法句抄




教典

    *『法句経』
    自己を依りどころとして、世間を歩め。自己の依りどころは自己のみなり。

    『長阿含・遊行経』:
    釈尊入滅最後の教誨)比丘放逸をなすなかれ。我不放逸を以っての故に自ら正覚を致せり。無量の衆善く亦放逸に由りて正覚を得ん。一切万物に常存者なし。之れ如来末後の所説。

    *『涅槃経』四句偈:
    諸行無常。是生滅法(生滅の法)。生滅滅已(滅し已る)。寂滅為楽

    *『金光明経』
    仏真法身、猶若虚空。応物現形、如水中月。(仏の真法身は、猶虚空の如し。物に応じて形を現し、水中の月の如し。)=宇宙の真実は手応え無し、ありとあらゆるものが真実。

    *『延命十句観音経』
    観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。  朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心
    =世音を観じて、南無仏す。仏と因有り、仏と縁有り、仏法僧の縁有りて、常に楽しみ我れ浄し。朝に念ず、世を観ずる音。暮れにも念ず、世を観ずる音。念念心(いのち)従り起(い)かされて、念念心(いのち)を離れぬゆえに。(内山興正訳『観音経・十句観音経を味わう』柏樹社刊)




仏祖の道得

    *優波鞠多
    地に倒るるものの地によりて起る。」=尽十方界の真実の表情(地=尽十方界、倒る・起る=真実の表情)。

    *菩提達磨
    凝住壁観。無自無他。凡聖等一。堅住不移。」(四行観

    *南泉普願
    三世諸仏不知有。狸奴白却知有。」=諸仏は真実を知って、欲望に振り回されないが、凡夫は欲望感覚に左右される。不知有とは尽十方界真実、却知有とは知覚の範囲の事実。狸奴白とは凡夫。

    *天皇道悟
    見則直下便見、擬思即差。」=見るときはそのまま見る。思慮せんとすれば忽ち間違う(無分別智)

    *船子徳誠
    一句合頭語、萬劫繋驢ケツ。」=真実語もそれに囚われては何もならない。

    *瑯慧覚
    清浄本然。云何忽生。山河大地。」=一切のものは理由無しに大自然。

    *洞山・僧:
    僧「寒暑到来、如何廻避。」(尽十方界の在り方は全部廻避、即ち現実をそのまま頂く)洞山寒時寒殺闍梨。」(寒時は寒い。そのまま頂け)

    *宏智広録
    環中虚白の處に端坐して縦ひ塵劫を経るも箇も移り難し。」=坐禅の姿は無量無辺(どのくらい坐ったらよいと云うこと無し)。

    *如浄語録
    葫蘆藤種纏葫蘆。」=(坐禅の内容)現実と云うものは纏わりついて雑多なもの、それをそのまま頂く。これこそ真実と云うもの無し。


    (その他の祖師の語)

    *「もし人、心を識得すれば、大地に寸土なし。」=日常生活の場こそ我が尽十方界真実人体の働く道場であって、そこに他者は無い。

    *「至道無難、唯嫌揀択」(信心銘)=尽十方界は完全無欠、選り好み無し。

    *「円なること大虚に同じ。」=全て完全無欠。全てが修行している。

    *「渓深ければ杓柄長し。」=いつも現実に即応。

    *「牡丹花下睡猫児。」=満足感の追求せず。仏と仏の無心の出会い。尽十方界真実の姿。

    *「徹底光明成一片。」=つきつめると「我」はない。尽十方界真実人体。

    *「人人鼻孔撩天、箇箇壁立萬仭。」=全部共通の大自然を生きている(本来の面目)が、どれも代理がきかない個々独立。

    *「混沌未分の時(全てが曖昧)如何。」「露柱懐胎(一時的な姿。全て元に戻る)。」

    *「年々是好年、日々是好日」=生きていることはかけがえなく絶対的。

    *「長空白雲の飛ぶことを礙えず。」=空は雲の動きに知らぬ顔。何とも無し。

    *「張翁酒を喫すれば李翁酔う。」=非常に親しい関係。




永平広録(各巻)

