第T章 仏法の大意

  7 現成公案

前項で平常心是道が仏道の極意であることを述べたが、同様に「尽十方界」(宇宙・大自然)の絶対事実性(証)と絶対価値性(信仰)を説くのが「現成公案」である。

即ち「現成公案」は、仏法の根本は『法華経』であると考えておられた道元禅師が、同経の主題である「諸法実相」(ありとあらゆるものは真実である)の絶対事実性に加えて絶対価値性(絶対事実をそのまま受容することが最高の価値)をより明確化した言葉である。

そしてそれは道元禅師の主著『正法眼蔵』七十五巻本(巻一「現成公案」〜巻七十五「出家」)を貫く根本的な信仰の表現であると言える。





一 現成公案の意義

 

    現成公案」とは、「仏法」の項で述べたように、この世界のありとあらゆるものは全部真(本当)の事実、即ち『法華経』の所謂「諸法実相」である。

    しかも現在の事実(現実)は、如何なる状態にあっても、即ち人間にとって如何に不都合な事実であっても、それは全て過去の成果(「因円果満」という)であり、それ以外の事実は有り得ない、その意味で完全である。

    且つその時の宇宙・大自然(尽十方界)の絶対的事実(様相)であるから、全て取捨選択等せずに、その事実をそのままそっくり頂く(受け入れる)べきであることを言う。


    つまり宇宙のありとあらゆるのものは、人間の自我による価値判断には関係なく絶対的な真の事実であり、しかも此の世に完全に同じものは存在しないという意味で比較を絶した(「摩訶」と言う)独尊性の故に完全無欠である。

    現成公案は、このような絶対的な事実をそのまま素直に頂く態度を言うのである。

    なお、上述の完全無欠に対する「不完全」という概念は、人間が何かを基準にして物事を比較考量することから生じる概念であり、宇宙・大自然においては比較を絶しているから、全てそれ自身だけのものであるが故に完全である。

    また「不浄」「汚い」「ゴミ」等の概念についても同じことが言える。

    それは人間の自我の習性である比較考量の所産から来るものである。

    その証拠に田んぼの肥溜めの蛆虫を、さぞかし汚くて棲み辛いだろうと洗って奇麗にしてやると、死んでしまったという笑い話がある。

    因みに、「唯仏与仏乃能究尽(『法華経』)」(ありとあらゆるものは完全に尽十方界真実している)や「大地有情同時成道」(ありとあらゆるものは同様に完全に真実している)も現成公案の事実を表現している。


    ところで、現成公案という言葉の個々の語の意味については、酒井老師の「現成公案」巻の提唱録『安心して悩め』(大法輪閣)に於ける解説を紹介する。


    つまり、「現成」とは、「現実そのままが完全なもの、仏の姿である」ということであり、「現」「目前に展開している生の姿」、「人間の思惑(自我意識発現)以前のそのままの姿」を意味している。

    但し「隠顕」即ち「隠れていたものが表に顕れる」ということではない。

    また「成」は「成仏」の成であり、「完全」という意味である。つまり「目前に展開している事実が全て完全な事実である」ということである。

    次に、「公案」とは、「目の前に展開している現実の実態」のことである。即ちあらゆるものが如何なる状態にあっても全て真実であり、常に現実は変化している。しかもこのような事実の在り方自体は永久に変化しないということである。

    ここの「公」は「平と不平」ということ、即ち凸凹を平均するのではなく、凸は凸のまま凹は凹のままという意味であり、所謂「公平」という意味ではない。

    つまり「此の世に同じものは一つもない」という絶対事実としての現実を表現している。

    また「案」は、「守分」(絶対的)ということであり、「平は平、不平は不平、各々が絶対的である」という事を意味している。

    これについて「高所は高平、低所は低平」という有名な言葉があり、高いものを崩して低くすることではなく、高いものも低いものもそれぞれ等しく絶対的であることを表している。

