2 法華
「法華」という言葉は、勿論大乗仏教の根本経典である『妙法蓮華経(法華経)』の題名に由来する言葉であるが、尽十方界(宇宙・大自然)は、「法」(真実)の「華」盛り(展開)であるという意味である。さて『正法眼蔵』「法華転法華」巻は、六祖大鑑慧能がその偈の中で「法華転法華」(法華が法華を転ずる)という言葉を用いて、天台教学の『法華経』の概念を遥かに超える宗旨を表現したが、道元禅師はその宗旨を更に発展させて『法華経』の根本を説き明かしている。
つまりこの世界の実態は「法華転法華」(尽十方界真実の展開)だとされる。
元々『正法眼蔵』は『法華経』に根拠を持つことが明らかであるが、「法華転法華」巻は正に道元禅師の仏法を知る上で非常に重要な巻である。ところがこの巻は『正法眼蔵』の所謂七十五巻本や十二巻本には含まれていない。
酒井得元老師は、その理由を、七十五巻本や十二巻本は「正法眼蔵涅槃妙心」の在り方を詳述したものであるが、それを改めて具体的・現実的に述べたものが「法華転法華」巻ではないかと推察されている。仏道は、全てのものを真の事実として受け取る事から出発するが、それは正に「法華」、即ち『法華経』の「唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相」であり、それが六祖の「法華転法華」になり、『正法眼蔵』の「現実をそっくりそのまま報恩感謝の姿勢で頂戴」する「現成公案」の信仰に引き継がれる。
そして現成公案の最も現実的具体的実践が「只管打坐」の坐禅であるということになるのである。
なお仏教学者の中には、『法華経』そのものは、「仏が広大な功徳を持つ有り難いお経を説いたと述べるだけ」で、説かれた筈の肝心の「経の内容」については何も説かず、恰も薬の効能書きだけで中身のない「空虚な経」だと言う者もいる。
然しそれは正に彼等が仏法を知らないことを自ら暴露するものである。何故なら『法華経』は「尽十方界真実(仏法)を説く」経であり、尽十方界真実は宇宙・大自然全体の生命活動の絶対的事実であり、定義することは勿論、説明し尽くす事の出来ないものだということを説いているからである。
因みに『法華経』は大乗仏教の根本経典として生まれたが、その教理が発展して終に『法華経』即「釈迦牟尼仏」(尽十方界真実)であるという「法身仏」の教理が生まれている。
また大乗仏教を全部整理して、『法華経』が大乗仏教の根本だと主張した(「教相判釈」)のは天台系統であり、『涅槃経』は『法華経』の補助の経だとしている。
〔1〕 『正法眼蔵』「法華転法華」巻の関捩子
そこで「法華」とは如何なるものかを詳しく学ぶために、前掲「法華転法華」巻の関捩子について、以下に酒井得元老師の提唱録(「正法眼蔵 法華転法華」(『返照』第528号〜第559号 妙元寺返照会・野沢和光)を参考に述べることにする。
1、法華の意義
前述の通り、「法華」という言葉は、「真実の華盛り」即ちありとあらゆるものは真実の展開であるということを意味している。
ありとあらゆる現象、事象、事態は、「大自然の活動」の姿であり、尽十方界真実の千様万態、諸法実相である。
まず、「法華転法華」巻の本文冒頭は「十方仏土中は法華の唯有なり」と説示する。つまり尽十方界(宇宙・大自然)のありとあらゆるものは全て真実(生滅活動)の相、光明(大自然の恩寵)であるということである。「十方仏土中」は「尽十方界」のことで、『法華経』「方便品」の「十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三」から来た言葉である。
「一乗法」ということは、「全体が同じものだ」ということで、他に二も三も無い、一乗法だけであるということである。
また「有」とは、事件、存在、全ての物が形を努力している事実、全てが生きている事実、森羅万象等を意味する言葉である。次に、「十方仏土中は法華の唯有なり」の後に、「これに十方三世一切諸仏、阿耨多羅三藐三菩提衆は、転法華あり、法華転あり。これすなはち、本行菩薩道の不退不転なり、諸仏智慧、甚深無量なり、難解難入の安祥三昧なり」(本文)と続く。
つまり、「十方三世」とは「ありとあらゆるもの」の別称である。
即ち「十方」は空間的に全てを指し、「三世(過去現在未来)」は時間的に全てを指す。またここは「十方三世は一切諸仏なり」と訓むのが仏法の常識である。そして「阿耨多羅三藐三菩提」は尽十方界真実を意味するから、十方三世の一切諸仏は阿耨多羅三藐三菩提衆である。
即ちありとあらゆるものは尽十方界真実であるということである。
『法華経』の立場からすれば、「凡夫」という者は無く、全て仏ばかりだということになる。
そしてありとあらゆるものは尽十方界真実の現れであると同時に、全て「転法華」即ち「転は法華なり」、或いは「法華転」即ち「法華は転なり」で、尽十方界真実の展開の姿であるということである。
「転」は法華の前後どちらに付いても法華であり、法華(真実)の展開であることに変わりが無い。
つまり「転」とは、「全てのものの姿」を言い、且つ世の中に一つも「同じものが無い」ことを言う。
即ちそれが真実(本当の事実)の姿である。
云わば「心(尽十方界真実)」の活動の姿である。例えば我々が喜怒哀楽している姿など全てが「法華」(生命活動)の姿である。
更に「本行菩薩道の不退不転なり」の「本行」とは「本当の在り方」ということである。
本当の「不退不転の絶対的な生き方」というものは、尽十方界真実を実践すること、即ち自己満足を徹底放棄する「利他行」の菩薩道である。
また「諸仏智慧、甚深無量なり」は前掲「方便品」の言葉であり、「諸仏の在り方」(尽十方界真実)を「智慧」と言ったのである。
