第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子(カンレイス)

1 般若波羅蜜

前章「仏法の大意」では、仏法が如何なるものかについて詳しく述べたが、その中で、道元禅師の主著『正法眼蔵』を貫く最も重要な「現成公案」や「尽十方界(真実人体)」「坐禅」等、その言葉を使用せずには仏法を語れない仏法要語の意義・内容について説明した。
そこで本章では、前章では敢えて触れなかったが、当然仏法を語る場合の常識として知っておかなければならない仏法要語で、且つその要語が主題である『正法眼蔵』の主要巻の関捩子(カンレイス要諦)を説明することにした。

さて本項の「般若波羅蜜」という語は、一般によく知られている『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の文句であるが、インドの経典を中国語に訳す際に、インドの梵語の音をそのまま中国の漢字の音に当て嵌めたものと言われている。そしてこの言葉は『阿含経』のような小乗仏教の経典にはなく、大乗仏教『般若経』から始まるものである。
ところで道元禅師は『正法眼蔵』七十五巻本第二「摩訶般若波羅蜜」巻で前掲『摩訶般若波羅蜜多心経』の語句を解釈して般若波羅蜜が如何なるものかを説示されている。なお題名の『正法眼蔵』という言葉は「正法眼蔵涅槃妙心」を略したものであるが、正法眼蔵涅槃妙心とは尽十方界真実(宇宙・大自然の生命活動の事実)のことである。
従って『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」とは「正法眼蔵涅槃妙心である摩訶般若波羅蜜」という意味であり、摩訶般若波羅蜜は尽十方界真実のことだということになる。





〔1〕 般若波羅蜜の意義


    さて以下に酒井老師の『正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜の巻』(大法輪閣刊)を参考に述べる。
    前述のとおり「摩訶般若波羅蜜」とは、尽十方界真実即ち宇宙・大自然の生命(生滅)活動のことである。
    これは『法華経』の「唯仏与仏乃能究尽」という言葉と同義であって、全てのものは真実であり完全であることを表現している。
    まずこの言葉を構成している言葉の意味を説明する。


    まず「摩訶般若波羅蜜」の「摩訶」であるが、「摩訶は般若波羅蜜なり」と訓まなければならない。即ち摩訶は一般に「大」と訳されるが、物の大小を比較して一方が大きいというような人間の比較概念の大ではなく、この世界のありとあらゆる物は、「比較を絶した」絶対的な「大」であることを意味している。
    つまり尽十方界のあらゆる物は比較を絶した大きさであり、例えばメダカも鯨も何れも摩訶であることに変わりは無い。
    即ち「摩訶」とは「般若波羅蜜」が尽十方界(宇宙・大自然)規模の大きさであることを表現した言葉である。


    次に「般若」とは、一般に「智慧」と訳されているが、決して適切な訳ではなく、本来「自然現象・大自然の働き」のことであり、一刻も休むことなく生き続けている尽十方界の生命活動のあらゆる様相(正法)を表現している。

    この世界の全てのものは自分勝手に独立して存在したり、生きているものは無く、尽十方界(宇宙・大自然)全体の命を生きている。
    即ち個々のものは生かされて生きており、人は人を、石は石を全うしている。
    この事実を「智慧」即ち「如来智」「無分別智」などと言っている。
    我々の日常生活のあらゆる状態がこの大自然の働きによるものであり、如来智の光明(恩寵)である。因みにこの尽十方界の在り方を「極楽浄土」「寂光浄土」等とも言うのである。

    なお「浄土」とは、修行(生命活動)が行われるところであり、「仏国土(仏土)」とも言うが、端的には尽十方界真実人体である「身体の本来の在り方」のことを言うのである。

    従って所謂「自力」という概念は尽十方界には無い。要するに「般若」とは、全て自然に授かっている能力、即ち身体に本来恵まれた能力のことであり、全てのものが真実で完全な仏(尽十方界真実)の姿であることを表現しているのである。

    なお般若は「大火聚」(大きな火の集まり)に喩えられるが、「大自然の働きは人間の分別を灼き尽くす」という意味から言われる言葉である。

    最後に「波羅蜜」とは、「度(渡す)」、「到彼岸」等と訳されるが、これも尽十方界真実ないし生命活動の実態を意味し、無余無欠、完全無欠、或いは「無相」即ち意識分別以前の働きを表現している。
    要するに尽十方界真実が生活に具現されることを表している。

