第T章 仏法の大意

6 平常心是道

  「平常心是道」という言葉の「平常心」は、前項で述べた「心」の事実であることに変わりがないので、前項で述べればよいのであるが、この「平常心是道」という言葉は仏道の極意だと言われる程非常に重要な言葉であるので、項を改めてその意義を説明する。

「平常心」という言葉は、通常日常生活で使われる場合は、基本的に何か特別な心理状態に陥りがちな気持ちを平静に保つというような、或いは平常普段のこころというような、人間の「こころ」の在り方を意味している。

しかし仏法においては、「心」はあくまでそのような人間の心理や精神作用を意味するのではない事を前項で述べた。

従って「平常心」は「心」であるから、あくまで仏法の「心」の意味即ち宇宙・大自然の生命活動の事実を意味しているのである。





一 平常心是道の意義

 

    それでは、仏法の「平常心是道」とは如何なる意味なのか、端的に言えば、尽十方界(宇宙・大自然)の絶え間ない活動は常に「平常底」であり真実であるということを表現している。

    ここで「平常底」とは、例えば大地震、台風、火山の噴火や洪水等、人間にとって不都合な宇宙・大自然の活動も、宇宙・大自然それ自体においては、本来当たり前で何とも無い絶対的な真の事実なのである。

    しかもまたこの平常底という事実は、我々の身体の生命活動においても同じである。


    つまり、我々は、平生自己の満足追求に伴う様々な生活上の喜怒哀楽が人生の全てであるかのように錯覚しているが、尽十方界真実人体である我々の身体そのものは、そんな我々の意志・意欲の如何に拘らず、本来の生命活動を休み無く続けてくれている。

    だからこそ我々は人生を続けていけるのである。

    言わば人間の喜怒哀楽は人間生命のその時その時の景色・表情に過ぎない

    その証拠にどんな大きな喜び悲しみも決して何時までも長続きはせず、時間の経過と共に平常底に戻らざるを得ない

    このような平常底の事実を「解脱」「脱落」「三昧」等と言うのである。

    宇宙・大自然の生命活動においては人間の利害・思惑等は無関係である。

    因みにこのような宇宙・大自然の無始無終の活動の事実を、経典等では「無量阿僧祇劫」等と言う。


    ところで、我々人間はこの平常底の中で生かされ、生き、蠢いているのであるが、平常底の真実は余りにも当たり前過ぎて人間に特別な感覚を引き起こさないし、体験・経験出来るものでもない。

    いつも何ともなく平凡であり「無事(何事もない)」である。

    このように常に活動・変化し続ける宇宙・大自然(人間の身心を含む)の真実に、我々自身が全く無関心である在り方を「信」(後述「信」参照)と言うのである。

    また「」とは、「真実」「言葉」「言う」「真実の実践」等の意味が有る。

    そこで尽十方界真実である平常心の在り方(無所得・無所悟)を実践することが後述「仏道」の修行の根本となる。

    要するに「平常心是道」とは、人間が考える価値即ち人間の欲望満足(意志・意欲)の追求に価値をおくのではなく、平常心(尽十方界の在り方)そのもの(無所得・無所悟)に無限の価値を見出すことであり、これこそ正に「仏道」の極意を表現しているのである。

    従って平常心是道である仏道は、尽十法界の真実即ち尽十方界真実人体そのものを実践すること、即ち人間性(自己満足追求)を超越(振り回されない)することである。

    言い換えれば自己満足の追求を放棄することであり、その唯一の方法が「只管打坐」即ち「無所得・無所悟(ただ生かされて生きている在り方)」の坐禅なのである。

    因みに最初にこの言葉を使い始めたのは馬祖道一(709〜788年)だとされている。




二 修行の極意を教える公案(『正法眼蔵三百則』上巻十九)

 