    以上のことから、「現成」「公案」も結局同じ「尽十方界真実の実態」を表現しているのである。


    なお、「公案」の意味について、元の時代、臨済系の中峰明本(1263〜1323年)の『広録』中の『山房夜話』に「公案とは乃ち公府の案牘に喩るなり」とある(「公府」は政府のこと、「牘」は立札のことを指す)が、時間的にこれに先立つ『正法眼蔵聴書抄(御抄)』(1303〜1308年)は、「現は隠顕にあらず、成は作学にあらず。公と云うは平等の義也、案と云うは守分の義也。

    平不平を名けて公と曰ふ、守分を名けて案と曰ふ」と解釈しており、酒井老師は『御抄』説の方を中峰の解釈に当然先立つものとして採られている。

    因みに、道元禅師の「公案」は、上述の通り現成公案の意味であるが、臨済宗系統の公案禅(後述「坐禅」参照)の大家である大慧宗杲(1089〜1163年)のそれは、「古則公案」を意味し、真実は求めるものであって、それを会得すべくそれを目指して工夫するものだとしている。

    大慧の禅は、後述「坐禅」の「禅の偏向」の通り、自己満足の追求に過ぎないものである。

    本来「公案」とは、公案禅(看話禅)のように坐禅中に考えるようなものではない。

    公案は、日常生活において、仏法を学ぶ者の生活態度は如何にあるべきかを考える手本であって、これを鑑にして自分の生活を反省して生きていくべきものである。




二 『正法眼蔵』「現成公案」巻本文抜粋

 

    さて『正法眼蔵』「現成公案」巻の本文(抜粋)を学ぶにあたり、前掲『安心して悩め』を参考にする。なおこの巻を味わうには、当然後述「坐禅」の実態を述べたものであることを知っておく必要がある。


    ◎「自己をはこびて萬法を修証するを迷いとす、萬法すすみて自己を修証するはさとりなり。」

    まず「はこびて」と云うことを、『御抄』(『正法眼蔵』の注釈書の最高権威)は、「尽十方界自己なる道理」、即ち「萬法(尽十方界)と自己は一体である」、つまり「尽十方界(宇宙・大自然の生命活動)がそのまま自己(身体の生命活動)であり、自己が尽十方界である」ことだと解釈している。

    従って、この文章全体では、「迷い」「さとり」という言葉を暫く措けば、前半の「自己が萬法を修証する」ことも、後半の「萬法が自己を修証する」ことも、共に尽十方界の真実を修証する、つまり真実の修行及び真実の証(あかし)をすることである。

    端的に言えば、自己を自我意識から解放された本来の姿に戻すこと、即ち後述「坐禅」の姿を意味しているのである。


    ところで所謂「迷い」「さとり」は、あくまで「或時」の人間の精神状態即ち脳の生理現象であり、それはその時の身体に於ける生命活動の「表情」である。

    我々は、通常「さとり」は良くて「迷い」は悪いことだと考え勝ちであるが、仏法から言えば、どちらも脳の生理現象である自我意識の現われであることにおいて同価値であり、その時々の尽十方界真実人体(身体の生命活動)のすがた・表情に過ぎない。

    従って、前記文章における「迷い」「さとり」は、単なる言葉の綾としてその時々の人間の生命活動の表情・景色を表現したに過ぎない。

    つまり文章の綾として萬法(尽十方界)の方からと自己の方からと同じことを述べただけである。

    因みに真の「悟」とは何かと言えば、後述「悟」の通り、人間の精神状態の或特殊な状態のことを指すのではなく、自我意識発現以前の身体本来の生命活動の実態を言うのである。

    そしてそれは、身体を自我意識から解放することによって、身体本来の生命活動に任せることであり、そのための修行が坐禅(只管打坐)しかなく、それが「仏行」であり、「成仏」即ち「悟」なのである。


    さて以上から、前記文章は「坐禅の実態」を表現しているのであり、その意味するところは、我々が坐禅している時、「迷い」や「さとり」等様々な「念」が生じてくる(「忽然念起」と言う)。

