第T章 仏法の大意

2 仏

   
仏は「仏陀」を省略した言葉であるが、仏法本来の意味と日常的な用語法とでは相当異なっている。勿論「お釈迦様」を指す場合があることについては問題が無い。しかし日常的な使用例で「死者」や「仏像」を指す場合は、仏法が宇宙・大自然のあらゆる事実や事物を意味することから言えば誤りとは言えないが、本来の仏の本質を誤解させる恐れが生じる。ここでは、前項の仏法について述べたことを前提にして、「仏」の意味が多義に亘っていることを紹介する。



一 仏とは「仏法」と同義である

    仏とは、基本的に「仏法」や「法」と同義である。即ち宇宙・大自然のありとあらゆる事実即ち後述「尽十方界真実」を仏と言うのである。

    因みにお経に頻繁に出てくる「阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイ」という言葉は仏を表現している。

    従って、前述の仏法の様々な実態に合わせて、仏の意味も以下のように微妙に変わってくる。

    1. まず、仏は、「尽十方界(真実)」を意味する。「尽十方界」ないし「尽十方界真実」については、次項の「尽十方界」及び「尽十方界真実」の項で詳しく説明するが、簡単に言えば、「宇宙・大自然」或いは「宇宙・大自然の生命(生滅)活動」の意味である。これに関連して、仏法(禅)の根本を表現する以下の重要な文言がある。

      • 我与(ト)大地有情同時成道、山川草木悉皆成仏。(『梵網経略抄』)

          我々人間も大地有情(この世界のありとあらゆるもの)もすべて同様に完全な真実である(真実している)。山川草木も悉く宇宙の生命活動の姿そのものである。

      • 唯仏与仏乃能究尽。(『法華経』「方便品」)

          これは、『法華経』の主題である「諸法実相」(「方便品」)のことである。つまり「唯仏与仏ユイブツヨブツ」(ただ仏と仏)即ちこの世界の全てのものが真実であり、しかもそれを完全に表現(乃能究尽)しているということである。また後述「般若波羅蜜」も同義である。

           因みに「日面仏月ガチ面仏」という言葉があるが、これはどの仏もどの仏も即ちありとあらゆるものという意味である。

      • 心仏及ギュウ衆生是三無差別。(『華厳経』)

          「心シン」についての詳細は、後述「心」の項の通りであるが、仏法においては、所謂「こころ」(人間の精神作用)ではなく、「宇宙・大自然の真実」という意味であって、心も仏も衆生も宇宙・大自然の真実であるということを表している。つまり、仏も衆生も「心」のすがたにおいては同じである。

      • 生死はすなわち仏の御いのちなり。(『正法眼蔵』「生死」巻)

           ここの「御いのち」は宇宙の真実を意味している。

      • 今此れ三界は皆是我が有、其の中の衆生は悉く是れ我が子。(『法華経』「譬喩品」、『釈尊讚歎説法詞』「亡者得脱の口訣」)

          この言葉は、釈尊が「この世界は全て自己の内容で、その中の衆生(あらゆるもの)は全て私の生命の分身だ」と仰ったものであるが、仏法から言えば、我々自身が自らに当て嵌めて考えなければならない言葉である。

    2. 次に、仏は「如来(如去如来)」という意味がある。即ち刻々変化する宇宙の生命(生滅)活動そのものを意味する。

      それは『金剛般若経』「威儀寂静分第二十九」の「如来者無所従来亦無所去故名如来。」(如来は従来する所も無く、亦去る所も無きが故に、如来と名付く。)は、宇宙・大自然の全てのものの在り方、即ち全てのものは理由無く唯生滅(生死)している実態を表現している。

      一般に「生死(滅)」ということは、この世界に存在する全てのものの実態、即ち生滅活動のすがたであり、仏教教学的に云えば「四大因縁和合離散の相スガタ」である。

      即ち前述の「四大」(異質な色々の要素)が条件(因縁)によって、和合した場合は「生」であり、離散した場合は「死(滅)」であるということになる。

      また如来(宇宙・大自然)は、人間の意志意欲等自我活動とは無関係である。ところが我々人間は、仏教教学で「我見」「人見」「衆生見」等といわれる自我意識中心の生活を送っている(人間の自我は何でも理解・納得せずにはおれない習性がある)のである。

      従って「諸法は如の義なり(全てのものは真実そのもの)。」の言葉どおり、仏法を学ぶ者は、そっくりそのまま現実(現在の事実)を受け取り、苦楽なども生きている以上当然のお勤めとして頂かなければならない。

    3. 第三に、仏は「尽十方界真実人体(人体は宇宙・大自然の真実の姿である。或は人間は生かされて生きている。)」(詳細は後述「尽十方界真実人体」の項参照)を意味する。

