第T章 仏法の大意

3 尽十方界・尽十方界真実

尽十方界(ジンジッポウカイ)」とは、一般に聞き慣れない言葉であると思われるが、仏法(禅)においては非常に重要な言葉であり、且つ仏法の規模及び実態を的確に表現した言葉である。

この言葉を最初に用いたのは唐代中期の南泉普願(748〜834年)であるとされているが、菩提達磨(〜534年?)の「凝住壁観」を継承する中国禅を、宇宙的な次元にまで発展させた素晴らしい言葉だと言える。

以下に述べるように、インドの大乗仏教では、これほどまでに仏道修行の規模を明確にしたものはないと言える。





一 尽十方界(尽十方界真実)の意義


    さて「尽十方界」乃至「尽十方界真実」とは、「宇宙・大自然ないしその生命(生滅)活動及びそれに伴うあらゆる事実」を言う。端的に仏法を表現した言葉である。

    ここで「十方」とは「東西南北四維ユイ上下」、即ち「あらゆる方向」を意味する。「尽十方」はあらゆる方向を尽くすことであるが、どの方向(例えば東)を延長してみても無限であり、当然あらゆる方向を尽くすことは不可能である。また宇宙には本来方角などない、つまりこの言葉は「無限の宇宙」を表現している。

     [参考]
     *「この十方は一方にいり(一方も十方)、一仏にいる。」(どんな状態でも尽十方界真実)
     *「拳頭一隻(一つの拳骨)、只箇十方(十方即ち自然している)なり赤心一片(生命活動・生きてる姿)、玲瓏十方(なんともなく(無色透明)自然している)なり。」 
     

    また「」は、『起信論義記』に依れば「の義」とされ、「生じている」或いは「自然している」と言う意味であり、「尽十方界」は、無量無辺の宇宙ないし大自然及びそこに生滅する一切の現象を包括する概念である。

    従って「尽十方界真実」も、尽十方界における事実の絶対性、即ち実際に生滅していると言う意味で動かし難い本当の事実を意味し、基本的に尽十方界も尽十方界真実も同一の意味であり、包括的な「宇宙全体」に重点をおくか、「宇宙・大自然に生滅する事実」に重点をおくかにより、多少のニュアンスの相違があるに過ぎない。

    因みに道元禅師は、その主著『正法眼蔵』の初期の頃の巻々は、未だ尽十方界という言葉を使用されておらず、代わりに「尽大地」「山河大地」等という言葉で表現されている。また「尽界」「尽法」「偏界」「偏十方界」等という言葉が使用されている場合もある。

    なお、仏典に「法」或いは「法界」という言葉が頻繁に見られるが、「」は「事件、事実、存在、出来事」という意味であり、仏法の考え方から言えば、法は「時」の姿、法の事実は「時」である(後述『正法眼蔵』「有時」巻参照)。「法界」は、あらゆる事実や事件を生じさせ、生かしている事実を意味する。




二 尽十方界の実態


    以上のように、尽十方界(真実)とは仏法のことであるが、この言葉は、仏法の実態である宇宙・大自然の在り方を、我々現代人にもイメージさせ易い言葉として優れている。

    その意味から、仏法を表現するに際し、酒井老師はこの由緒ある言葉を好んで用いられた。因みに山興正老師(1912〜1998年)は、自ら発明された「生命の実物」という言葉で仏法を表現されていたが、伝統的な「尽十方界(真実)」の方が、仏法の実態を正確に表現していると思われる。

    それはさて置き、尽十方界(真実)は即ち仏法であるから(前々項の三)、「仏法の実態」で述べたことがそっくりそのまま当てはまる。つまり、尽十方界即ち宇宙全体は無始無終の活動をし続けている。この事実を「平常心」とも言い、或いは仏典では「那由他阿僧祇劫ナユタアソウギコウ」(無限)等とも表現している。