    これは身体本来の生命活動の姿であり、生きている証拠として当然の姿である。様々な念が浮かんでくる事自体は、一般に誤解されているような所謂「煩悩」などではなく、後述「正念」であり、全てその時の生命活動の実態・真実、その時の尽十方界の様相即ち「現成公案」であり、そのまま全部頂戴するしかないのである。

    但し「坐禅」の項で詳しく説明するが、最初に浮かんだ念を掴まえ追いかけ始めると、それは自我意識の発現であり考え事になってしまって坐禅のあるべき姿ではなくなる。

    古来「坐禅の用心」として「追うな追うな」或いは「二念を追うな」ということが言われているが、蓋し先人の貴重な誡めである。従って、自分が望む或特殊な心理状態、例えば、俗に所謂「無」の状態になるための努力等は、当然自分が理想状態とする心理状態即ち自我意識による「取捨選択」が行われているものであって、全てをあるがままに受け入れる「現成公案」の修行とは程遠い。


    ◎「萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」

    「萬法に証せらるる」とは、尽十方界真実の実修実証即ち「坐禅」のことである。つまり後述「結跏趺坐」、即ち手を組み脚を組んで絶対に我がままを致しませんという自我の放棄の姿勢を行じている時、脳の生理現象として自然に様々な「念(考え)」が起こって来る。

    然し起こった念を、所謂「面壁」(壁に向かう結跏趺坐)の姿勢でそのまま掴まえなければ、即ちその念を次々追いかけて考えなければ、その念はその瞬間限りで自然消滅してしまう。

    つまり自我意識は発現せず、本来の生命活動の姿のままである。これが即ち、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」姿であり、「解脱」「三昧」の姿である。


    ◎「灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといえども、前後際断せり。」

    まず薪は燃えて灰になるが、仏法においては灰は後のもの薪は先のものと見てはいけない。薪は何処までいっても薪であり、また灰は元薪だと云ってももはや薪にはならない。灰は灰である。

    次に「薪は薪の法位に住して」とは、「薪は薪の在り方として在る」。一貫して前も薪であり後も薪である。

    「前後ありといえども、前後際断せり」とは、要するに昨日も薪であり今日も薪であるというような薪そのものの前後はある。

    然し薪の前は木であって薪になったとか、或いは時が経つと何かに変わったというように、物事を原因と結果或いは目的と手段というような「一連の(変化の)過程」として、即ち「分別して見る」のは、仏法の見方ではないということである。


    ◎「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。」

    「諸仏のまさしく諸仏なるときは」とは、端的に言えば、「坐禅の実態」のことである。

    つまり「坐禅」は、仏即ち「尽十方界真実人体」が仏即ち「尽十方界真実」を実践しているのであり、まさに「坐仏」であり「証仏(仏を証している)」であり、「証上の修(仏が仏を修行している)」、「修証不二(仏が仏している)」なのである。

    そして「諸仏」即ち「尽十方界真実」は、人間の感覚、知覚で把握することは出来ないものであるから、「坐禅者」自身が、自分が「仏」即ち「尽十方界真実」だと自覚することは出来ない。

    このことは、例えば『金剛経』「法の阿耨多羅三藐三菩提を得ることあること無し」という言葉があるが、特別の体験や意欲によって「阿耨多羅三藐三菩提」即ち尽十方界真実(身体の真の在り方)を実践しているのではないことを教えている。


    ◎「さとりの人をやぶらざること、月の水をうがたざるがごとし。」

    これは、水に映った月の光が、水に実際的な変化を何らもたらさないのと同様に、所謂さとってみても人間は少しも変わりはない。

    さとりと言っても、その時の尽十方界(宇宙・大自然)の様相、尽十方界真実人体のその時の景色・表情に過ぎない。


    ◎「このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案す。」

    これは、どんな小さなこと、どういうような事でも、一つの行為即ち「行李(その時の在り方)」は、尽十方界真実であり、尽十方界の生命力の現われである。

    従ってその時その場で例えば「坐禅」すれば、それがそのまま「現成公案」(現実をそのまま頂く)であるということである。


    ◎「得一法通一法(一法を得て一法を通ず)なり、遇一行修一行(一行に遇て一行を修す)なり。」

    これは、『御抄』の解釈によれば、「得一法通一法」とは、得坐禅通作仏というようなものだとある。「一法」を、「坐禅」と「作仏」とに置き替えてみれば良く分かる。

    坐禅をすれば「坐仏」「行仏」「証仏」である。大智禅師(1290〜1366年)の『十二時法語』は、叢林(寺院)生活では、一日十二時(二十四時)が全部成仏(完全な真実)の行でなければならないと教えている。