また「難解難入の安祥三昧なり」とは、只管打坐の坐禅のことであり、普通欲の深い人間にとっては「安祥三昧」即ち「自我の棚上げ(自己満足追求の放棄)」である只管打坐の坐禅は難解難入だと言わざるを得ないのである。
「安祥」というのは人間が絶対心配することが無い「本来の在り方」であるから安祥であり、すべてのものの「本当の姿」のことである。
「難解難入」ということは人間の策略でどうすることも出来ないからである。「坐禅」の項でも述べたように、「三昧」は我々が生かされて生きている本来の在り方のことであり、「正受」「等持」とも言う。
2、六祖の偈
ここで道元禅師の「法華転法華」巻が生まれるもとになった上述「六祖の偈」を紹介する。
「心迷へば法華に転ぜられ、心悟れば法華を転ず。
誦すること久しけれども己を明らめずんば、義のために讐家と作る。
無念の念は即ち正なり、有念の念は邪と成る。
有無倶に計せざれば、長えに白牛車に御す。」これは、『法華経』の専門家で同経をよく読んでいたにも拘わらずなお法華というものが分らなかった法達という仏教学者が、六祖の処へ教えを請いに行った。
六祖は『法華経』の大略を述べた後、上記の偈を作って彼に与えた。法達にとっては有り難い教えであった。ところでこの偈の主旨は、以下の通りである。
まず「心迷」は、人間の生命活動の表情としての迷いであり、「法華に転ぜらる」とは、迷うということも「法華」(尽十方界真実)の働きであり、「心悟」即ち同じく人間の生命活動の表情としての悟りということも、「法華を転ず」即ち法華の働きのお蔭である。
この世界の総ての在り方が、「法華」即ち尽十方界真実なのである。
「迷い」も「法(真実)の華」、「悟り」も「法(真実)の華」なのである。
迷っても悟っても大差は無い、どちらも真実の姿であることに変わりは無い。
従って「誦すること久しけれども己を明らめずんば」、即ち『法華経』をいくら読んでも法華(尽十方界真実)が分らなければ、つまり本来の自己(尽十方界真実人体)を明らめなければ、「義のために讐家と作る」、即ち恨みがましい人生を送ることになる。通常人間は真実(絶対的な事実)についてまともに頂くことをしない。
人間は自分自身が迷っている時には、本当に迷いと思って苦しみ人生を怨む。
本来迷いも真実の姿であり素直に頂けばよい。
自我生活(自己満足追求)を送っている以上迷って苦しむのは当然だから、前掲『安心して悩め(現成公案)』の「安心して悩め」ばよいのである。次に「無念の念」、即ちその時その時自我意識を超越して(自我に振り回されない)、現実を素直にそっくりそのまま頂くことが「正」即ち「本来の在り方」である。
「有念の念」は、自我の働きである好き嫌いによって本来の在り方(尽十方界真実)を妨げるから「邪」となる。
更に「有無倶に計せざれば」、つまりその時その時現実を素直に頂き、自我に振り回されなければ(只管打坐)、それが「長えに白牛車に御す」、即ち「成仏」の姿(尽十方界真実の実修実証)であるということである。
なお「白牛車」は『法華経』「譬喩品」の「火宅の喩」に出る大白牛車(成仏)のことである。六祖の偈により、以上のことを教えられ、法達は非常に喜んだのである。
3、心迷法華転(心迷は法華転なり或いは心迷は法華なり、法華は転なり)
次に「法華転法華」巻は、六祖の偈を踏まえて以下の本文を展開する。
「いはゆる法華転といふは心迷なり、心迷はすなはち法華転なり。しかあればすなはち、心迷は法華に転ぜらるるなり。その宗趣は、心迷たとひ万象なりとも、如是相は法華に転ぜらるるなり。この転ぜらるる、よろこぶべきにあらず、まつべきにあらず。うるにあらず、きたるにあらず。しかあれども、法華転はすなはち無二亦無三なり。唯有一仏乗にてあれば、如是相の法華にてあれば、能転所転といふとも、一仏乗なり、一大事なり。唯以の赤心片片なるのみなり。」
以上を解説すると、六祖の偈に所謂「法華転」、即ち「生命活動の表情」が「心迷」である。
「心迷」即ち迷いということは、思い通りに行かなかったり悲しんだり生活上の色々な問題即ち「人生」のことであるが、「生命活動(心)の表情(迷)」である。
つまり人間が生きている限り、即ち生理現象としての自我意識がある限り、宿命的に避けられないものであり、頂かなければならないものである。
「心迷はすなはち法華転なり」は、迷いは生命活動の表情であり尽十方界真実の姿である。
我々の日常生活は我々が生命活動していることであり、尽十方界真実していることである。
「心迷は法華に転ぜらるるなり」、即ち迷い(人生)は生命活動の表情である。
「その宗趣は、心迷たとひ万象なりとも」の「その宗趣」とは、「如何なる道理で心迷が在るかと言えば」ということであり、心迷が「万象」即ち「あらゆる現象或いは複雑な姿である」としてもということである。
「如是相は法華に転ぜらるるなり」の「如是相」とは、「真実の表情である心迷の姿」のことである。
このような心迷も根本のところでは法華(尽十方界真実)によってそのように導かれているのである。
ところが、「この転ぜらるる」即ち「真実の展開」ということは、身体の生命活動の次元のことであるから、喜んだり、待ったりするようなことではない。
つまり自分で好んでやっているわけではないのである。
「法華転はすなはち無二亦無三なり。」即ち「全部が法華転(尽十方界真実)」であり、すべてのものが真実の展開でないものは無い。
これが法華の真実の在り方である。ただ自我中心の人間がそれを受け取る時には辛かったり苦しんだりするだけである。