    そこには人間の自我(意志・意欲)が支配する主義・主張・立場や満足、解決、完成等と云う概念の入り込む余地はない。

    また人の欲望に起源する数量、大小、時間、空間、場所、方角等の概念も無い。

    まさに人間の営みを超越したありとあらゆる大自然の事実の世界である。仏法ではこのような事実を「法住法位」と言う。

    なお尽十方界は、目に見える世界即ち「眼識(視覚)」の範囲だけの小さな世界を言うのでもなければ、宇宙と云う単なる観念の世界を言うのでもない。

    あくまで実際現実の世界のことを意味するのである。特に注意を要するのは、仏法(尽十方界真実)は、自ら真実であると主張することはないということである。

    尽十方界においては、ありとあらゆるものが真実(本当の事実)であり、「これこそ真実である」と特に採り挙げることは勿論、人間がそれを求める事も体験(分別・知覚)することも出来ない。

    また尽十方界真実は解決や納得など人間の自我が求める次元をはるかに超えたものである。まさに尽十方界の真実は概念や原理ではないので、把握しようと思っても手掛かりがないのである。

    酒井老師は、しばしば「我々は、口から物を入れて、後は翌朝排便するだけ。体の中の働きには一切お構いなし。身体の方では休日も無く働きつづけている」ことを例に出された。

    我々自身は、現実に自分の身体(生命)の働き(真実)を、体験(知覚・分別)しているように思っているが、実際のところ、その生命の真実について何も把握できていないのである。

    何故なら、身体の構造や機能についての知識があること、或いは身体の反応時の知覚・感覚等があることだけを以って、生命全体の真実を把握した事にはならないからである。

    因みに犬や猫などは、人間が考える意味での自我意識はないだろうから、「体験」は有り得ないと思われる。

    尽十方界の真実は、このように得ようとしても手掛りが無いということを、長沙景岑ケイシン(〜868年)は、後述の通り、初めて明確に「尽十方界」という語を用いて表現したのである。

    尤も長沙以前の六祖慧能南嶽懐譲有名な公案(『正法眼蔵三百則』中巻一)に、既にこのことが語られている。

    即ち六祖の会下で8年の修行後、六祖の「什麼物恁麼来」(前項で既出)という問いに対する南嶽の「説似一物即不中(一物を説示するに即ち中アタラず)」という答えがそれである。

    これは、「これこそは真実だということは無い」ということである。つまり「全て真実(唯仏与仏乃能究尽)」だから、これこそ「真実」と採り挙げても、全てが真実だから真実全体を掴まえた事にはならないという意味である。

    なおここで「一」は、「無他」の義(『起信論義記』)、即ち順序や順番を意味するのではなく「全体、全部」を意味する。

    更に言えば、前々項で、気象について述べたように、大自然の状態にはどれが最高、どれが真実ということはない。全て真実である。

    大きさ、深さ等基準は無い(これを「無相」と言う)から、これこそ正に真実だと決めることは出来ない。全て尽十方界の真実であり、そっくりそのまま受容(頂戴)するしかないのである。

    因みに、「本来無一物」(『正法眼蔵三百則』下巻七十八)という言葉があるが、これは「全体(無一物)」が宇宙の真実という意味であり、「廓然無聖」(後述の達磨の武帝の問い「如何なるか聖諦第一義」に対する答)ということも同じである。

    つまり「無一物」とは大自然()の全体(一物)ということである。体系や原則等人間の思考の所産とは全然関係の無い宇宙・大自然の事実なのである。

    仏法の言葉には、こうした事実を表現する言葉がいくらでもある。

    例えば、「遍界不曽蔵(遍界曽て蔵さず)」という言葉があるが、これも宇宙の真実でないものは何処にも無い、どんなものでも宇宙の真実を表現しているという意味である。

    また次に挙げるのは、六祖慧能『六祖壇経』(付嘱第十)の言葉である。

    「一切真有ること無し 以て真を見ず 若し真を見れば 是の見は尽く真に非ず。若し能く自ら真有らば 仮を離れて即ち心は真なり。自心は仮を離れざれば真無し いづれの処か真ならん。」

    つまり、真実というものは所謂「存在」するものではないし、又経験されるものではない。

    「真を見た」ということは、主観的眼識のその時の様相であり、一時的事実で仮相であるに過ぎない。全ては仮相に過ぎないということが真実である。

    「一切真あること無し」ということが真実である。仮相を現じて生き続けている後述「心」(尽十方界)の事実こそ真実である。これこそが真実であるという事はないということである。

