが出来ない。または解決無しということである。最も解りやすい例を挙げれば、気象において、晴れ・雨・曇り等様々な状態があるが、どの状態が最高、正常であるという事は出来ない。全て「真実の気象」であることに変わりはないのである。

    5. 最後に、宇宙・大自然の在り方は、無所得・無所悟(ただ生かされて生きている姿)であり、非思量不染汚フゼンナ只管シカンなど、いずれも自我意識(意志・意欲)発現以前の(生命)活動の在り方である。

      つまり宇宙・大自然には、人間世界におけるような目的や意志・意欲の観念は無いし、同様に人間固有の満足や問題の解決等という観念も無い。

      また人間の欲望(自我)に起源する、時間、空間、多少、大小、長短、或いは是非、善悪等の概念も無い。例えば人間は自己満足を追求することから必ず未来を持つ。未来を期待するところから結果の将来を待つ。そこでどの位待つのかということから「時間」を考えるようになり、時計を持つようになったのである。同様に、多少・大小・長短等も人間の自我に起因する欲望が生んだ概念である。

      なお、大自然に、人間が考える「純粋」というものは無い。ありとあらゆるものは混在・混合している。例えば大自然に完全(100%)に純粋な「金」は単独には存在しえない。




四 仏法の同義語


    以上、仏法が如何なるものかについて説明してきたが、仏法を表現する言葉は、インド、中国および日本を通じて、経論や禅籍に様々な言葉となって表れている。

    例えば、思い付くままに挙げてみても、尽十方界真実、正法眼蔵涅槃妙心、心、仏性、般若波羅蜜、現成公案、諸法実相、仏向上事、自性清浄、大悟、阿耨多羅三藐三菩提、菩提、三昧、本来の面目、父母未生以前、法華、真如、如是、空劫、唯仏与仏、自性霊妙、大地有情同時成道、或いは道元禅師の著作『正法眼蔵』各巻テーマの言葉等があり、仏法の様々な実態の何を強調するかによって表現の相違が生まれている。

    因みに、『大般涅槃経』第三十八巻「迦葉菩薩品」に、仏法の同意語として様々な仏法の言葉が列挙されている。 何故仏法の同義語が多いのかと言えば、上述のとおり仏法は定義できないので、時代や地域の変化に応じて、仏法を表現するのに最も相応しい言葉が模索され続けて来たのだと考えられる。




五 『正法眼蔵』等における仏法に関する記述例


    道元禅師(1200〜1253年)の代表的著作『正法眼蔵ショウボウゲンゾウ』は、仏法をあらゆる角度から説いた禅師の仏法を学ぶ者に対するご慈悲の現われであるが、二三取り上げてみよう。

    • 「仏法は人の知るべきにあらず。」(「唯仏与仏」巻)

        仏法は、思考・感覚による把握や体験を絶したもの(無量無辺)であり、これこそ真実というものはない。

    • 「仏法はまさに自佗の見をやめて学するなり。」(「弁道話」巻)

        仏法は、主観客観が分離する以前、即ち自我意識以前の生命本来の在り方を修行する事であり、それは坐禅修行を措いて外には無い。つまり、その時々の身体の生命活動における表情・風景(自我意識)に振り回されず、本来の生命の在り方を実践することである。

    • 「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。」(「現成公案」巻)

        あらゆるもの(諸法)が真実(仏法)であるということは(時節)、宇宙・大自然の真実であり、迷悟、修行、生死、諸仏、衆生等も、その時の宇宙・大自然(身体)の真実の表情である。なお、時節(時)は、所謂when(時)の意味ではなく、「〜という事は」と訳す。

        因みに、禅の語録等でしばしば使用される「正当恁麼時ショウトウインモジ」と言う言葉は、「結局言ってみると」と訳すのが仏法の常識である。

    • 「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」(同)

        大自然の本来の姿(脱落)においては、迷悟、生仏、生滅等は一時的な表情で絶対的なものではない。なお、われにあらざるとは、非吾我、即ち「本来の姿」という意味に『御抄』(後述「参究要点」参照)は解釈している。尤も諸法無我(無自性)と解釈する事も出来るが、『御抄』の通りでよい。

        因みに、「非」「不」「無」「莫」等の語は、通常一般的には否定の意味を表わすが、仏法においては、「自然の在り方」、「人間の恣意の入る余地なし」、または「(宇宙のありとあらゆるものは完全であり真実であるという意味で)絶対的な」という意味になる。あるいは「只管」と云ってもよい。

        ついでに言えば、所謂「」というものも、「非我(自分の意志意欲に関わり無い身体の生命活動)」によって、「欲」が生じるのであり、人間に付与された大自然の恵み(生命)の一つに過ぎず、その意味で本来「欲」ではない。同様に、「」という事も、「無我(非我)」の様相のひとつが、「我」、即ち「自我意識(身体の一部である脳の活動の表情)」であり、「無我」そのものが「我」を構想するのだと言える。

        更に言えば、所謂「凡夫(普通の人間)」は、仏(大自然)から「欲」を恵まれ(「無我」の段階)ながら、それを過剰(エゴイズムの暴走)に使う(「自我」の段階)のが常である。また仏法と世法と対比的に使われる「世法」とは、まさに自我の世界、自他対立の世界、人間性(自己満足追求)の世界のことを指しているのである。

      最後に、金剛経や道元禅師の『傘松道詠』の中から紹介してみよう。

    • 「仏法とは一切法なり、一切法とは仏法なり。」(『金剛経』)
       (一切法とはありとあらゆるものの事)

    • 「峯の色渓の響きも皆ながら我が釈迦牟尼仏の声と姿と。」(『傘松道詠』)

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