これについて、酒井老師は、「仏法者の根本は辛い事でも何でも承知の上で頂くことである。悲しい時は悲しめということだから悲しめばよい。悲しい時に笑っていたら不自然だ。悲しい時の顔というものは決まっている。自然に決まったとおりでよい。別に大騒ぎする必要は無い。その時その時に応じて全部頂かなければならない。」と仰っていた。また「唯有一仏乗にてあれば、如是相の法華にてあれば」とは、「一仏乗」ばかり即ちすべて「尽十方界真実」であり、「仏ばかり」である。「全部真実の現れである法華」である。
「唯有一仏乗」と言う語は『法華経』における最も重要な句である。即ちすべて尽十方界真実(宇宙・大自然の生命活動)だということである。
「能転所転」は、「能転」は心悟で「所転」は心迷を表現しているのであるが、「心迷も心悟も全て一仏乗なり、一大事(「一」は全部・全体の意)なり」ということは、「全部自分勝手でやっているのではない、尽十方界真実の働きである」ということである。
「唯以の赤心片片なるのみなり」とは、「唯以」(ただもって)、即ちどれもこれもがすべて真実(「赤心片片」)でないものは無い、すべて仏の恵みとして頂かなければならないということである。
以上、道元禅師が「心迷」と言うことの本質を究め尽くされたお蔭で、我々は仏法を有難く学べる。
本文は、更に以下のように続く。「しかあれば、心迷をうらむることなかれ。汝等が所行は是菩薩道なり。本行菩薩道の奉覲ブゴン於諸仏なり。開示悟入みな各各の法華転なり。火宅に心迷あり、当門に心迷あり、門外に心迷あり、門前に心迷あり、門内に心迷あり。心迷に門内・門外、乃至当門・火宅等を現成せるがゆゑに、白牛車のうへにも開示悟入あるべし。」
ここで、前掲「火宅の喩」についてその話の内容を以下に簡単に説明する。
或る長者(仏)所有の朽廃(生老病死の四苦)した邸宅(人間世界)があって、中では長者の子供達(凡夫)が遊びに耽って(自我生活)居る。
ところがその邸宅が火事(貪瞋痴の三毒)になった。火はどんどん広がり、放置しておくと子供達が焼け死ぬ恐れがある。
長者は子供達に危ないから逃げよと急かしても、遊びに呆けて従わない。
そこで長者は今おまえ達が遊んでいる玩具よりもっと面白い遊び道具が門の外にあると教える。即ち子供達の各々に彼等の好む羊車(声聞)、鹿車(縁覚)、牛車(菩薩)が外にあると言って門外へ誘い出した。
ところが外には、羊・鹿・牛車は無く、大白牛車(成仏)だけがあって、子供達はそれに乗って喜んだという話である。さて本文に戻って、「心迷をうらむることなかれ」、即ち苦しい事があっても恨んではいけない。
「汝等が所行は是菩薩道なり」とは、菩薩は小乗仏教には無く大乗仏教において生まれたのであるが、大乗仏教は「心迷」即ち「汝等が所行」を「法華転」と考える。
即ち全てのものは「真実の展開」であり「仏の姿」であると考える。
そしてそれが「菩薩道」である。
つまり小乗仏教では、「成仏」という理想・目的を持って努力しようとするが、それは所詮自己満足の追求に他ならない。
ところが大乗仏教では、仏は修行して到達するものではない。小乗のような理想・目的というようなものが無い。
何故なら大乗では初めから「すべてが仏」即ち「本来成仏」であるから、大乗の「菩薩道」、即ちその修行は根本的に自我を放棄した「仏行」である。
これが「本行菩薩道」即ち本来菩薩道を行じているということである。
そしてそれが「奉覲於諸仏」(仏を見奉る)即ち「仏を修行」することである。
また「開示悟入みな各各の法華転なり」の「開示」は教えを示すこと、「悟入」は本当の仏道修行をすることである。
つまり「開示悟入」とは、真実を実践することにより本当のことを知ることである。
しかもそれは人間が勝手にやっているのではないという意味で「救い」とも言える。
そしてそのような救いは夫々「尽十方界真実が展開」する姿である。
「火宅に心迷あり、・・・」以下の文は、全部が心迷であり、「心迷以外何も無い」ということを表現している。何処もかしこも心迷でないものは一つも無い。「当門」は「現在」の場所であり心迷である。喜び浮かれることも心迷であり、「火宅」(苦しんでいること)も心迷である。
「白牛車のうへにも開示悟入あるべし」とは、「成仏」のことを「白牛車」というが、これも「開示悟入」(救い)即ち法華転(尽十方界真実)であるということであり、「開示悟入みな各各の法華転なり」ということである。
つまり「心迷」(生命活動の表情)がすべて「開示悟入」(大自然の在り方)であり、「仏」(真実)への道であるということである。
苦しい時には苦しむというのも真実の姿であり、悩むというのも開示悟入である。
心迷を全部「開示悟入」即ち「真実の実践」として真実を素直に受け取るのである。従って「開示悟入」は仏道修行の根本であり、これが本当の「法華」の立場である。要するに「法華転」(尽十方界真実)とは「心迷」(生命活動の表情)だということであり、『法華経』の「唯仏与仏乃能究尽」(尽十方界真実の完璧な姿)の徹底表現だということである。
そして「心迷」をかく究尽されたことはまさに道元禅師の仏法の真髄なのである。最後に本文は、心迷法華転の結論として以下の言葉を述べる。
「当門の全門に開示悟入を転ずるあり、普門の門に開示悟入を転ずるあり、開示悟入の各各に、普門を開示悟入する転あり。門内に開示悟入を転ずるあり、門外に開示悟入を転ずるあり。火宅に露地を開示悟入するあり。」
要約すれば、現実そのものが全部「開示悟入」即ち尽十方界真実である。
「全ての門」が皆尽十方界真実である。何から何まで開示悟入でないものは一つもないということが結論である。
即ち「心迷」(生命活動の表情)が全部「開示悟入」即ち尽十方界真実であり、救いであるということである。以上のことから「法華の行者」(仏道修行者)の修行とは、堪え難いようなことを本当に受け入れることが出来ること、例えば自殺でもしたいほど嫌な気分に襲われる現実をそのまま頂けるようになることである。