    ところで、宇宙・大自然は絶えず活動し続けている。其の活動のどれ一つも、我々の恣意で免れることはできない。

    いかに人間の好みに合わぬことでもすべて真実(宇宙の生命活動)の姿である。

    しかもこの姿はどこまでも活動の表情であって、その時々の宇宙・大自然の姿(相)であり、それはどうすることもできない絶対的な事実である。

    逆に表情のない真実(活動)はない。言わばこの宇宙の真実の表情(「生命活動」)の中に我々の人生(喜怒哀楽)がある。

    つまり、詳細は次項「尽十方界真実人体」で述べるが、我々は、尽十方界真実人体(尽十方界真実が人体している)として生かされて生きている。

    この尽十方界真実人体こそは人間の都合の善し悪しに拘らず、尽十方界真実即ち宇宙・大自然の絶対事実なのであり、人間の生活活動に於ける自我(自我意識)発現以前の生命そのものの在り方なのである。

    その次元においては、自他の対立は無く、の概念も無く、宗派や流儀も無い。例えばAさんとBさんでは、身体の流儀が違う等という事は有り得ない。

    前々項でも述べた人間の身体の生命活動は、川の流れにも喩えられ、川の流れの表情に過ぎない波は、人生の喜怒哀楽(自我)であり、身体の生命活動の表情・風景に過ぎない。

    常に身体の生命活動自体はその表情である自我意識には関わりなく活動し続けている。そしてこの事実を三昧・解脱・脱落ということについては既に述べた通りである。

    このことから、我々は徒に自我中心の人生に振り回されないで、身体本来の生命活動に出来るだけ忠実な在り方(後述「坐禅」)を実践することが本来の姿であり、仏道に適う道である。




三 長沙景岑の尽十方界


 

    次に、南泉の弟子である長沙景岑が、尽十方界の語を駆使して、仏法を表現した有名な語句が『正法眼蔵』「光明」巻に採り挙げられており、以下にそれらの語句を紹介してみる。

    • 尽十方界是沙門の全身

        尽十方界の真実に忠実な修行、即ち自我を超えた生命の在り方を実修実証(坐禅)している沙門(出家僧)にとっては、人生上の苦楽、幸不幸等諸般の事実も、気候の変化等自然の様相と同様にそのまま素直に受け入れる。

        人生上(自我世界)の諸般の事実を超越して大自然に生きて、尽十方界真実規模の人生を全うする。

        「大自然にあっては、どのようなことがあっても当り前」(後述「平常心是道」)であり、天災地変等も人間世界において問題になるだけである。

        尽十方界に生きる沙門には、如何なることがあっても平常底(何とも無し)に過ぎない。この様に沙門の生活は、この宇宙そのものをそのまま全身としている。

    • 尽十方界是沙門の家常カジョウの語

        我々が生きている事実が大自然そのものの姿である。

        出家の生活は、尽十方界がその規模であり、彼の日常生活(「家常」)の活動全てが、尽十方界真実の実践(自己満足追求の放棄)であり、宇宙そのものの表現である。

    • 尽十方界是沙門の一隻セキ

        出家の生活(眼)は尽十方界を規模としている。即ち身体は大自然そのものであり、自分の所有物ではない。

        自我意識に引っ張り回されず、個人的なもの一切を超えて、宇宙の真実を実修し実証するのが仏道修行者であり、それが沙門である。

        本来の大自然のあり方に忠実に生きるのが出家者の在り方である。

    • 尽十方界是自己の光明

        自己の存在(身体)は宇宙・大自然そのものである。大自然の光明(恩寵)により、我々は生かされて生きている。これを「尽有光明」とも言う。

    • 尽十方界一人として是自己に非ずということなし

        我々にとって、この世界のありとあらゆるものは、如何なるものであろうと身内(親密な関係)で無いものは何一つない。

        常に全ては自己の全身であり、誰でも尽十方界真実を生きている。自他の対立なし。

 



四 玄沙師備の尽十方界


 

    次に、道元禅師がその『正法眼蔵』において、高い評価を与えておられる玄沙師備(835〜908年)の尽十方界の語を用いた次の有名な語句を紹介する。

     ◎尽十方界是一顆明珠ミョウジュ(『正法眼蔵』「一顆明珠」巻)