    これに関して、先の「薪」の文章の箇所で「生も一時のくらひなり、死も一時のくらひなり(生も仏(尽十方界)の姿、死も仏の姿だ)」とあって、「一時」とは単に「一時的な仮の姿」という意味ではない。

    その状態はその時の掛け替えのない「尽十方界の絶対的な様相」で真実であるから大切にしなければならないということである。

    どの瞬間も尽十方界の真実である。従って食事のときは食事に専念し、掃除のときは掃除に専念し、一つ一つの行為を全うして疎かにしないことが肝要である。

    この意味から道元禅師の宗旨には「腰掛け的発想」はない

    即ち一つ一つが「次の時間の為の用意」なのではない。

    大智禅師は十二時(現在の二十四時間)全部が尽十方界真実の修行でなければならないと修行(生命活動の本来の在り方)の用心を述べている。

    なお「遇一行修一行」についても、文章全体が対句であるから、得一法通一法と同じ意味にとればよい。


    ◎「しらるるきはのしるからざるは、このしることの仏法の究尽と同生し同参する。」

    この文章は解り難いと思われるが、「しらるるきは」は「知見の限界」のことであり、「しるからざる」(古語「しるし」ははっきりしているの意)は「不明なこと」である。

    注意すべきなのは、後段の「しる」は、「真実の実践」即ち坐禅のことであるが、「しらるるきは」の「しる」は「知覚」のことである。

    つまりここで云われているのは、我々の知見の限界ははっきりしないものであり、この知覚・感覚だけで本来の自己(尽十方界真実人体)を明らめるということは出来ない。

    それが故に、我々は坐禅をしていても何か物足りなく感じるのは当然である。

    上述のように、知覚がすべてではないから、坐禅において絶対に知覚による満足は有り得ない

    然し身体全体からすれば、知覚はその一部に過ぎず、身体全体が尽十方界真実そのものであるから、自分がそれを知覚するしないに拘わらず、身体全体は何時でも「尽十方界真実を実修実証」即ち生命本来の活動(修行)をしている。

    つまり人間は自分の身体そのものの存在や生命そのものに対しては無感覚であり、何の疑いもなく信じきっている。

    この事実が後述「信」 の姿である。

    要するに、我々が只管打坐の坐禅を行ずることが「しる」こと、即ち尽十方界真実の実践であり、「仏法の究尽」である。そしてそれが上記の「仏法の究尽と同生し同参する」即ち仏法の真実を実践するということである。


    ◎「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず。見成ゲンジョウこれ何必カヒツなり。」

    「証究」とは、「坐禅」のことであり、「証究すみやかに現成す」とは、坐禅は所謂「坐る技術」等を必要としないから誰でも出来る。

    また「密有」とは、「自我意識に汚されない身体の生命の在り方」を言う。

    この場合の「密」は、「親密」という意味である。

    従って「密有かならずしも現成にあらず」とは、「真実の在り方は必ずしも感覚的な目前のすがたとして掴まえられるものではない」ということである。

    更に「何必」は、「何ぞ必ずしも〜ならんや」という意味であるから、物事には様々な姿が有り、或一定のものに限っていない、即ち「〜でなければならない」ということはないということである。

    つまり現成公案の信仰から言えば、どんなものでも全て仏法であるから、そっくりそのまま何でも頂戴する。

    自分の好みで取捨選択しないということである。

    要するに「見成これ何必なり」とは、現実に目前に現れている事物は皆尽十方界真実であるから、その時その時の尽十方界の環境に素直に随順して全て受け入れていくことだという事である。