    巻一:「当下に眼横鼻直なることを認得して人に瞞ぜられず。乃ち空手にして郷に還る。」=全てのものはあるがままで絶対真実。不足無し。

    巻一:「無上菩提七顛八倒。転妙法輪落三落二。」=尽十方界真実は生きている表情であり、真実の展開は色々あって単調なものではない。

    巻一:「大疑親切、模索不著。」=理解できないと言う事が真実の感触。模索を解決しょうとしないことが本当の在り方。

    巻二:「晴天を搬得し白雲を染む。」=(不可能なことから転じ)その時その時の状態をそのままそっくり頂く。

    巻二:「須く退歩荷担すべし。」=真実を直視し、捨てないで全部受け取る。

    巻二:「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞。」=誰でも坐禅すれば、日常的自分が消えて、尽十方界真実そのものとなる。

    巻三:「開池不待月。池成月自来(池を開いて月を待たざるに、池成れば月自ら来たる)。=結果を期待せず、只管に正しくやればよい。

    巻八:「其れ求道の心を一時に放下する是也。此の放下底実に大道に徹する底の時節也。」=理想(自己満足)の追求を止める(仏道の基本)。

    巻八:「遇縁即宗、辨處圓通。(結夏小参)」=どんな縁に遇うても尽十方界の真実に即していれば、どんな場合にも行き詰り無し。

    巻八:「大道須知在目前。阿誰囘眼遍山川(誰か眼を回らして山川に遍せん)=目撃道存(目に映った判断納得以前の事実がそのまま真実)。

    巻八:「(けば)(ず)百當。作(せば)(ず)十成。=やることなすこと全部無駄なく完全(仏道に標的、目標無し。何処に当たってもよく全部命中)。

    巻九:「了了了時無可了。玄玄玄處是紛紜。」=完全はない、これが本物と云うことはない。本物を尋ねること自体エゴの追求だから。

    巻十:「兀地一機歴歴。荘嚴三昧塵塵。」=坐相は明確。生命の完全な姿(種々の風景)。

    巻十:「大道従来一貫通。」=大自然の真実に行き詰まり無し。どっちへ行っても良し。

    巻十:「大道元来無定轍。」=真実は固定したものではない。時に応じてそのまま頂く。

    巻十:「無方大道本如何。」=固定したものなし。大自然の真実は如何なるものも真実。

    巻十:「自家の鼻孔自家に牽く。…須く精進して頭燃を救うべし。」=自分の呼吸は自分がするしか無い、よそ見せず徹底只管打坐。

    巻十:
    「取捨を雙忘して思?然。万物同時現在前。仏法今従り心既に尽く。身儀向後且く縁に随はん。」=取捨に引っ掛からないで無事通過すれば、万物そのままの姿を公平に見ることが出来る。今更仏法を求めたりひけらかしたりする必要無し。此からは只縁に従って生きて行くだけである。
    巻十:
    「生死憐む可し雲の変更。迷途覚路夢中に行く。唯一事を留めて醒めて猶記す。深草の閑居夜雨の声。」=人生は天気のようなもの、これに振り回され一喜一憂するのは憐れなもの、大自然の真実(全体)から生命の風景として此の事実を眺め、全て閑居の夜雨のように味わう。
    巻十:
    (冬至)「昨日短兮今日長。了無仏法可商量(仏法は決めるもの無し)。絶商量後如何委。到處逢人賀一陽(人に逢えばおめでとうと)。」
    巻十:
    (自賛)「老梅樹老梅樹(すべてそっくり頂いて生きている)。長養す枝枝葉葉の春(枝葉が伸びる春になった)。兀地一機歴歴たり(坐禅の姿ははっきりしている)。荘厳三昧塵塵(種々の景色があって完全である(尽十方界真実人体の生命活動))。・・(中略)・・蒲団捨てざるに驢年(坐禅しても何にもないがただ続けるだけ)。道を問うて只是拳を起す(人に道を訊かれて拳を起すだけ)。畢竟如何が理会せん(結局何と会得するか)。身心懶く禅に参ぜず(何時まで経っても怠けたくなるが相変わらず努めなければならない)。」
    巻十:
    (冬至)「觸處逢渠全面目(いつも完全無欠の仏に逢っている。自然の恩寵)。 翻身囘首向天通(従来の見方を変えて尽十方界に目を向けよ)。一期縦借拳頭力(一時力んでも)。出気須還鼻有功(鼻で呼吸をしてる)。」

