良寛詩集より
内山興正『興正法句詩抄』及び『いのち楽しむ』より
* 撃竹大悟 香厳智閑
一撃所知を亡ず 一撃の音で習い覚えたものを忘れた 更に自ら修治せず そっくりそのまま頂くだけ 動容古路を揚ぐ 日常生活に真実実践 悄然の機に堕さず がっかりする必要なし 処処蹤跡無し どんな所も尽十方界 声色外の威儀 感覚を超えた生命の姿 諸方達道の者 諸方の真実実践者は 咸く上上の機と言う 皆それが尽十方界真実の在り方と言う
* 桃花悟道 霊雲志勤
三十年来剣を尋ぬる客 三十年の間剣の使い手を探し求めた 幾回りか葉落ち又枝を抽ず 毎年毎年葉は落ちまた枝は伸びた 一たび桃華を見し自従り後 一度桃華(尽十方界真実)に覚めてから 直に如今に至て更に疑わず ずっと今まで真実を疑うことがない
* 過水の偈 洞山良价
切に忌む他に随て覓むを 本来の自己を絶対対象として覓めてはならぬ 迢迢我与疎なり 遥かに本来の自己から疎遠となるばかりだ 我今独り自ら往く 本来の自己(生命)は今独り自ら往くもの 処処に渠に逢ふことを得 何処でも真実(生命)の渠(表情)に逢う 渠は今正に是れ我 渠は今正に本来の自己・生命の表情に違いない 我は今是れ渠ならず 本来の自己そのものはその表情と同じではない 応に須く与麼に会して まさにこのように頂いて 方めて如如に契ふを得たり はじめて尽十方界真実人体そのものだ
* 神通 ホウ居士
日用の事別無し 日常生活はどうということなし 唯吾自ら偶諧す ただ自ずから自然に都合よく運ぶ 頭頭取捨に非ず 総て取捨せずそっくりそのまま頂くだけ 処処張乖を没す 何処にあっても行き詰まり無し 朱紫誰か号を為す 朱だ紫だと誰も位階等に用はない 丘山点埃を絶す 山中は巷の塵埃から隔絶している 神通并に妙用 有難い事にわが神通と妙用は 水を運び与柴を搬ぶ 水を汲み薪を運んで不足無し
* 竿頭進歩 長沙景岑
百尺竿頭の不動の人 自我の世界から動かぬ人は 然雖得入未だ真と為さず 悟ったと言っても本物ではない 百尺竿頭須く歩を進むべし 一度無所得・無所悟の坐禅を行ずれば 十方世界は是れ全身 忽ち自我を超えた尽十方界真実人体
* 長慶慧稜
万象之中独露身 万象全部が真実、選り好みすべきではない 唯人自肯て乃方めて親し 人自ら真実を行じれば尽十方界真実人体 昔時謬て途中に向て覓む 嘗ては誤って悟りを求めていたが 今日看来れば火裏の冰 今日坐禅から見れば何ともない平常心
* 蘇東坡
廬山は烟雨、浙江は潮 未だ到らざれば千般恨み消せず 到り得帰り来たれば別事無し 廬山は烟雨、浙江は潮
良寛詩集より
* 花無心にして蝶を招き 蝶無心にして花を尋ぬ 花開く時蝶来り 蝶来る時花開く 吾も亦人を知らず 人も亦吾を知らず 知らず帝(大自然)の則に従ふ* 妄と道えば一切は妄(自我世界) 真と道えば一切は真(尽十方界真実) 真の外に更に妄なく 妄(日常生活)の外に別に真なし 如何なれば修道子(修行者)は 只管真を覓めんと要するや(真実のみを追求しようとする) 試みに覓むる底の心(理想追求)を看よ 是れ妄か将た是れ真か(有所得の自我か無所得・無所悟の真実か)* 我が生は何処より来り 去って何処にか之く 独り蓬窗(苫屋の窓辺)の下に坐して 兀々として静かに尋思す 尋思するも始めを知らず 焉んぞ能く其の終りを知らん 現在も亦復然り 展転総べて是れ空(総ては尽十方界真実の展開であり表情) 空中に且く我れあり(尽十方界に生かされて生きている) 況んや是と非とあらんや(自我の所産である是非も真実の一時の景色) 如かず些子を容れて(ちっぽけな我だが尽十方界真実人体) 縁に随って且く従容たるに(ゆったり落ち着く)* 夜の夢は都て是れ妄にして 一も持論すべきなし(信じるに値しない) 其の夢中の時に当っては 宛として目前に在り(情景は現実のように目前に在る) 夢を以て今日を推すに(夢を以って現実を推し量ると) 今日も亦復然り(現実も亦同じようなものだ)* 昨日の是とせしところを 今日亦復非とす 今日の是とせしところも 