    まさにこれが、現成公案の信仰である。




三 風性常住無所不周の公案

 

    「現成公案」巻の最後に馬祖の弟子だと言われる麻谷山宝徹禅師と僧の問答があり、「扇を使う」ことと「風性常住無所不周」の道理との関係を教示しているので、概要を説明する。


    或暑い日のことであろう。麻谷山宝徹禅師が扇を使って涼をとっていた。そこへ修行僧がやって来て「風性常住無所不周(風性は常住であり、風性の無いところは何処もない)なのに、和尚、わざわざ扇を使う必要がないではありませんか」と言った。

    すると和尚は「なんじただ風性常住をしれり(風性常住という言葉は知っていても)とも、いまだところとしていたらずといふことなき(何処にでも有る)道理をしらず」と答えた。

    そこで僧は「和尚の仰る無所不周底の道理とは何ですか」と聞く。

    これに対して、和尚は何も言わず、ただ扇を使って知らん顔をしていた。

    そこで、はじめてその僧が「ありがとうございました」と感謝の礼を述べた、という話である。


    まず、前掲『安心して悩め』の酒井老師の説明によれば、『涅槃経』「師子吼菩薩品巻三十」「常法とは住すること無し。若し住処あれば即ち是れ無常なり」を引かれて、「常法」とは「止まってはいないこと」であり、「常住」とは「動いている」ことである。

    もし「住処(留まるところ)」があれば「無常」即ち常法とは言わない。

    但しこの場合の「無常」は「諸行無常」の用法とは意味が違う、と述べておられる。


    ところで、ここのテーマは端的に言えば、「本来成仏(本来仏)」だから「修行」は必要ないのではないかと云う僧の疑問に答えるものである。

    つまり「本来成仏」とは、我々が尽十方界に生かされて生きている事実(尽十方界真実人体)を言うのであるが、それならば、本来成仏の姿である尽十方界真実人体に殊更「修行」(尽十方界真実の実践)は要らないのではないか、という疑問である。


    然し、結論から言えば、本来仏即ち尽十方界真実人体(大自然の生命を生きている)であっても、自己満足追求に終始する日常生活を送っている限り、自我意識に振り回されて本来の生命の在り方である尽十方界真実人体(仏)からは隔たった姿でしかない。

    従って本当に尽十方界真実人体(仏)であると言えるためには、実際に自己満足追求を放棄する努力即ち修行が必要になるのである。

    つまり「修行」とは、自我意識発現以前の身体本来の生命活動のことであり、これがこの「風性常住」の公案の本当の意味である。

    ここでは実際に扇ぐという行為によって始めて風性常住だと言えるのである。

    即ち「風性常住」主義や思想ではない。風性常住ということは「無所不周」ということであり、事実の問題である。

    僧は「無所不周」ということで、何処にでも風というものが存在していると思っていた。風性常住だから何処でも風が吹いていると考えていた。

    そこで和尚は、僧が「何処でも風を起こすことが出来る」という風性常住の言葉だけを知っていて、風性常住の本当の道理が分かっていないことを、実際に扇を使う事によって僧に示したのである。

    即ち何処でも扇を使いさえすれば風は起きる。これが「常住」というものだと示された。

    そして実際に「扇を使う」ことで、実際に「修行する」ことを表現したのである。

    つまり扇を使っている間風が来る。「風が来る」ということが「無所不周底の道理」である。だから誰でも扇を使いさえすれば、必ず風が吹く。

    同様に、誰でも今此処で実際に尽十方界真実を実践(「実修」)即ち坐禅すれば、同時に「実証」即ち自我意識に汚されない生命本来の姿(仏)に還るのである。

    正に「修証一如」の「本来成仏」である。つまりその場その時行ずれば、それがそのまま現成公案を行じているのである。

    なお、風性常住は「仏性常住」(後述「仏性」の項参照)のことであり、仏性常住が無所不周即ち尽十方界真実の姿であるということを示されたのである。




四 現成公案の信仰

 