端的に云えば、「法華転法華」巻の最も重要なことは、「心迷」(生命活動の表情)を心迷と知って受け取ることが出来るということである。
即ち「このゆゑに、火宅も不会なり、露地も不識なり。」(本文)が、この事を表現している。
「不会」・「不識」の「不」は、仏法の常識として「大自然の、絶対的な」ことを意味する。
従って「不会」は、尽十方界真実は絶対的であるからそっくり其のまま頂くことである。
「火宅も不会なり」とは、「火宅」即ち「苦しむこと」をまともに頂かなければならないということである。
また「露地」とは、総てのものが「丸出し」であること、即ち「当たり前」(平常底)であることを言う。
或いは「尽十方界真実人体」のことでもある。そして「当たり前で何とも感じないこと」を「不識」という。
「平常心是道」と同じことである。「何とも無く受取る」ということである。例えば坐禅していて足が痛くなったり、眠くなったりするのも、生きている限り当たり前のことであり、それをまともに頂くことが「不識」である。
先に「坐禅」の項の「身心脱落」について述べたように、如浄禅師が坐禅中に居眠りしていた僧を殴った時、殴られた僧が其のまま全部頂いていた。
隣単でこの「不識」の有様を見ていた道元禅師は「身心脱落」「脱落身心」を悟られたということである。その他「法華転法華」巻は、一々の本文は割愛するが、『法華経』の文句に仮託して、坐禅修行の本当のあり方(「坐禅」の項参照)を述べている重要な個所が多く、酒井老師は、この巻は道元禅師の真髄を味わえる巻だとされている。
なお本文に『法華経』「如来寿量品」の「一心欲見仏」(一心に仏を見たてまつらんと欲す)という言葉が引用されているが、「見る」とは「現ずる」ことであり、「仏を実践する」こと、即ち坐禅することである。
同じく「如来寿量品」の「方便現涅槃」や「我浄土不毀」という言葉も引用されているが、「方便現涅槃」については、「方便」とは「修行」すること、坐禅の本当の在り方であり、「方」は「正しい」、「便」は「在り方」ということである。
そして正しい坐禅が「涅槃」即ち「常住」(永遠に変わらない尽十方界真実の姿)を現じているのである。
また「我浄土不毀」は、我々の現在の在り方即ち尽十方界真実人体を「浄土」と言い、絶対的なこと・本当の在り方が「不毀」である。以上が「心迷法華転」についての説明である。
4、心悟転法華(心悟は転なり、転は法華なり)
続いて、「法華転法華」巻は、六祖の偈の「心悟」について以下のように展開している。
「心悟転法華といふは、法華を転ずるといふなり。いはゆる、法華のわれらを転ずるちから究尽するときに、かへりてみづからを転ずる如是力を現成するなり。」(本文)
まず「転」の在り方が「法華」である時にこれを「心悟」と言い、「法華」の在り方が「転」である時を「心迷」と言う。
「転」は、上述のように法華(真実)の活動の姿を言う。
「法華」(尽十方界真実)の或る時の在り方を称して「心迷」と言い、或る時の在り方を称して「心悟」と言う。
つまり「心迷」も「心悟」も「心」(尽十方界真実)の表情であることに変わりが無い。
「法華のわれらを転ずるちから」とは、我々は法華の活動によって「このように(尽十方界真実人体)」在り得ている。「究尽」とは、「法華の働きを全部頂く」ことである。
「かへりてみづからを転ずる如是力を現成するなり」とは、法華の働きを総て頂くことによって却って自分が法華(真実)を努力することになる。
「如是力」とは尽十方界真実のことであり、我々が一生懸命働くということも総て「法華転」によって働いている。因みに、酒井老師は、しばしば我々にとって最も重要な「食う」ことについて、『正法眼蔵随聞記』の「世間衣糧の資具は生得の命分ありて求めに依ても来らず、求めざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ。」(第一)の「生得の命分」ということを引用される。
つまり我々が食べたいということは、個人の要求ではなく「命分」即ち「大自然の生命活動」である。
我々は命分によって生活している。腹が減っている時に食べ物があれば食べればいいし、なければ食べられないだけである。
我々が生きているということは、自分が勝手に生きているのではない。
人間が苦しむのは自分の力で勝手に生きていると思うから苦しむのである。
我々が生きているということは自然の恵みであるから、食べ物に巡り合えば食べればいいし、食べ物が無い時は環境に恵まれてないだけと覚悟するしかない。
確かに老師が言われるように、一般に自然界の動物は平然と皆そのような生き方をしている。人間だけが悩んでいるのである。
さて話を元に戻すと、「この現成は転法華なり。従来の転いまもさらにやむことなしといへども、おのづからかへりて法華を転ずるなり。」(本文)つまり「この現成」とは、人間が真実を努力することであり、それは「転法華」即ち「生命活動の在り方」(仏の在り方)である。
そして「従来の転」とは、「真実の働き」のことであり、それは止むことは無いが、それは個人の働きではなく、真実自らが法華即ち真実を活動させているのである。これは真実が真実を更に動かしているということである。
「驢事いまだをはらざれども、馬事到来すべし。出現於此の唯以一大事因縁あり。」(本文)これは雪峰の弟子長慶慧稜(854〜932年)が霊雲志勤に「如何なるか是れ仏法の大意」と質問をしたところ、霊雲が「驢事いまだをはらざれども馬事到来す」と答えた。
