第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子

4 因果ー1

 
道元禅師は『正法眼蔵』七十五巻本第六十八「大修行」巻及び十二巻本第七「深信因果」巻、並びに『永平広録』巻三で、「百丈野狐」の公案をもとに因果の問題を拈提されている。
一般に因果の概念は、単純な原因・結果或いは道徳的なものとして捉えられがちである。
即ち因果を人間の思考(自我)の範疇における論理だけで考えているのであるが、仏法から言えば、宇宙・大自然全体が因果(大因果)しているというのが実態であり、因果はまさに尽十方界真実そのものである。
小乗仏教においては、道徳的な教えとして、前世の行為が現在にその結果を生じ、現在の行為はその結果が来世に生じるという因果業報・輪廻転生の思想が信じられ、且つ修行によって輪廻や因果の支配を脱する、即ち「不落因果」(因果に落ちず)が修行の目的となった。
ところが大乗仏教では、因果は全てのものの在り方で尽十方界の真実であるから、「不昧因果」(因果を昧まさず)であり、因果を素直に受け取る後述の「深信因果」が修行の根本となる。
ところで「不落因果」と「不昧因果」という問題について、後述の道元禅師の説示が、前掲『正法眼蔵』の両巻で一見矛盾しているため、宗門の学者間で意見が分かれ、道元禅師に対する批判的見解が生じている。
然し酒井老師の七十五巻本及び十二巻本の存在意義に関する大局的な高説に遵えば、後述のとおり前掲両巻は各々説示の意図が明確であり、別に矛盾なく解釈できると私は考えている。





〔1〕 因果の意義


    さて「因果」(大因果)とは、上述のように尽十方界の真実即ち宇宙・大自然の全てのものの在り方であり、その生滅活動の様相である。
    そして因果ということは、「現在の状態は過去の成果であり、現在の状態以上のものはない」ということを意味している。
    即ち尽十方界真実によって存在或いは生かされている実態以上のものは無く、その意味で、現在は常に完全であり、これを「因円果満」と言う。
    何故なら不完全か否かは人間の概念基準に基づくものであり、尽十方界にはそのような基準は無いからである。
    言い換えればそれは常に「成仏」の姿であり、この事実を「仏向上事」とも言う。仏向上事とは「仏は向上事なり」と訓み、仏即ち尽十方界のありとあらゆるものは一刻も休まず生命活動(向上)しているということである。
    そして仏向上事を具体的に表現したものが「因果」であると言える。

    ところで、上述のように小乗仏教には、一般に修行して悟れば、仏や阿羅漢のように、所謂「六道」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)等の「輪廻」(インドの古代思想で生々流転・変化の意)を脱する、即ち因果(業報)の支配を受けないという思想がある。これが「不落因果」(因果に落ちず)である。
    尤も大乗仏教も、無目的即ち無所得・無所悟の修行をする大修行(只管打坐)底の人は、修行の目標や目的が無いから、結果の如何はどうでもよく、結果をそっくりそのまま受け入れる事が出来るという意味で因果に左右されず、不落因果であると言える。
    しかし大乗仏教は「諸法実相」(ありとあらゆるものは真実)が基本であるから、「不昧因果」(因果をくらまさない)であり、「深信因果」即ち過去の成果である現実をそのまま素直にいただくことが根本である。しかもそれが「発菩提心」の根拠となっている。
    つまり「深信(我々の在り方・生かされている事実)は因果(尽十方界真実)なり」ということである。

    以上、因果の「不落」「不昧」について基本的な考え方を述べたが、「不落」「不昧」が因果を「原因・結果」と捉える人間の思考範囲に於ける単純な論理に堕してしまうと、それぞれが生じることになるので注意しなければならない。
    つまり「不落因果」は、「無常」に囚われた所謂「断見」即ち「連続性」を否定する考え方であり、後述の「因果歴然」と相容れない。
    また「不昧因果」は、所謂「常見」即ち連続性を肯定する考え方であり、結果を待つ弊が生じ、「諸行無常」と相容れない。
    いずれも尽十方界真実の「全体」を頂くという観点が欠落している。