    尽十方界の真実は、感覚、知覚、分別等によって体験できるものではない。無色透明の珠のように、手応えもなければ目印もなく、勿論掴むこともできない。要するに何とも無いものである。

    これは平常心是道、即ち「明珠」は平常底であることを表現したものである。

    参考までに、この言葉に関連した公案(『正法眼蔵三百則』上巻十五)の要点を、以下に紹介しておく。

    ある僧が玄沙に、玄沙の「尽十方界是一顆明珠」を、修行者は「如何会得(どのように学べばよいのか)」と質問したところ、玄沙は「用会作麼ソモ」即ち「会を用いて麼ナニと作さん」(但し「用会は作麼なり」と訓むのが仏法の常識)と答えた。

    つまり玄沙の答えの意味は、「疑問を持っただけでも結構だ、仏法は解決しないで良いし、解決できるものではない。理解するものではない。」ということである。

    ところで「仏法」の項で、仏法における疑問詞の意味(疑問詞が真実を正確に表現)を述べたように、僧の質問も、僧自身が意図しているか否かに拘わらず、自ら既に答えている。

    即ち「如何会得」は「如何ようにも会得出来ない」ということ、即ち「会得のしようが無い。

    真実の感触はせいぜい『如何会得』と表現するしか無い。そしてこれが本当の会得の仕方である」と言うことを表現している。

    更に言えば、「用会」とは人間の努力ないし日常生活のことであり、「作麼」(疑問詞)は尽十方界真実のことである。

    結局、用会(日常生活)は一顆明珠(尽十方界)のお蔭でやっているということになる。

    この公案では、上記の師弟の問答があった翌日、続いて、今度は玄沙が僧に、先の問答の意味を本当に分ったか否かを確認する意味で、前回僧がした質問(「如何会得」)と同じ質問を逆にすると、僧は玄沙が前回答えたのと全く同じ答え(「用会作麼」)をした。

    そこで、玄沙は僧に向かって、「汝黒山鬼窟裏に向かって活計を作すことを知りぬ」と言った。

    つまり、「黒山鬼窟裏」は「暗闇(地獄)」のことで、普通は良い意味には用いられないが、ここでは仏法が無量無辺(無解決、無所得・無所悟)であることを意味し、悟ろう等と考えないで、無所得・無所悟の尽十方界真実の修行(只管打坐)を引き続き努力(仏向上事)せよと言って励ましたのである。

    玄沙は、上述のように、『正法眼蔵』においては、その師である雪峰義存(822〜908年)との問答の形で、最も多く登場する祖師の一人である。

    参考までに、「火焔説法」の公案(『正法眼蔵三百則』下巻八十八)を以下に挙げる。

    雪峰大衆(修行僧達)に示して曰く「三世諸仏、火焔裏に在って、大法輪を転ず。」

    即ち、雪峰が大衆に、三世(過去現在未来)の諸仏(ありとあらゆるもの)は火焔(宇宙の生命活動)の中で、大法輪(説法即ち生命そのもの)を(活動・行)じていると言った。これに対して、玄沙曰く「火焔が三世諸仏の為に説法すれば、三世諸仏は立地して聴く。」(前段の仏法上の訓み方は、「火焔は為なり、為は三世諸仏なり、三世諸仏は説法なり」である。)

    つまり、玄沙は次のように言った。即ち「火焔」は(生命)活動であり、尽十方界の真実である。また「三世諸仏」即ち過去現在未来のありとあらゆるものは、「立地聴」即ち生命活動(修行のすがた)を続けていると。

    ここで注意すべきなのは、火焔は活動であり、修行であり、説法であり、為(活動)でもあることである。これが、三世諸仏(ありとあらゆるもの)の「道場」即ち「有様」である。因みに「立地聴」は、修行道場において祖師の説法を聴く時は、大衆(修行僧達)は立って聴くのが規則である。




<仏法の常識>


    1. 大乗仏教の創作に係る釈迦誕生時の「天上天下唯我独尊」の語の意義は、尽十方界のありとあらゆるものは独尊しており、すべて尽十方界の真実として尊いこと。

    2. 東山水上行」(雲門匡真ウンモンキョウシンの語)とは、東山(全ての山)は、水(尽十方界)に支えられている(尽十方界の生命活動を表現)。(『正法眼蔵』「山水経」巻)