つまり「仏法の大意」とは、年百年中一つの事(驢馬の事が)終わらないうちに、次の事(馬の事)が始まっている、即ち年百年中休むことなく続けなければならない人間の「生命活動」のことである。
この「仏法の大意」が法華転・転法華即ち「法華転法華」である。ここでは法華転法華も心迷法華転も心悟転法華も同じ事である。言葉を並べ替えただけである。
「出現於此の唯以一大事因縁あり」とは、「これ以上の一大事は有り得ない」ということである。
つまり普通の日常生活、何でもない当たり前の生命活動、例えば腹が減ったということも「一大事因縁」であり、「仏法の大意」であるということである。
この辺の言葉は、「法華転法華」巻の最高のところであると酒井老師は仰っている。
更に本文の方は、以上述べたことを改めて敷衍する形で展開(本文割愛)している。
例えば『法華経』「従地湧出品」の「地湧」(地から生まれる)を引用し、或いは「虚空湧」(虚空から生まれる)、或いは「法華湧」(あらゆるもののお蔭で生じる)という言葉を使って、総ての物は「因縁が整った時」、即ち条件が揃う事によって生じる(存在する)ことを説いている。
また同じ「従地湧出品」の「父少而子老」という言葉を取上げて、「おほよそ法華の時は、かならず父少而子老なり」と法華の本当の在り方が父少而子老であると表現している。つまり「法華の時」とは、「尽十方界真実においては」ということ、「父少而子老」とは、「父が若く子は老人」ということであるが、これはつまり次のとおりである。
まず「父」とは、詳細は割愛したが上述の「地湧」乃至「法華湧」ということ、即ち総てのものは「条件」が揃う事によって「生まれる」ということである。
「生まれる」ということは、その時その時の条件が関係している。
この「条件」のことを「父」と言ったのであり、しかも「生まれる」という在り方・事実は永久に変わらない自然の在り方・法則である。
この「永久に変わらない在り方・法則」を「老」と言ったのである。
従って「子供が生まれる」と言うことは、新しい生命が突然出てきたのではなくて、「既に条件があって決まったこと」が実現しただけであるから、「生まれる」子供は「老」と言い、「父」の方は「条件」であるから、永遠的なものではなく、「その時その時の新しい事実」であるから、「少(若い)」と言ったのである。
要するに、仏法は尽十方界の真実であり、空劫以前(永遠)の事実である。
この事実を今此処で実践現成する、即ち真実が生まれる現象について言えば、生まれる真実(子)は永遠の真実(老)であり、その実践の現象(生む父)はその刻々(少(若い))であるということである。
以上のように、本文そのものは割愛したが、「法華転法華」巻は法華の真実の在り方、「転法華」ということを慎重に言葉を重ねて述べている。例えば「色即是空の転法華あり、若退若出にあらず。空即是色の転法華あり、無有生死なるべし」(本文)と言う言葉がある。
前項の「般若波羅蜜」で既に述べた「色即是空」、即ち現実の様相(色)は一時的な仮の姿であっても尽十方界真実(空)のその時の絶対的事実であり「転法華」である。
「退」や「出」という単なる現象ではない。
同様に「空即是色」、即ち尽十方界真実の実態は現実の目前に展開する事実でしか認識できないということも「転法華」である。
なお「生死」とは我々の喜怒哀楽の「人生」のことであり、「無有生死」は「生死有ること無し」と訓む。
つまり「転法華」(尽十方界真実)の立場に徹すると、「生死(人生)」有ること無し、即ち平常心是道でいつも同じ姿である。
更に続けて「法華転法華」巻は、『法華経』の「見宝塔品」を引用して以下のように転法華を説明する。「仏前に宝塔ある転法華あり、高さ五百由旬なり。塔中に仏坐する転法華あり、量二百五十由旬なり。地より湧出して空中に住在する(「従地湧出住在空中」)の転法華あり、心もケイ礙なし、色もケイ礙なし。」(本文)
つまり「宝塔」とは、全てのものは大自然が作ったものであり、大自然の真実である。
また「仏前に宝塔ある転法華あり」とは、宝塔、即ち「有り難い格好をしているもの」も転法華(真実の姿)であり、一つの「仏の在り方」である。
結局全てのものが仏の在り方だと言う。
「法華転法華」とは、仏(尽十方界真実)に「正体が無い」ということであり、「諸法実相」のことであり、「唯仏与仏」と同じである。
要するに「転法華」の立場は、「どのような場合でも、有難うございましたと受け止める」ことである。
だから病気をしても、思い通りに行かなくても転法華、死ぬ時も転法華である。
全てのものを転法華として受け取るのである。「高さ五百由旬(インドの単位)なり」というのは「大変素晴らしい」ということである。
「宝塔の高さ」即ち「転法華の規模」を表現したのである。
「塔中に仏坐する転法華あり」とは、塔の中にも仏(真実)が坐しているということであり、塔そのものの在り方(真実)を称してこう言った。
同様に「量二百五十由旬なり」も転法華の規模を喩えたのである。
「従地湧出住在空中」は、「地より湧き出でて空中に浮かぶ」ものも転法華である。
この辺の言葉は「見宝塔品」の言葉に由来している。「心もケイ礙なし、色もケイ礙なし」は、心(尽十方界)も勝手にやっているのではなく自然の姿即ち転法華であるし、色(現実の姿)も勝手にやっているのではなく転法華である。
夫々勝手にやっているのではないから、「ケイ礙なし」即ち邪魔し合うことが無い。
また「塔中に霊山あり。霊山に宝塔あり。宝塔は虚空に宝塔し、虚空は宝塔を虚空す。」(本文)酒井老師は、常々『正法眼蔵』の文章は単純に現代語訳すると可笑しなことになると仰っておられたが、ここもそうである。
ここの文章は、我々が如何することも出来ない「大自然の事実」を称して「宝塔」と言い、同様に「手応えが無い真実」を「虚空」と言ったのである。