    巻十:(山居)「西来祖道我伝東。釣月耕雲慕古風(大自然の真実を修行)。世俗紅塵飛不到(世俗の名聞利養は関係無し)。深山雪夜草菴中。」
    「 風流浅き処かえって風流。」=人生の喜怒哀楽の風景に振り回されないで、此の人生を一幅の絵の様に眺めてみること(平常底)。
    :(引導法語)「娑婆の皮一枚を卷卻して、萬年一念直に須く灰なる、箇中の仏祖頭を競うて現ず、閻老業鬼作仏し来る。」
    =裟婆生活の幕を閉じ、荼毘に付す、どんなちょっとした行動も永遠の真実、おまえもそのとおり、地獄の勤め人も一つの配役。
    「月を釣り雲を耕して古風を慕う。」=無所得(仏法永遠の風流)。




その他

    *十七条憲法
    「人みな心あり。心おのおの執れるところあり。彼是なれば即ち我非なり。 我是なれば、即ち彼非なり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚にあらず。
    ともにこれ凡夫なるのみ。世間虚仮、唯仏是真。」
    *親鸞「つくべき縁あればつき、離るるべき縁あれば離るるを。」
    *乞食桃水:「隘けれど宿をかすぞや阿弥陀どの後生頼むと思しめすなよ。」
    *山岡鉄舟「はれてよし曇りてもよし不二のやま元の姿は変らざりけり。」
    :「獅子舞の太鼓叩かず笛吹かず後足となる人もあるなり(後足こそ心やすけれ)。」
    「思わじと思うも物を思うなり思わじとだに思わじな君。」
    「こころとも知らぬ心をいつのまにわが心とや思ひそめけん。」 
    「分別も分別無きの分別は分別ながら分別で無し。」 


                  



良寛

    焚くほどは風がもて来る落葉かな
    形見とて何かのこさむ春は花山ほととぎす秋はもみじ葉
    :水や汲まむ薪や樵らむ菜や摘まむ秋のしぐれの降らぬその間に
    草の庵に脚さし伸べて小山田の山田の蛙聞くが楽しさ
    何故に家を出でしとをりふしは心に愧ぢよすみぞめの袖
    身をすてて世を救ふ人もますものを草のいほりにひまもとむとは
    老が身の哀れを誰に語らなむ杖を忘れて帰る夕ぐれ
    :ゆく秋の哀れを誰に語らましあかざ籠にれて帰る夕ぐれ
    :月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗の毬イガの落れば
    :むらぎもの心楽しも春の日に鳥の群がり遊ぶを見れば
    :ぢむばそに酒に山葵にたまはるは春は寂しくあらせじとなり
    あは雪の中にたちたる三千大千世界ミチアフチまたその中にあは雪ぞ降る
    うらを見せおもてを見せて散るもみじ




澤木興道

     
    「一切が自己の内容であるゆえに、他人の思惑をよく考えて行動せねばならぬ。」
    :「宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。」
    :「凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む
    :「坐禅の時以外は、何時でも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。」
    「仏教的人生観がはっきりしてからでなければ、真の坐禅修行にはならぬ。」
    :「わが宗では「坐禅」が本尊。「非思量」が法身。「修せざるにはあらわれず証せざるにはうることなし」が報身。
    「行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然(証道歌)」が応身。」
    :「仏法は身体を何に使うかの問題。煩悩の奴隷に使わないこと、身心の修め方である。」
    :「世俗の安楽を全て止めたのが真の安楽である。」
    :「諸行無常を学すとは、その瞬間その瞬間、的の外れないことを学することである。
    「この場合これでどうか」、いちいち一切生活上の工夫をすることが、無常を学するということである。」
    :「行く処までいけばそれでよい、必ずおさまらなければおさまらない。」
    「仏教とはのぼせを下げる宗教である。」
    :「組織を作ったら、もはや宗教ではなく、事業になってしまっている。」
    「民主主義とは、己れの欲望を人権と称して、人を承服せしめ、数の力でおしきること。」
    :「在家の出家とは、在家でありながら在家のグループ呆けしていない人間のことである。」
    :教育、教育というて、何かと思えば、みな凡夫に仕立てることばかり。」
    :「仏教というものは「ああ人間に生まれてきてよかった」ということを教えるものである。」
    「差別のわからぬのはバカだし、差別が気になるのは凡夫だ。」      
    :「グループ呆けということがある。そして呆けたのを経験と心得ておる。」
    「自分が自分の思うようにならない。無我だからだ。」
    :「坐禅は人間の一切の錯覚から御免蒙ることである。」  


    




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