      つまり人間の生命活動は、宇宙・大自然の生命活動と根源的に同一であり、その姿であると言える。

      尽十方界真実人体とは、このような「宇宙・大自然の真実(その生命活動)の姿である人間の身体」のことであるが、単に人間そのものではなく、人間の生理現象である自我意識発現以前の身体を意味する。

      簡単に言えば、例えば人間の眠っている時の在り方がそれである。

      仏道はこのような人間生命の本来の在り方を努める事であり、その唯一の方法が後述「只管打坐シカンタザ」の坐禅である。

    4. 第四に、仏は、「行仏」即ち「行が仏である」ないし「行という仏」、つまり坐禅人(坐禅を行じている人)を意味する事がある。

      要するに宇宙の真実(自我意識を超えた身体本来の生命の在り方)を実修実証する事実(「無所得・無所悟」の只管打坐の修行)を意味する。後述『正法眼蔵』「行仏威儀」巻にこのことが説かれている。

      因みに、『正法眼蔵』「即心是仏」巻に「釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり。」という言葉があるが、「釈迦牟尼仏は、宇宙の真実を修行して釈迦牟尼仏になった」ことを意味している。

      即ち大乗仏教における釈迦は、釈迦(「能忍」)・牟尼(「寂黙」:本来の在り方)を修行して釈迦牟尼仏となったのである。ここの「能忍」の「忍」は「認」の意であり、「自己の本来の姿(自我を超えた身体の在り方)をはっきりさせる」ことを言う。

      余談になるが、歴史上の釈尊は、食中毒によって亡くなられたらしい。この事について、酒井得元老師は「釈尊が食中毒で亡くなられたと言う事、そして亡くなられる前、『阿難よ、少し休ませておくれ』と仰る程かなり苦しまれたと言う事実は、仏法の真実を知る上で有り難いことだ」としばしば仰った。つまり、釈尊も我々と同じ人間の身体の真実を生きられたことを物語ると共に、病気という現実を素直にそっくりそののまま受け入れられたということが分かるからである。

    5. 第五に、仏は、「諸仏はこれ大人なり」と言うように、「大人」を表す場合がある。

      即ち、本当の大人は求めること、欲望満足の追求をしない(無所得・無所悟)人を言うのである。喩えて言えば、我がまま一杯(自己満足の追求)の子供(所謂「凡夫」即ち普通人)が物を欲しがって駄々をこねる時、その子を宥めすかす時のその子の親即ち大人の態度に比せられる。

      因みにの十種の徳号(十号)については以下の通りである。

      • 如来・応供(福徳智慧を具え、人間・天上界の者より供養を受ける意)
      • 正遍知(等正覚。あらゆる智慧を持ち一切万有を周知する意)
      • 明行足(過去現在未来の事を周知し、本願と修行を具足する意)
      • 善逝(無量の智慧で煩悩を断滅して俗界を離脱する意)
      • 世間解(人間界及び自然界のことをよく了解する意)
      • 無上士(衆生の中で最上者の意)
      • 調御丈夫(衆生の身心を調和し、諸悪行を制伏する者の意)
      • 天人師(人間や天上の者を教導する者の意)
      • 仏世尊(仏は知者・覚者の意。世尊は世に尊重せらるの意)。
      • その他善導とも云う。
        因みに仏の相好(顔形)は、三十二相八十種好あるとされる。

    6. 最後に、仏は、仏陀の略であり、仏陀とは「覚者」、「真理を悟った者」、「真理を実践している者」を意味する。

      教学では「一切法の性相(本性と現象)を如実知見し等正覚を成じた人」というようなことになるが、仏法(禅)に於ける最も標準的な意味は、上述のとおり、宇宙の真実(自我意識を超えた身体本来の生命の在り方)を厳しく実践(坐禅)している者ということになる。

      因みに仏は、古くは「浮屠フト」「浮図フト」等とも書かれていたと言われている。日本語で「ほとけ」と訓むのは、「浮屠家」から来たものであろうとも言われている。




二 仏祖


    ところで、「仏祖」即ち「仏と祖師」という言葉が禅では頻繁に使われるが、この言葉も、基本的に仏法や仏と全く同義で、宇宙・大自然の真実(尽十方界真実)の意味である。

    即ち、宇宙・大自然に生かされて生きているありとあらゆるもの、ないし永遠不変の生命の真実である。或いは人間生命の本来の在り方等を表現している。

    因みに、酒井老師によれば、道元禅師の『正法眼蔵』の内容は、まさに仏祖が根幹をなしているとされる。




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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・3 尽十方界・尽十方界真実

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