「霊山」は普通釈尊の説法の場所である「霊鷲山」のことであるが、酒井老師は「塔中に霊山あり」の「霊山」は「大自然の姿」と見るべきであるとされる。
また「塔」というのは「人間が拝むもの、相対するもの」即ち「人間が感覚で捕まえるもの」と解釈すべきだとされる。
言わばここは道元禅師が『法華経』のキイワードを並べて尽十方界真実というもののイメージを描いておられるのである。
要するにこの「宝塔品」は、「転法華」を「塔」で表現したのであるが、この「塔(転)法華」とは、「お釈迦様(仏)を拝む」即ち尽十方界真実を素直に受け取る、或いは真実を実践する(坐禅する)ということである。
つまり「塔(転)法華」ということは、ただ「塔を造った」だけでなく、塔の中にあらゆる仏が収まっており、それを拝むということである。
しかも何時何処でも「塔(転)法華」ということは成り立つ、即ち何処でも真実の実践(坐禅)が出来るということを説いているのである。
そして「法華一座のところ、今日如来大乗を説くと転法華なる功徳なり。法華のいまし法華なる、不覚不知なれども、不識不会なり。しかあれば、五百塵点はしばらく一毛許の転法華なり、赤心片々の仏寿の開演せらるるなり。」(本文)「如来が大乗を説く」の「説く」とは、口で説くことばかりでなく、「転法華」として展開することを「説く」と表現したのである。
だから「転法華なる功徳なり」という訳である。つまり「転法華」とは言葉で表現することでもない。
総てのものが活動する姿を「転法華」というのである。
或いは総てのものが存在していることも「転法華」しているというのである。
「法華のいまし法華なる」とは、法華で無いものは無い、全部法華であるということである。
そしてそれは「不覚不知なれども」、即ち我々が感じようと感じまいとということであり、「不識不会なり」、即ち尽十方界真実(宇宙の生命活動)はお構いなく展開しているのである。
「五百塵点」とは、インドの時間の単位で、気の遠くなるような時間の長さであるが、法華(尽十方界)から見れば、「一毛許」即ち「ほんの一瞬」に過ぎないものである。
そして全部これは、「赤心片々の仏寿の開演」、即ち「どれもこれも仏の命(宇宙の生命)」の「展開」でないものはないということである。
最後に「劫より劫に至るも法華なり、昼より夜にいたるも法華なり。法華これ従劫至劫なるがゆゑに。法華これ乃昼乃夜なるがゆゑに。」(本文)
「従劫至劫」とは、年百年中、昼も夜も皆法華(宇宙・大自然の真実)の姿である。「たとひ自身心(自の身心)を強弱すとも、さらにこれ法華なり。」(本文)
つまり俺が俺がと言っているのは、尽十方界真実人体における単なる自我意識であって、全部法華(大自然の生命活動)の展開である。「あらゆる如是は珍宝なり、光明なり、道場なり。広大深遠なり、深大久遠なり。心迷法華転なり、心悟転法華なる、実にこれ法華転法華なり。」(本文)
つまりあらゆる「如是」とは、あらゆる「真実」ということであり、「珍宝」以下の述語は、法華の偉大なる展開であることの説明である。
従って「心迷法華転」即ち迷っている姿も法華転(真実の姿)であるし、「心悟転法華」即ち悟っている姿も法華(真実の姿)である。
「心迷心悟」いずれも尽十方界真実人体のその時々の表情であり、法華の展開である。
即ち全部「法華転法華」である。
つまり『法華経』は、「心迷」も「心悟」も同じ生命活動の表情として、両方認めているのである。「法華は転なり、転は法華なり。」(本文)
要するに「法華」は、固定的なものではなく常に活動している。いつも転法華、法華転している。
「転」と云うことが「法華」であり、「法華」ということが「転」である。
全てのものは展開(活動)すると言うことが法華であり、総てのものは法華の展開である。例えば病気して苦しむ時も法華転であり、恨むべきことでは無い。従って仏法に行き詰まりは無いのである。結語は、「かくのごとく供養恭敬、尊重讃歎する、法華是法華なるべし。」(本文)
つまり私達のやる事はすべて「法華是法華」で、「法華でないもの何も無し」ということである。以上が、「法華転法華」巻の要諦である。
参考までにこの巻の「後書」によれば、この巻は仁治2年(1241年)道元禅師が、慧達禅人と言う人が出家修道したことを喜んで書いて授けたとある。即ち、「これ出家修道を感喜するなり。ただ鬢髪をそる、なほ好事なり。かみをそり又かみをそる、これ真出家児なり。今日の出家は、従来の転法華の如是力の如是果報なり。いまの法華、かならず法華の法華果あらん。釈迦の法華にあらず。諸仏の法華にあらず、法華の法華なり。ひごろの転法華は、如是相も不覚不知にかかれり。しかあれども、いまの法華さらに不識不会にあらはる。昔時も出息入息なり、今時も出息入息なり。これを妙難思の法華と保任すべし」とある。
つまり「転法華」に徹することが「出家道」である。また法華という言葉は誰々の法華ということではない。法華の法華即ち大自然そのものである。
そしてありとあらゆるものはすべて、その姿をしていることについて自覚が有ろうと無かろうとすべて転法華である。
感覚しようとしまいと昔も今も呼吸している。この法華という大自然の事実は不可思議そのものである。
これが仏法の根本であるということが述べられている。以上の事から、「法華転法華」巻は、出家修道の「信仰の根拠」となる重要な巻である事が分かる。
そして「法華転」「転法華」ということは、文献としての『法華経』の法華では無く、正法眼蔵涅槃妙心(学問体系ではない絶対の事実即ち尽十方界真実)に直結した道元禅師の『法華経』の全身心読の結晶だと言える。