    なお「撥無因果」と言う言葉があるが、「不落因果」が一応因果を前提にしてそれに拘束されないことであるのに対して、これは初めから完全に因果を否定することであり、現実をそのまま受け取らない自我(我がまま)の暴走のことである。
    このような態度に対しては、「不昧因果」や「深信因果」を説く必要性があることは後述のとおりである。
    また「因果歴然」とは、例えば我々は本来尽十方界の真実を生きている(尽十方界真実人体)から、尽十方界の真実(坐禅)を行ずれば、尽十方界真実(本来の生命の在り方)に還る(行仏)という意味である。これを「妙因妙果」「因果不二」とも言う。或いは「仏因仏果」(仏が仏の修行をするから仏である)とも言う。
    このことを『正法眼蔵』「諸法実相」巻は、「果果の果は因果の果にあらず、このゆゑに因果の果はすなはち果果の果なるべし」と言う。
    つまり小乗や外道のような「小因大果」(原因の外に更に大きな結果を待つ)の「果」ではなく、「因果不二」即ち「因と果は同じ」の道理であるから、「因果」と言わず「果果」と言えばよく、故に「果果」の「果」(頭正尾正ズシンビシン)だと言うのである。
    或いは「因は果をまつ因にあらず、果は因にまたるる果にあらず」、即ち因の時は因、果の時は果で、各々完全絶対であり、相対の因果ではないということを述べている。




〔2〕 百丈野狐の公案


    さて、以上因果の基本的な考え方を前提にまず「大修行」巻「百丈野狐」の公案を紹介する。

    百丈山大智禅師(馬祖に嗣す、諱イミナ懐海、)凡そ参(講話)の次でに、一老人有て、常に衆(修行僧達)に随て聴法(講話を聴く)す。
    大衆
    (衆に同じ)若し退(退去)すれば、老人も亦退す。
    忽ち一日
    (ある日)退せず。
    (百丈)遂に問ふ、「面前に立つ者は、復た是れ何人ぞ。」
    老人対て云く、「某甲
    ソレガシは是れ非人(人間ではない)也。過去迦葉仏の時に於て、曾て此の山に住せり(住職であった)。因に学人(修行者)問ふ、大修行底の人、還て因果に落つる也無イナヤ。某甲他カレに答て云く、不落因果(因果に落ちず)と。後五百生(五百回生まれ変わり死に変わる)、野狐身に堕す。今請すらくは(願わくば)和尚代て一転語(仏法の真実に関して目が開ける言葉)すべし、貴すらく(願わくは)は野狐身を脱せんことを。」
    遂に問て云く、「大修行底の人、還因果に落つるや也無。」
    師云く、「不昧因果
    (因果をくらまさず)。」
    老人言下に於て大悟し、作礼
    (礼を云う)して云く、「某甲已スデニ野狐身を脱して、山後に住在す。和尚に敢告すらく(厚かましいことですが)、乞ふらく(お願い)は亡僧の事例(葬式)に依るべし。」
    師維那
    イノウ(僧堂の役僧)をして白槌ビャクツイして衆に告げ令めて云く、「食後に亡僧を送らん。」
    大衆言議す、「一衆
    (全員)皆安(無事)なり、涅槃堂又病人無し、何が故にか是の如くなる。」
    (昼食)後只師衆を領(引率)して、山後の巌下に至て、杖を以て一の死野狐を指出するを見る。乃ち法に依て火葬す。
    師、至晩
    (夕方)の上堂(説法)に、前の因縁(上述の経緯)を挙す。
    黄檗便ち問ふ、「古人錯対
    (間違った)一転語、五百生野狐身に堕す。転転(五百生の間)不錯(間違わないようにするには)、箇の什麼ナニをか作す合ベき(如何云えばよかったのか)。」
    師云く、「近前来
    (こっちへ来い)ナンジが與タメに道はん。」
    黄檗遂に近前して、師に一掌
    (平手打ち)を与ふ。
    師拍手して笑て云く、「将に為
    オモへり胡鬚赤コシュシャク(胡人の鬚は赤い)と、更に赤鬚胡(赤鬚の胡人)有り。」(二つの言い方が揃って完全だ。お前はたいしたものだ、私を超えているな。)

    そこで以上の話を要約すると、百丈禅師の会下に一老人が居て、他の修行僧と行動を共にしていたが、或る日法話の後、他の修行者達が退いた後も退かなかったので、百丈が不審に思って「お前は誰だ」と問うたところ、老人が言うには、「釈迦牟尼仏より前の迦葉仏の時代に、私は過去の同じ百丈山に住職していた(先百丈)が、その時の一修行者から『大修行底の人でも因果の支配を受けるでしょうか』と訊かれて、私は『不落因果』と答えたところ、野狐身に堕ち、其の後五百回も生まれ変わり死に変わりして今に至っている。願わくは野狐身から脱したいので、仏法の真実に目が開けるような言葉を授けて欲しい」と頼んだ。
    百丈禅師が「不昧因果」と言うと、老人はその言葉で悟り、お礼を言うと共に、「お蔭で野狐身を脱することができました。裏山に居りますので、厚かましいことですが亡僧の法式での葬式をお願いしたい」と百丈に依頼した。
    百丈は維那に命じて大衆に昼食後亡僧の葬式があると告報を出した。大衆は皆「今誰も病人は居ないのに如何したのだろう変だな」と噂し合った。
    昼食後百丈は大衆を引率して裏山の巌下に行って、一匹の野狐の屍を杖で指し示した。老人との約束どおり法式に則って火葬した。
    百丈はその晩の説法で件の老人との経緯を話した。
    すると弟子の黄檗希運が「先百丈がもし五百生もの間、間違わないようにするには一体如何言えば良かったのでしょうか」と尋ねた。
    百丈は「こっちへ来い。お前のために一つ言ってやろう」と言った。
    ところが黄檗は百丈に近寄り様、百丈に平手打ちを食わした。
    百丈は拍手して笑いながら「胡人(中央アジアの民族)の鬚は赤いと思っていたが、赤い鬚の胡人が居った」と言ったという。