    なお「彼岸」とは、尽十方界真実、本来の姿・在り方のことである。因みに「六波羅蜜」とは布施・持戒・忍辱ニンニク・精進・禅定・智恵の各波羅蜜のことであり、大乗仏教の修行の必須条件である。




〔2〕 『正法眼蔵』「摩訶般若波羅蜜」巻の関捩子(要諦)


    前掲「摩訶般若波羅蜜」巻は、『般若心経』の冒頭の「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空」という語句を解釈して、「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずる時の様相は、渾身の照見五蘊皆空なり」ということ説示する。
    つまり観自在菩薩(観世音菩薩)は大乗の菩薩であるから(深)般若波羅蜜多(尽十方界真実)を修行されるのである。
    尤も般若波羅蜜多を修行するのは仏法修行者の根本であり、観世音菩薩の専売特許だというのではない。

    ところでその修行の様相(在り方)は、「渾身の照見」即ち「自我を超えた身体全体の修行だ」というのである。
    この場合の「照見」は、「見る・見られる」という能所(自我の対立世界)を超えたその時の身体全体の活動であり、尽十方界(宇宙・大自然)のその時の様相即ち「般若(大自然の働き)」である。

    先述「坐禅」の項の宏智正覚撰述の『坐禅箴』の「不触事而知、不対縁而照」の「知」や「照」が尽十方界の生命活動であり、いずれも「尽十方界(真実人体)の或る時の様相」であることと同じである。
    しかも「渾身の照見」即ちこの身体の活動全体は、「五蘊皆空」即ち「尽十方界真実人体の相(在り方)」であるというのである。
    なお「五蘊」(色受想行識)とは「身心の活動」のことであり、「空」とは「何も無い」というような単純な有無の問題ではなく、般若の様相即ち「尽十方界真実の在り方」、「大自然の絶えざる生滅活動の実態」を言う。


    要するにここで述べていることは、観世音菩薩が尽十方界真実を修行する時の姿は、尽十方界真実人体が尽十方界真実を全身で実修実証する姿、即ち「只管打坐」の坐禅を行ずる姿に外ならないと示されているのである。
    因みに『愚管抄』の作者である慈円(1155〜1225年)の歌に「ひきよせてむすべば柴の庵にてとくればもとの野はらなりけり」とあるが、空というもののイメージを説明している。
    そしてインド大乗仏教中観派竜樹(150〜250年頃)の所謂「空観」は、古代ギリシャの哲学者アリストテレス(BC384〜BC322年)の「有無」だけの「形式論理学」を否定する性格のものである。


    続いて「摩訶般若波羅蜜」巻は、「五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり」と述べて、「色受想行識」即ち身心の活動は、「五枚の般若」即ちすべて「尽十方界真実の様相」を示すものであり、その時その時の「現成公案」として真実である。つまり色受想行識のどの働きも般若(尽十方界真実)であることを示されている。


    更に「摩訶般若波羅蜜」巻は、「この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり」と示される。
    「この宗旨の開演現成」とは、「上述の般若波羅蜜(尽十方界真実)の様相である現成公案の真実を更に解説すると」ということであり、それは「色即是空なり、云々」という事であると、敷衍し解説される。


    一般に「」とは、形あるもの、現実の様相、目前に展開する事実のことである。因みに所謂「唯識論」では「色(法)」に対する注釈として、「質礙ゼツゲの義」即ち「眼識(認識)の衝立ツイタテ」としている。衝立とは認識する場合に対象物にぶつかるという意味である。
    つまり我々を取り囲む「環境全部」が「色(法)」であり、尽十方界真実の一様相である。唯識の「見分」(見るもの)と「相分」(見られるもの)の関係、即ち「相分転じて見分を知る」ということについて、酒井老師の説明(前掲『安心して悩め』二一六頁)を引用する。

    「例えば我々が、朝目が覚める。この時「目が覚める」のが先か「外が見える」のが先か。実際は「目が見える」から目が覚めた。「外が見えた」から、自分が「ものを見ている」事を「比知」(推量によって知る)した、それで「目が覚めた」ことが分かった。
    即ち我々には、自分の「見る」ということが直接には解らない。第三者になることが出来ないからわからない。
    従ってどんなに「自分を見極めよう」と思っても、見極める事は出来ない。これが「無量無辺」と言うことである。
    この事実をはっきりつかめば、一つの「行為」(行李)というものが如何に偉大なものであるか。単なるものを「見る」ということも、それが「現成公案」であるということがはっきりする。」