    以上、「現成公案」巻の本文の抜粋から、尽十方界(宇宙・大自然)の事実の絶対性とその事実に絶対価値を認める現成公案の信仰が如何なるものかを見てきた。

    つまり説かれているのは、まず尽十方界のありとあらゆる事実が真の事実(真実)であることを認識し、同時にそれを単に認識するだけに停まらず、絶対的価値として全部受け入れることであり、更にその価値を実際に実践していくことである。

    そしてその具体的実践方法が正に只管打坐の坐禅であり、その坐禅の実態や風景、更にその用心が説かれているのである。

    つまり尽十方界真実人体である我々が、尽十方界真実である本来の生命活動を自我意識に汚されずに忠実に実践する唯一の方法が坐禅なのである。

    そして具体的な坐禅の実際について言えば、我々においては脳の生理現象として自然に様々な念(考え)が浮かんで来る。

    念が自然に浮かぶこと自体は身体の生命活動であるから、尽十方界真実として素直に頂くしかない。

    それはその時の尽十方界の真実であり現成公案であるから、全て受け入れるしかない。

    この場合念が浮かばないように自ら意識して念の発生を押さえ込もうとすることは、逆に自我意識を働かせることになると同時に、自分の好み或いは満足を追求することになり、坐禅本来の在り方から乖離する。

    但し「すべて頂く」という意味は、次々起こって来る念を全部追いかける事ではない事は言うまでもない。

    その様な事を始めると、そこから自我意識の活躍が始まり正しい坐禅の姿は失われる。

    結局後述「正身端坐」して、次々起こってくる念をその都度追わず、身体本来の在り方に任せていくことが、現成公案を実践することである。


    そして、更にこの現成公案の信仰を日常生活全体に及ぼし実践していく処に本当の仏道があるのである。

    即ち、我々がこの宇宙・大自然に生かされて生きている絶対事実に覚めて、且つ我々が好むと好まざるに拘わらず、生起する現在の絶対的な事実(現実)を、選り好みせず全部そのまま受け入れて、これに随順していくことが、現成公案の信仰に基づく生き方であり、三祖鑑智僧サン(〜606年)の『信心銘』に所謂「至道シイドウ無難、唯嫌揀択ケンジャク」なのである。


    尤も現成公案の信仰を実践することは非常に難しいことである。

    実際問題として、例えば我々の日常生活において、全く受け入れがたい悲しい事実が発生することがある。

    初めは驚き、戸惑い、悲しみに襲われ、本当に現実なのだろうかと何度も疑い、やがてどうしようもない絶対的事実だと分かると絶望に見舞われる。

    そして自分の力では如何にもならないにも拘わらず悩みに悩みぬく。まさに迷いの暗愚の世界であろう。

    ところが、人間生命の不思議であるが、ある時ふと気持ちが変わって軽くなるときが来る。悩みの原因を分析したり、今後の将来に見通しをつけたりして、浄土真宗等で云う所謂「決定ケツジョウ」するような時が訪れる。

    これを俗に「さとり」と言えば言えないこともない。然しさとったと思っても、再び当初のような迷いに見舞われることもあり、更に再びさとるというようなことの繰り返しが続く。

    結局真の解決等は無く、次第に当該事実に対する心境が変化し希薄になっていくだけである。

    以上のような人間の心理・精神作用は、まさに生きている身体の生命活動の表情・風景であり、生命にリズムがあることの証拠である。

    要するに、現成公案の信仰を生きる上で重要なことは、迷いも悟りも全部身体の生命活動の表情・風景であり、迷いを捨ててさとりたいと考えるのではなく、その両方を素直に頂戴して生きていくしかない、即ちただ身体にお任せして生きて行くだけである。

    実際に我々凡夫(普通人)はそのような生き方をせざるを得ず、現実にそのようにさせられているのである。


    ただ仏法を明らめた者凡夫との相違は、人間生命の在り方を本当に自覚しているか否かの違いだけである。前者は生命の在り方を自覚してそれに振り回されず、現成公案の修行を生涯続けるだけのことである。