    そこで、『正法眼蔵三百則』上巻十九および『景徳伝燈録』十巻「趙州章」の平常心是道を扱った、まさに仏道修行の根本を教える南泉・趙州師弟の商量を紹介する。

    道元禅師が「古仏」と敬称した趙州が、南泉の会下で修行中のことである。


    趙州が南泉に問う「如何なるか是れ道(仏法)」。
    泉云く「平常心是道」。
    州云く「如何が趣向すべき(自分はこれから、一体何を目標に修行すればよいでしょうか)」。
    泉云く「向かわんと擬すれば便ち背く(こう在りたいと努力すれば、却って平常心から離れる)」。
    州云く「擬せずんば、いかでか道なることを知らん(模索の努力がなければ、一体、どうして、これこそが真実・平常心であると納得できるのでしようか)」。
    泉云く「道は知にも属せず、不知にも属せず(真実は、感覚の対象となるものではない。分かった分からないの問題ではない)知は是れ妄覚(分かったということは自我意識であり、自分が勝手に納得しただけである。妄は主観的な判断、独断)不知は是れ無記(分からないのは何も無いこと。知で生活活動を営む。不知のところでは生活(意欲)活動はない。不知なことは、全く自分とは無関係で無記である。自我意識の活動は、常に知と不知とを手足にしている。知も不知も自我意識のその時々の姿である)若し不擬の道(不擬は「絶対信(後述「信」参照)」の在り方、尽十方界真実である身体本来の在り方。所謂平常底の生命の事実。)に真達(身体本来の生命の在り方を行ずる。後述「只管打坐」)せば、猶大虚(広大無辺。大空)の廓然蕩豁カクネントウカツ(何とも手応え無しの平常底。只管打坐の実態)なるが如し。豈強いて是非すべけんや(只管に徹底せよ)」。
    州、言下に頓に玄旨を悟る


    さて以上の公案の主旨は、まず趙州が、「仏法の真実」とは何か、もっと言えば「」とは何かということを南泉に尋ねたところ、南泉は「平常心是道」、即ち何とも手応えの無い平常底であると答えた。

    ところが趙州は、そんな手応えのない答に釈然としない。恐らく仏道修行は「さとる」ことが第一だと考えていたかもしれない。そこで何を手がかり或いは目標に修行をすればよいのかと改めて問い直す。

    これに対して南泉は何か目標を定めるような修行をしてはいけない。自分の理想を掲げるような修行をしてはいけないと諭す。

    何故なら、通常世間では目標や理想を持つ事は良いことだと考えられているが、如何に高邁な理想や目標であっても、結局あくまで個人の自我即ち自己満足の追求に過ぎず、人間の自我発現以前の尽十方界真実人体とは無縁のものに過ぎないからである。

    然し、このことが分からない趙州は、あくまで真実は把握出来るという思い込みがあった。即ちこの世界には何か根源的な原理のようなもの、それをさとればからっと全てが解決するようなもの、それが真実だと考えていたのであろう。

    案の定、修行の目標が無ければ、どうしてこれが真実だということが分かるのでしょうかと南泉に問う。

    そこで南泉は、尽十方界の真実が如何なるものであるかを、趙州に親切に説明する。つまり、「仏法」の項でも述べたように、宇宙・大自然のありとあらゆる事実が真実であって、これこそは真実だと人間が考えるようなものは、あくまで人間が考えた真実即ちフィクションに過ぎない。


    実際人間も宇宙の存在の一つに過ぎず、宇宙全部を把握したり、理解したりする事は、科学の問題として考えても不可能である。観察者が観察対象(宇宙)の中に包含されているからである。

    尽十方界真実は、知覚・分別即ち自我意識の対象にはならない。

    人間が理解するということは、本人が勝手に納得した独断(自我)であって、直接尽十方界真実を把握した事にはならない。

    従って、我々が為すべき且つ可能な真の修行とは、尽十方界に生かされて生きているという真実即ち尽十方界真実人体を素直に頂くことである。

    つまり生理現象(「」という)である「ああしたい、こうしたい」という欲望追求(自我)に支配される自分の在り方から、自我意識を棚上げした身体本来の生命の在り方(例えば睡眠時の身体の姿)へ身体を解放することである。