    さて、改めて「色即是空」とは、現実の様相(色)は一時的な仮の姿ではあるが、尽十方界真実(空)のその時の様相であり絶対的事実である。
    即ち現実の四大五蘊のこの身体は、一時的な姿であっても絶対的な真実の姿である。既に「禅」の項で述べた、玄沙の「この身あるに非ず、痛、何れよりか来る」という公案が、まさに現実の身体の「痛」であり、回避できない絶対的な真実であることを教えている。

    また「空即是色」とは、尽十方界真実(空)の実態は、現実の目前に展開する事実(色)でしか認識(感覚)できないということである。

    更に「色是色」とは、勿論『般若心経』にはない言葉であるが、道元禅師は、現成公案の信仰を徹底すれば、人間が理解するための「色即是空」や「空即是色」というような迂遠な説明も不要であり、現実の姿(色)は何処までも現実(色)の絶対的事実として頂けばよいと説かれる。

    同様に「空即空」も、真実(空)の姿は何処までも真実(空)そのもので絶対的であるということを徹底して示された言葉である。

    ところがこのように説明してきても、未だ「色」や「空」というような言葉は何か概念臭ささが残る。

    そこで「百草なり、万象なり」と、我々の目前のありとあらゆる現象や事件「百草」、「万象」という言葉で表現し、般若波羅蜜(尽十方界真実)の実態を我々に分らせようとして示されたのである。

    なお「摩訶般若波羅蜜」巻は、小乗仏教で説かれた「苦集滅道」の「四諦」(後述「因果」参照)も般若であり、上述「六波羅蜜」も般若であり、「過去現在未来」も般若であり、「六大」(四大+空・識)も般若であり、「四威儀」(行住坐臥)も般若即ち尽十方界真実の姿であることを親切に示されている。

    以上「摩訶般若波羅蜜」巻の最も根本的な箇所の要諦について述べたが、詳細については前掲『正法眼蔵・摩訶般若波羅蜜の巻』を参照されたい。




〔3〕 『金剛般若経(金剛般若波羅蜜経)』


    更に、同じ『般若経』の一つ『金剛般若経(金剛般若波羅蜜経)』(第1〜第32部)の主要な語句を紹介する。

    この経は完全な菩薩をつくること、即ち大解脱を得させること(「大乗正宗分第三」)、そして「無我(自我の放棄)の徹底」(「究竟無我分第十七」を根本とする経典である。
    ここに「自我の放棄の徹底」ということは、菩薩に本来「衆生済度という意識」があってはならないし、また「衆生済度の対象など無い」ということである。
    何故なら『華厳経』の「心仏及衆生是三無差別」から言えば、「衆生」とは一時的な姿で、本来の姿は「仏」(尽十方界真実人体)であり「心」だからである。 


    さて、この経の特徴の一つに有名な「金剛の三句」と言われる独特の説き方がある。

    まず、例えば、「荘厳浄土分第十」は、「菩薩の真の修行」について説いているが、「荘厳仏土者則非荘厳。是名荘厳。」(仏土を荘厳すというは、則ち荘厳に非ず。是を荘厳と名づく)と言うような説き方である。
    つまり「荘厳」とは修行、「仏土」とは尽十方界真実人体のことであるが、「目的・意欲を持ってする」修行(荘厳)は、本当の修行(荘厳)ではない。
    「自我意識を放棄」して尽十方界真実人体(仏土)に還ることを修行(荘厳)というのであると。
    なお「仏土荘厳」については、前掲「究竟無我分第十七」にも同様の三句がある。

    尤もこのような説き方において、「非」を否定ではなく、「大自然の、絶対的な」という仏法の常識に従って解釈すると、「尽十方界真実人体(仏土)を修行(荘厳)するということは、大自然の無我(非)の修行(荘厳)であり、これを真の修行(荘厳)と名づく」というように素直に読める。

    次に、「如法受持分第十三」(如法に受持・修行すること)に「仏説般若波羅蜜。則非般若波羅蜜。是名般若波羅蜜。」(仏の般若波羅蜜と説けるは、則ち般若波羅蜜に非ず。是を般若波羅蜜と名づく)とある。(但し別本には「是名般若波羅蜜」を欠くものが有る。)
    つまり、真実は言葉ではないこと、言葉(概念)と実物は異なるということを分らせることが目的であり、仏法は感覚・体験(生活)以前の事実であることを分らせようということである。
    そして「これこそは般若波羅蜜(尽十方界真実)だ」と決まったものはない、そしてそのことが本当の般若波羅蜜の在り方だということである。
    これも「非」を上記のように解釈すると、仏が般若波羅蜜と説くのは、「非(大自然の絶対的な)」の般若波羅蜜であり、これを般若波羅蜜と名づけるということになる。