    因みに、現成公案の信仰に生きた良寛さん(1758〜1831年)の「地震災害の見舞い状」(三条大地震(文政11年(1828)11月12日))に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と有名な言葉がある。

    また同じ良寛さんの詩句の一節に、「智愚両不取(智にも愚にも与クミしないことこそ)始称有道児(有道者と呼ぶに値する人なのだ)」とあるが、まさに現成公案の実践者であると言える。




五 「現実をそのまま素直に頂く」の意味(私見)

 

    以上現成公案について述べてきたが、まさに仏法の頂き方(現成公案)として、酒井老師が常々「現実をそっくりそのまま素直に頂くことである」と仰っていた。

    既に4、現成公案の信仰でも述べた、受け入れがたい悲しい事実が発生した場合だけに限らず、日常生活の中で生じる種々のケースについて具体的には如何すればよいのかという疑問が生まれる。そこで以下に私見を述べてみたい。


    凡そ仏法を学ぶ者の基本姿勢は、先ず大自然に生かされて生きている現在の自己(尽十方界真実人体)は全て過去の成果(遺伝的素質が環境との相互作用により形成して来た現時点の全人格)であり、しかも実際に現在の自己の在り方以外には有り得ない絶対的な自己(現在の尽十方界の一様相)であることを深く自覚しなければならない。

    その上で、その現在の自己をそのまま素直に受容、即ち過去の自分を反省することはあっても、決して劣等感や不平不満或は優越感等を抱くことなく、有りの儘の自己を認識し、且つ現在置かれている自己の境遇に素直に順応して生きていくことである。

    ところで日常生活の中で、自己が何か新しい事態に直面するようなことがある場合、通常喜怒哀楽等の興奮に上せることが多いが、上述現成公案の信仰でも述べたように、時間が経てば次第に自己の生命本来のリズムに戻り、必然的に平常底(生命本来の在り方)に収まらずには収まらないものであることもよく自覚すべきである。

    さて次に、具体的なケースとして、自己が生きていく際の「現実をそのまま素直に頂く」という意味は以下のように考えられる。


    1. 「現実」とは、現在生起し或は生起しつつあって実際に自己が直面するありとあらゆる事実(尽十方界の現時点の様相)を言う。

      即ち直接間接に自己に影響を及ぼす可能性があるため自ら実際に何らかの対応を迫られる、自然・物理現象(地震・風水害等)、政治的(選挙の投票行動等)・経済的(物価変動等)・社会的(秩序・風俗等の変化)事実、或は他者及び自己の行為(場合によっては火災・交通事故等の過失行為等)並びに事実(発病等)等、その他あらゆる出来事(「諸法実相」)である。


    2. 「そのまま素直に頂く」とは、上記現実に対する認識及びにそれについての対応即ち決断及び行動等以下の一連の行為を言う。


      • 先ず上記現実に直面した場合の自己の認識は、自己の能力・知識・経験・境遇等(全人格)に相応した自己の主観的認識であるが、その時は自己にとってそれ以外の認識は不可能であり、その自己の主観的認識をもって対応する(現実と自己はその時の尽十方界の様相として一体即ち依正一如である)しかない。


        その際、欲見・僻見・偏見等自我に基づく認識の偏向(本来「そのまま素直」とは言えない)が存在しても、自分自身に偏向の自覚がない限り、そのまま主観的認識を構成する。

        もし偏向に気付けば正すべきである。また一般的には、自己が現実に直面した時点に於いて自己の主観的認識をもって対応(決断・行動)するのが通常であるが、実際の対応迄に時間的余裕がある場合、専門家等他人の意見を参考にすることも有り得る。当然参考にする行為は自己の人格態度(その時の尽十方界真実人体の様相・表情)そのものである。