安くんぞ昨の非にあらざるを知らん(昨日は非としなかったかどうか) 是と非と定端(基準)なし 得と失と預め期し難し 愚者は其の柱(コトジ)に膠(ニカワ)し(融通が利かない) 何くに適くとして(どこへ行っても) 参差(シンシ 矛盾、食い違い)たらざらん 智あるものは其の源に達し(智者は根源を見通し) 従容として歳時を消す(月日を過ごす) 智愚両つながら取らずして(智愚共に自我の姿) 始めて有道の児と称す(自己満足放棄が真の有道者)* 坐禅詩遍界(世間)は歳暮男女鬧(サワガ)し 唯草庵のみ正に安然(静寂)たる有り 知らず何を以てか仏恩に答えん(この仏恩に如何応じよう) 一爐の香烟一坐禅(一チュウの只管打坐が報恩行)* 生涯身を立つるに懶(モノウ)く 騰々(のほほん)として天真(天然ありのまま)に任す 嚢(頭陀袋)中三升の米 炉辺一束の薪 誰か問わん迷悟の跡(迷いも悟りも身体の生命活動の表情に過ぎない) 何ぞ知らん名利の塵(名声や財産等私には関係なし) 夜雨草庵の裡 双脚等閑に(のんびり)伸ばす* 夏の夜夏の夜更けの二三更 竹露柴扉に滴る 西舎(西の家)は臼を打ち罷んで 三径(隠者の草庵)宿草(古い草)滋し 蛙声遠く還(マ)た近く 螢火低く且つ飛ぶ 寤めて言(ココ)に寝ぬる能わず(目が醒めてもはや寝つけず) 枕を撫でて思い凄其(寒々)たり* 秋夜夜正に長く 軽寒我が茵(シトネ)を侵す 已耳順(六十)の歳に近し 誰か幽独(幽居孤独)の身を憐れまん 雨歇(ヤ)んで滴りは漸く細く 虫啼いて声は愈頻りなり 覚めて言に寝ぬる能わず 枕を側てて清晨(夜明け)に到る* 終日烟村を望みつつ(一日中霞たなびく村々を目指して) 展転して(巡り歩きながら)乞食して之(イ)く 日落ちて山路遠く(遥かな山路を行けば) 烈風髭を断たん(引き千切る)と欲(ス) 衲衣は破れて烟の如く 木鉢は古びて更に奇なり 未だ厭わず饑(飢え)寒の苦を 古来斯くの若き(苦難)多し
内山興正『興正法句詩抄』 及び『いのち楽しむ』より
* 生死手桶に水を汲むことによって 水が生じたのではない 天地一杯の水が 手桶に汲みとられたのだ 手桶の水を 大地に撒いてしまったからといって 水が無くなったのではない 天地一杯の水が 天地一杯のなかにばら撒かれたのだ 人は生まれることによって 生命を生じたのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めのなかに 汲みとられたのである 人は死ぬことによって 生命が無くなるのではない 天地一杯の生命が 私という思い固めから 天地一杯のなかにばら撒かれるのだ* ねらい人はどうせねばならぬことはない どうあってもいい このどうあってもいい いのちこそを 人はきびしく自らに ねらって生きねばならない それがいのちなのだから* 生死二つなしどんなことでも 死んでしまえば どうでもいいことなんだ すべてどうでもいいという 地盤から見直し見直し 生きたいと思う どうでもいいこと なのだけれど* 片付かぬまま愁いの雲は 愁いの雲のまま 悲しみの雨は 悲しみの雨のまま 怒りのあらしは 怒りのあらしのまま すべて片付かぬまま 思い手放しのところに ただじっと坐る 大空が 雲ぐるみの 大空であるように* つつしんでとぼしけれど まずしけれど いまのさずかりは 有難し ものたりぬまま 安らかにあるは なお有難し つつしんで いま生きる深さを 味わう* 自分苦しみながら 苦しんでいない自分あり 悲しみながら 悲しんでいない自分あり 得意でありながら 得意でない自分あり 酔いながら 酔っていない自分あり そんな何ともない自分にはっきり覚めて それに深まるなかに 安らう自分あり* 色即是空 空即是色 色即是色 空即是空捨てる 捨てる 捨てる どうせ何から何まで 捨てねばならぬ時がやってくるのだ 捨てて 捨てて 捨てて カラッポのとき そのカラッポの中には すべてそのまま どうせねばならぬことはない すべてそのまま ただ捨 捨 捨 大空に白雲は流れてゆく