    また、前掲「究竟無我分第十七」に、「所言一切法者。即非一切法。是故名一切法。」(言う所の一切法は、即ち一切法に非ず。是の故に一切法と名づくるなり)とある。
    「一切法は即ち一切法に非ず」ということは、「平常底」即ち何とも無い(無感覚)、特別なことは無いということを説くと同時に、「一切法」、即ち「皆同じ」という「区別を無視」した概念で括ってしまい、実際には「差別」があることを見失ってしまう。
    そこで「一切」という概念を否定する必要がある。しかも実際に区別はあっても、ありとあらゆるものは真実であるから、「一切法」(尽十方界の真実)というのである。(これについても同様に「非」を上記のように解釈することが可能であるが省略する。)

    なおこの巻は、「無我の徹底」を説くものであるから、「法有って(成仏してやろうと野心を持って)、阿耨多羅三藐三菩提(尽十方界真実)を得ること無し」という言葉もある。

    更に、「非説所説分第二十一」(所説は説に非ず)に、「説法者無法可説。是名説法。」(説法とは法の説くべきもの無し。是を説法と名づく)とある。
    「説くべきもの」即ち「所説」とは、自分の主張(思想)を持っていることである。本来所説(思想)が無いということが仏(尽十方界真実)の説法である。要するに人間の判断基準には偏りがあり、尽十方界のすべてを頂かなくてはならないことを示している。


    以上「金剛の三句」の例を述べたが、その他『金剛経』の重要な教説には以下のものがある。

    まず「一体同観分第十八」(全てを一体として観る、即ち一体は無我(般若波羅蜜)のこと)に、後述「心不可得」巻の「徳山婆子」の公案で有名な「過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得」の語句がある。
    「心不可得」とは、「心は不可得なり」ということであり、心も不可得も尽十方界真実のことである。我々の生きている事実はただ「不可得」(尽十方界真実)の事実の中でこのように生かされて生きている。人間は自我意識により、生理現象として「過去現在未来」のことを考える。
    「不可」は、人間の意思意欲発現以前の生命活動の様相を表現している。つまり人間の生命活動を過去現在未来で表現しているのである。

    次に前掲「荘厳浄土分第十」に、六祖が仏法を志す機縁になった「応無所住而生其心」(応無の所住、而生の其心)の句がある。
    つまり、全てのものは応無(活動し続けている)の所住(固定したもの無し)であり、所住は而生(「而今」即ち現実に生きている)であり、而生は其心(生命そのもの)であるということである。
    「住」とは「感覚に縛られる」ことであり、「心を生ず」とは「生きること」である。

    つまり全体として、決まったもの(自分の志向)を持たないで、本来の自己を生きる、即ち目的(満足)追求のための修行をせず、無所得・無所悟の菩薩の修行をすることを説いている。 更に「威儀寂静分第二十九」の「如来者無所従来亦無所去故名如来。」(如来は、従来する所も無く、亦、去る所も無きが故に、如来と名づく)という語は、尽十方界の全てのものの在り方、即ち人間は理解したがるが、ありとあらゆるものは理由なく唯生滅しているという尽十方界真実の実態を説いている。

    最後に「応化非真分第三十二」の有名な「金剛六喩」は、次のとおりである。

    一切有為法(自我生活)如夢幻泡影如露亦如電応作如是観(そっくりそのまま頂く只管打坐の修行)。」(一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、亦電の如し。応に是の如き観を作すべし。)
    なお「如」とは「絶対的事実」ということである。即ち「夢幻泡影」や「露・電」も一時の姿であるが、尽十方界のその時の様相としては絶対的事実である。




<仏法の常識>

 

  • 五蘊」(色受想行識)とは身体の活動。色は身体の形、受は受け取る、想は考える、行は行動、識は判別。「十二処十八界」とは自我の世界の働き、尽十方界真実人体の働き。
  • 滅度」とは、大自然の姿、寂静・寂滅。全てのものを本来の在り方にすること。
  • 八不中道」とは、諸法の永遠不変の真実相、即ち「八相」(不生・不滅、不常・不断、不一・不異、不来・不去)をあらゆるものは逃れられない。「生滅・常断・一異・去来」は諸法の真実相の在り方(『中論』)である。「不」は絶対的、大自然の姿。
  • 「四大」(地水火風)は全ての物に共通する相反する性質(地は固定、水は濡れる、火は熱くなる、風は動く)。
  • 仏教における「論」は解説の意。





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