        なお、『正法眼蔵』「都機」巻は、我々の常識的な判断や物の見方を批判し、真実は直観するものである、即ち例えば「舟行けば岸移る」の例で、舟と岸はその時の尽十方界の様相として一体であり、生のままの感覚(岸移)をそっくりそのまま受け取るべきであり、「認識のための置き換え」は不要であるとされる。

        つまりそう(岸移の如く)見えるように我々の腦は働いている(尽十方界真実)。

        ところが我々は過去の知識・経験等により記憶している概念(岸は動かない)に一度置き換え、納得して自分の理解を作り上げている。

        (前掲『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著 ちくま文庫81〜97頁参照)

        勿論この巻の主眼は、本来尽十方界真実は人間が理解し納得し得る対象ではないと言うことを教示している。(本書第U章、5、12、第二十三「都機」巻参照) 


      • 次に上記認識に基づき自己が実際に対応即ち決断し且つ行動する。但し、欲見・僻見・偏見等偏向に基づく対応は、自ら気付く限り当然避けるべきである。なお場合によっては、対応には不作為(何も対応しない)も有り得るのは当然である。


      • 更に、現実をそのまま素直に頂いた結果、実際社会において生じた評価や効果等が、世俗的に自己に不利なものであっても、全て潔く受け入れる覚悟がなければならない。


    3. ところで仏法から言えば、上記認識や対応に於いて合格・不合格は無い(如何せねば或は如何あらねばならぬことは無い)。つまり如何なる対応をしても本来成仏即ち大自然に生かされて生きている事実(尽十方界真実人体)に変わりは無い(例えば犯罪者も大自然に生かされて生きている)。

      言わば、どんな行為も尽十方界(宇宙・大自然)のその時の一様相であり、尽十方界真実人体のその時の在り方・表情である。例えば、迷・悟が生命活動(尽十方界真実人体)の表情であり、何れも表情であると言う点で尽十方界真実として変わりがないのと同様である。 

      ただし人間社会(自我世界)に於ける評価(成功・失敗等)は別問題である。


      仮に、素直に頂かなかった(自己満足追求等の)場合も、同様に尽十方界のその時の一様相であり、本来成仏(尽十方界真実人体)であることに変わりは無い。

      また当該行為が惹起した実際社会での評価・効果等も同様に別問題である。


    4. 最後に、以上如何なる行動(対応)をとっても、本来成仏ならば、仏道修行など必要無いではないかという古来天台本覚門に提起された根本的且つ重要な疑問が生じる筈である。


      然し仏道とは、大自然から授かった自己の生命(本来仏)を、深信因果不昧因果即ち因果不可避)(本書第2章、四、因果参照)の道理に従って、欲望満足の追求や自我の暴走のため(自我活動は仏の行為ではない)に奉仕しないよう努めることである。

      また人間の自我に関係のない宇宙・大自然から見れば、人間の自我は生命活動の全てではないことが明らかであり、大自然本来の在り方即ち無所得・無所悟(ただ生かされて生きている在り方)の尽十方界真実の実践(仏行=只管打坐)を努力することが、本来の大自然の在り方に忠実な生き方なのである。

      従って仏道は、単に坐禅時のみならず日常生活においても、自我の放棄・超越を修行する坐禅を常に標準として生きることが最上(畢竟帰処)であるとする信仰であり、前記の通り本来だからこそ、仏に相応しい行を只管努めるだけである。


      なお、「現実をそのまま素直に頂く」を坐禅そのものに即して言えば、坐禅中自然に沸々アタマに浮かぶ種々の念(あらゆる現実)は、そのまま素直に頂く(浮かび放しにして取り合わない(不作為))が、その種々の念を殊更浮かばないように努力したり或は追いかける(思考活動)ことは、現実をそのまま素直に頂かないことになる。

      また特殊な心理状態、例えば一般に誤解されているアタマに何も浮かばない所謂「無」の状態や恍惚的な心理状態(幻影)を現出させようとすることも、すべて自然に反する自我活動である。肝要なことは、常にアタマのノボセを覚ますことである。


  



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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・8 仏道

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