    そしてそれは、後述「坐禅」(「只管打坐」)を実践(実修実証)することである。


    更に真の「悟」(後述「悟」参照)とは、このような平常底である無所得・無所悟の坐禅を生涯倦まず弛まず力まず続ける身体の在り方をいうのであり、外に特別なことは何もない。

    ましてや悟は世間一般に誤って信じられているような、何か特別な心理状態になることでは決してない。

    特別な心理状態というものは、単に尽十方界真実の或時のすがた、即ち興奮・のぼせ或いは陶酔に過ぎないのだということを、南泉は趙州に教えたのである。




三 祖師達の平常底

 

    最後に、禅の祖師達平常底を語る言葉を味わってみよう。


    まず、四祖大医道信(580〜651年)の説法を記録した『入道要方便法門』(『安心法門』)に、「種々に学問するも、如何にしてか道を得ざるや(色々勉強するのだが、どうして真実が分からないのだろうか)」という質問に、道信が「答う、己を見るに由っての故に、道を得ざるなり(答えよう。自己満足や自己の納得を追求するからだ。自我意識が尽十方界真実を素直に受け入れる事を阻んでいるのだ)。」

    そして「至人は苦に逢ても憂えず、楽に遇うても喜ばず、己を見ざるに由るが故に(尽十方界真実の実践者は、苦楽は身体の生命活動のその時々の表情・風景であると知っているから、身体本来の在り方を実践する。何故なら自我意識に振り回されないからだ)。」


    正にこの言葉は、平常底に生きることを教えており、達磨門下の修道の基本となっている。

    次に、曹洞宗系の青原行思(〜740年)の有名な「聖諦すらなおなさず、何の階級かこれあらん」という言葉は、青原自身、聖諦だの第一義等、これこそ真実というような人間的なものや、修行に本来有るべきではない階級等をも全く超えたところの、尽十方界の真実即ち平常底を生きていると述べたのである。


    また、同じ曹洞宗系の青原の弟子石頭希遷(700〜790年)の「石頭紅炉一点の雪」という言葉は、燃え盛る炉火の中に一片の雪を投入した情景であるが、永遠に雪の痕跡は無い。大自然の人間が気に留めない平凡な事実であるが、正に宇宙の真実即ち平常底である事を語っている。

    更に、道元禅師の師匠である天童如浄禅師(1163〜1228年)の「放行把住逞風流、総是冤家笑点頭」(『如浄語録』巻六)は、「放行把住」(掴まえたり放したり)の平凡な日常生活が「風流」(行き詰り無し)であり、「冤家」(敵即ち人生をかこつ連中)も笑って「点頭」(頷く)ということである。


    同じ「風流」について、弟子の道元禅師は「風流浅き処かえって風流(『永平広録』)」と仰っているが、これは人生の喜怒哀楽は生命活動の表情・風景であり、これに振り回されないで、この人生を一幅の絵のように眺めてみること、即ち「平常底に徹する」ことが「風流」(尽十方界真実をいただくこと)だ、ということである。


    そして良寛さんも次のような有名な俳句を詠んでいる。

     ◎「うらを見せおもてを見せて散るもみじ」(良寛)

    つまり迷いやさとり、或いは人間の喜怒哀楽などは、全て生命活動の表情・景色として素直に頂くべき性質のものであり、生きている限り避けられないものである。

    即ち一方(表)が良くて一方(裏)が悪いというようなものではない。いずれもその時その時の一時の在り方であるが、同時にその時の尽十方界(宇宙・大自然)の絶対的な真実の様相・姿であり、自我でどうにかできるものではない。ただそれをそっくりそのまま頂戴するしか仕方がないものである。


    最後に、臨済義玄(〜866年)に「無事是貴人」と云う言葉があるが、「無事」とは「仏(尽十方界真実)の実態」を言い、「貴人」は「仏」のことである。


    また臨済は、「当下に無事なるを、まさに得法と名づく」、即ち今すぐ平常心であり得たら、これこそ真に悟道であるとも言っている。


    因みに、「忍辱ニク」という言葉の意味は、「忍耐」という意味ではなく、「平常底」を意味している。

    なお「自我の超越」「菩薩の在り方」「利他行」の意味もある。




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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・7 現成公案

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