    3. 青山常運歩ジョウウンポ」(芙蓉道楷フヨウドウカイの語)とは、青山(尽十方界)が常に活動している事実を表現。仏向上事とも言う。(『正法眼蔵』「山水経」巻)

    4. 石女夜生児セキジョヤショウニ」(芙蓉道楷の語)とは、石は石自身の生滅活動(修行)している。即ち尽十方界の休み無い活動の事実を表現している。

    5. 道元禅師と中国阿育王山の典座テンゾとの問答は以下の通りである。

      道元「いかなるかこれ文字(何が真実を語るのか)」、
      典座「一、二、三四五(あらゆるもの)」、
      道元「いかなるかこれ弁道(真実は如何に学べばよいのか)」、
      典座「遍界不曽蔵フソウゾウ(宇宙の全てが真実だ)」(『典座教訓』)。
      即ちこの世界のあらゆるものが真実を語る。仏法の修行は現実(全部真実)をそっくりそのまま頂く事である。

      なお道元禅師の『正法眼蔵』の要語を解釈する時は、禅師は常に尽十方界真実基盤から説かれており、国語辞典的な訳では意味をなさない。(以下6〜11)

    6. 正法」とは、
      @諸法実相、
      Aあらゆるものは尽十方界真実であり、これこそは真実というものなし、
      B自我意識から解放された我々の本来の姿、
      C我々が現実に生かされて生きている事実、
      D尽十方界真実人体(次項「尽十方界真実人体」参照)。
      *「仏法中世法なし、仏事門中不捨一法。」仏法は尽十方界真実でないものはない。

    7. 単伝」(仏法の単伝)とは、
      @誰もが尽十方界真実を生きている事実に目覚め、自我に関わらない身体本来の自己に気づくことであり、仏法は他から貰う物ではないことを自覚すること。
      A「正伝」に同じ。
      B自我意識的志向を混入しない純粋な行、即ち只管打坐のこと。

    8. 正伝」(正伝の仏法)とは、
      @我々の自我意識に関わり無い生命本来の在り方を努める事、
      A自分自身に具わっている事、
      B「単伝」に同じ。

    9. 」、「」とは、尽十方界真実に即しているか、自我に関わっているかの違いによる区別であり、「正」とは尽十方界真実のすがた、無為の義。『三論玄義』に「正とは無相なり」とあり、「一」をもって止まる(一は全体、全部)義。「」は自我意識、独断、エゴイズム、分別が関係しているもの。

    10. 」、「」とは、個別的な物が「」であり、且つその個別的である事がまた真実即ち「正」でもある。どんなものでも正であり偏である。

    11. 外道ゲドウ」とは、通常の解釈では仏教以外のものを意味するが、仏法においては全てが「一切衆生」であり、尽十方界に仏法以外のものは何一つない。従って仏法中に特別なものを採り挙げこれこそ真実だと主張する者、所謂「思想(家)」のことを言う。
      「心外に法を求める、これを外道と云う。」(『頓悟要門論』大珠慧海)

    12. 無念・無相(無心)」とは、経験(感覚・分別)を超えた尽十方界の真実の在り方即ち生命活動のことであり、大自然の全ての事象のことである。作為(訓練)によって入り得るような特殊な状態ではない。無限定の普遍的一般であり、「非思量」「三昧(正受)」とも言う。王三昧、金剛三昧、無量義三昧、安祥三昧等全て同じことである。なお「無(形容詞)」は自然の絶対的事実のことである。

    13. 無住」とは、現実の事実の実態を言う。現実の事実(大自然の働き)は無念・無相であり、無念・無相の具体的構造が無住である。

    14. 阿耨多羅三藐三菩提」とは、本来の生命活動、解脱、尽十方界真実(身体の実態)を意味する。「阿耨」は無上、「三藐」は正等、「三菩提」は正覚の意。

    15. 仏教教学は、「法印」について、大乗仏教では「一法印」即ち「諸法実相」(常楽我浄)であり、小乗仏教では「三法印」即ち「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とする。





ページの先頭へ

「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・4 尽十方界真実人体

「正伝の仏法」・目次