なお道元禅師は、『正法眼蔵』「諸法実相」「見仏」「如来全身」の各巻においても、『法華経』の読み方について説かれている。最後に、我々は如何に「自我の放棄」(坐禅修行)を努めても、生きている限り完全に自我活動から逃れる事は不可能である。そうだとすれば、我々はせめて我々の自我活動から生じる結果を全て素直に受け取ることしかないし、それが真実の実践だと考えられる。
〔2〕 『法華経』
ところで『法華経』は、上述のように宇宙・大自然の在り方・真実について説いている。
尤も「この大乗経の妙法蓮華経菩薩法仏所護念と名付るを説く」とあって、特に「此れ」と言って特別の内容が説かれていない。
何故なら、上述のように『妙法蓮華経』は宇宙の真実(尽十方界真実)そのものであり、ありとあらゆるものが真実であるから、これこそ真実だと指摘することは出来ない。また仏法において大自然のものは間違ったものが無い。間違いということは人間の都合から言うことである。
そこで絶対に知覚・分別不可能な尽十方界真実そのものへ一切衆生を導こうとするために、『法華経』の「説法の儀式」が述べられる。
即ち「説法の場所」は「絶対寂静の空閑の処」ということになり、それが「尽十方界の真実」の実態を表現している。さて『法華経』は、「序品第一」から「普賢菩薩勧発品第二十八」まである(但し一経三段の天台智説)が、「天台法華」の教義(『法華文句』)では、同経の各品を「迹門」(権)即ち「衆生済度の仏の跡方」(殆ど授記)と「本門」(実)即ち「仏の在り方」とに分類している。
それはさておき、一応各品の名称や特徴等を簡単に見ておく。
- 「序品第一」は、宇宙の実相を明らかにする仏の「無量義処三昧」(只管打坐の坐禅)が示される。また欲があれば騙されるが、無ければ悪魔が寄り付かないこと等も説かれる。
- 「方便品第二」は、「仏法入門の概論・道標」と言える。「諸仏世尊、唯以一大事因縁故(唯一大事の因縁を以っての故にのみ)、出現於世(世に出現したまえばなり)」とあり、「一大事因縁」とは、衆生をして仏之知見を開示悟入(救済)せしむ即ち出世(自我の超越)せしむことである。
「仏之知見」とは、「生命活動」即ち尽十方界真実の働きのことであり、人間の「本来の在り方」のことである。ありとあらゆるものは全て仏之知見により生かされている。 つまりその時その時の現実(自分の在り方)を全部素直に受け取る事ができることである。
逆に「凡夫の知見」は、或る特定の立場に立ってものを見る即ち自我の生活である。
また、ここでは、「如是」即ち「尽十方界真実」の在り方が示される。
つまり自我を超越した尽十方界、現成公案の世界は、常に「是くの如く在る」のであり、定義できないという事である。
言い換えれば「解らないまま在る」のが真実の姿(「何者」)であり、自己流に解釈・納得することは真実から乖離することである。
そして「仏所成就(仏の成就せる所は)、第一稀有(第一の稀有なる)、難解之法。唯仏与仏乃能究尽。諸法実相。所謂諸法(謂う所は、諸法の)如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。」と説かれるが、この経の主題である「諸法実相」の姿が「十如是」即ち(如是)相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等絶対的な事実として示される。なお「唯仏与仏乃能究尽」とは、「唯仏与仏」(ただ仏と仏)即ちこの世界のありとあらゆるものが真実(「諸法実相」)であり、しかもそれを完全に表現(「乃能究尽」)しているということである。
ところで、ここでは、衆生のうち教化されるのは「菩薩」(自己満足を放棄した者)だけだという事である。
何故なら仏の説法が耳に入るのは菩薩だけであり、菩薩である本来の姿が耳を傾けているという事だからである。
更に「法常無性、仏種従縁起。」(法は常に無性にして、仏種は縁に従って起こる)という言葉は、あらゆるものは四大因縁和合(無自性の縁起)により、仏種(仏性)即ち存在させられているということである。
また「是法住法位、世間相常住」(是れは法の住、法の位にして、世間の相も常住なり)と説かれるが、それは、全てのものは暫くそのものの在り方において在り、総てのものが生滅する姿そのものは尽十方界真実の風景であり、生滅の事実は永遠に変わらない絶対的事実であるということである。
なお「正直捨方便、但説無上道」(正直に方便を捨てて、但、無上道のみを説く)ということは、現実は何の小細工を弄することなくそのままに真実を説いているということである。
- 「譬喩品第三」は、上述「火宅の喩」のとおりであるが、エゴイズムの徹底打破を説いている。ここでは「今此三界。皆是我有。其中衆生。悉是吾子。」(「仏」参照)の語が有名である。
- 「信解品第四」は、如来の真実の功徳を説いている。
- 「薬草品第五」は、総てのものに功徳が行き亘る姿により如来を讃嘆している。
- 「授記品第六」は、「授記」即ち仏による成仏の保証を説いている。
- 「化城喩品第七」は、「大通智勝仏。十劫坐道場。仏法不現前。不得成仏道。」が説かれる。
即ち本当の修行とは仏法現前や成仏という目的のための修行ではない、無所得・無所悟の「只管打坐」の修行が説かれる。なお「滅」即ち「本来の姿」を説く。「寂滅」も大自然の姿である。- 「法師品第十」は、「法」を師となすことを説き、法を伝える人について説く。
なおここで重要なのは、「章句の忘失」即ち「若し章句を忘失せば、為に説いて通利せしめん」と説かれていることである。
これは只管打坐の最中に生命活動の表情として生理的に迷いが生じることがある。然し迷いが生じても只管打坐を続行すれば、直に本来の姿に立ち戻り、迷いは消滅し、只管打坐中の一風景となってしまう。このような個人的主観的な感覚を超えた無量無辺の真実を究尽する坐禅の事実が「為に説いて」ということである。また「経典の読誦」とは、真実の実践、即ち尽十方界真実人体の実修実証(只管打坐)のことである。- 「見宝塔品第十一」は、上述「法華転法華」巻にも引用されているが、「塔」は『法華経』を表現し、「宝塔」は如来そのもの、坐禅の「坐相」を表現している。そして坐禅本来に具わる「古仏」(真実)によって現在の坐禅が実修実証される。ここでは、「釈迦」は「仏行」(坐禅)・「行仏」を表現し、「多宝仏」は「坐相」そのもの乃至「古仏」(永遠)を表現している。
なおここでは『法華経』は尽十方界真実そのものであり、その真実が説かれることは稀有であることを示している。
また「頭陀行」即ち純粋に自然に対する「報恩感謝」に生きるべきことを説いている。
- 「提婆達多品第十二」は、誰でも成仏できる事即ち「竜女成仏」を説いている。
- 「安楽行品第十四」は、修行者の心構え・身の処し方、即ちじたばたしないことを説いている。そして「戯論ケロン」(一切の法において決定の義をとる)、即ち思想・主義を振り回さない事を説いている。
なお「界外」は仏、「界内」は欲界・色界・無色界の凡夫のことであるが、仏の説法の受け取り方の相違である。- 「従地湧出品第十五」は、上述「法華転法華」巻にも引用されているが、本地の菩薩即ち菩薩の正体を説いている。
- 「如来寿量品第十六」は、『法華経』の中心である。「仏寿量」とは尽十方界真実のことである。「我本行菩薩道、所成寿命、今猶未尽、復倍上数。」(我本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命は、今も猶、未だ尽きずして、復た上の数に倍せるなり)は、永遠の生命、無限の修行、宇宙全体が修行(生滅活動)している事、無限への自覚を説いている。
因みに天台教説では、釈迦は久遠の昔に成仏(久遠実成)し、本来永遠なる仏(久遠本仏)である。久遠本仏は一乗妙法の生きた姿であり、久遠本仏を説く後半が因果二門の果門(本門)として重要と見る。 また「不如三界(欲・色・無色)、見於三界」という語句を、天台は「三界を三界と見るには如かず(三界を三界として受け取る。煩悩をそのまま見る)」(本覚)或いは「三界の三界を見るが如くならず(凡夫が欲望により見る通りではない)」(悪心流・始覚)と訓む。
これに対して道元禅師は『正法眼蔵』「三界唯心」巻で「如じ、三界(真実)は三界(真実)を見(現)ずるなり」と訓む。即ち「現実は常に真実を表現している」と解釈する。
- 「法師功徳品第十九」は、法華の身体観即ち身体の中に宇宙を眺める所謂尽十方界真実人体を説いている。
- 「常不軽菩薩品第二十」は、『法華経』の受け取り方、法華の行者について説いている。
- 「如来神力品第二一」は、仏の説法が宇宙全体に行き亘ることを説いている。「如来神力」とは『法華経』そのもののことである。即ち「神力」とは宇宙の姿(非思量)であり、法華のことである。因みに「天台小止観」は特別な心理状態になることを目的とするものであり、無所得・無所悟の尽十方界真実の実践にはならない。
- 「嘱累品第二二」は、如来の法を流布させる事を菩薩達に委嘱する事を説く。
- 「薬王菩薩本事品第二三」は、「本事」とは仏の真の姿のことである。「悪魔」とは邪魔するものであり、自己の願いや欲に起因するものである。
- 「観世音菩薩普門品第二五」は、観音は永遠に成仏しない菩薩、即ち自我の放棄の徹底を意味する菩薩であり、本来成仏の上の徹底利他行を説いている。「一心称名」とは、自分自身の中に観音(大自然)がある事を自覚する事である。「観音の名を持つ」ということは、絶対信仰(本来お任せ)に生きることである。運命から逃れようとはしないことである。観音信仰は幸・不幸を超越(無畏)することであり、全部仏の恵みであるという絶対帰依である。なお「普門」とは、誰でも何処でも通じると言う事であり、観音の本質は自未得度先度他の誓願である。
- 「陀羅尼品第二六」は、『法華経』を護持する者を守護・讃嘆している。
- 「普賢菩薩勧発品第二八」は、法華の守護者(法華の行者)である普賢菩薩を「勧発」即ち奨励している。
なお「五百弟子受記品第八」、「授学・無学人記品第九」、「勧持品第十三」、「分別功徳品第十七」、「随喜功徳品第十八」、「妙音菩薩品第二四」、「妙荘厳王本事品第二七」については割愛する。
<仏法の常識>
- 「三草二木」とは世の中の自然の状態のことを言う。種類の異なる草木が同一の雨に平等に 潤い、その大小に従って成長する。
- 「南方」とは仏が南向いていることから、仏が指導すること(転法華)であり、「北方」は私達が仏を拝むことである。
- 『法華経』の成立について、一乗妙法を説く原初部分は紀元50年頃、紀元150年頃迄に経典の増広があったとされる。
- 菩薩の釈尊に対するご機嫌伺いの語は、「世尊は安楽(本来の在り方)にして少病少悩にましますや。」(「従地湧出品第十五」)
- 「法華七喩」とは@三車火宅(譬喩品)、A長者窮子(信解品)、B三草二木(薬草喩品)、C化城宝処(化城喩品)、D衣裏繋珠(五百弟子受記品)、E髻中明珠(安楽行品)、F良医治子(如来寿量品)なお@〜E迹門六喩、F本門一喩とされる。
- 中国東晋の道安(314〜385)が経典注釈に「三分科経」を用いた。まず「序分」は教説の由来、因縁の叙述、次に「正宗分」は本論であり、最後に「流通ルズウ分」は結論、教説の功徳の叙述、流布の勧進である。
「正伝の仏法」・第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子・3 仏性