    さてこの公案を説明すると、まず「大修行」を理解することが重要である。
    大修行」とは、仏法の修行のことであるが、小乗の修行のように目標を立ててその目標のために努力するというのではない。
    仏法の本当の修行即ち大修行は、無目標即ち無所得・無所悟自我を放棄することが修行である。
    つまり目標・目的を達するためということがないから因果に落ちることが無い。
    即ち目標が無ければどうなっても構わない、全部そっくり受け入れる事が出来る。地獄に落ちようと極楽に生まれようと如何でもいいから、因果即ち結果の如何に関係が無い。大修行底の人とはそういう人である。
    従って「大修行底の人、還て因果に落つるや也無(例えば地獄に落ちることもあるか)」という質問に対して、「先百丈」が「因果に落ちず」と答えたことは間違っていない。それにも拘らず先百丈は野狐身に堕してしまった。
    ところが次に、今の百丈禅師が老人の同じ質問に対して「不昧因果」即ち因果をくらまさないと言ったら、その言葉によって老人は大悟した。
    これは、仏法の因果に「不落」と「不昧」ということがあって、不落の因果、不昧の因果の両方揃って初めて完全だということを意味しているのである。
    つまりこの場合不落・不昧は因果(尽十方界真実)の形容詞であるが、不落も不昧も尽十方界のその時々の様相であって、どちらも真実の姿であることに変わりは無い。
    要するに先百丈が不落因果と答えたのは間違いではなかったが、それだけでは仏法においては不充分であり、不落因果だけではなく不昧因果もあることを、その時学人に答てやる必要があった。それが仏法の老婆親切である。
    ところが不落因果としか答えなかったために野狐身に堕してしまったのである。
    そこで改めて百丈禅師が今度は不昧因果と答えたため、初めて両方揃って完全だという事が老人に分かり、老人は悟ったという事である。

    更にこの公案で、黄檗が「間違わないようにするには如何したらよかったのか」(転転不錯、合作箇什麼)と質問したこと自体が非常に重要である。
    つまり一般に仏法においては質問(什麼)そのものが答である。即ち尽十方界真実においては何事も真の解決・答というものがない
    「解決・答」というものは、あくまで人間の「自我」の世界だけのことであり、自我に限定されていて真実ではない。
    言わば「答を出す」ということは、その時点で尽十方界の真実から乖離するということである。

    本当の修行は自我を超越する尽十方界の真実を実践すること、即ち無所得・無所悟の無限の大修行でなければならないのである。
    従って百丈が「汝のために言おう」と、もし答を出せば、それは真実に背く事になり、仏法に不要な行為となる。
    その過ちを百丈に犯させないために、黄檗は師の百丈に平手打ちを食らわせて、答えさせなかった。
    百丈は真に仏法を会得している弟子の黄檗に喜んで拍手したのである。
    そして「胡人の鬚は赤いと思っていたが、赤い鬚の胡人が居った」と言ったのは、上述の不落因果と不昧因果の両方が必要であることを掛けて言ったもので、表情の違いだけで同じ尽十方界真実であることに変わりがないことを、胡鬚赤と赤鬚胡に譬えて言ったのである。
    尤も言外に「上には上が居るものだ。お前(黄檗)は私を超えているな」という意味を含んでいる。

    要するにこの公案は、仏法の言葉は慎重且つ不足の無いようにしなければならないということも教えている。




〔3〕 「大修行」及び「深信因果」両巻における説示


    ところで既に述べたように、道元禅師は上記の公案を「大修行」巻とは別に、「深信因果」巻でも取上げているが、その場合にその説示が両巻で大きく異なっている。
    つまり「大修行」巻では、「而今(現在)現成の公案、これ大修行なり」と、まず現成公案が大修行であることを述べている。
    即ち現在の状態は過去の成果であり、現在の状態以上のものはない。
    尽十方界真実によって存在して (生かされて) いる事実以上のものは無く、現在は常に完全である。
    この尽十方界真実(大因果)である生の現実を頂くことが大修行だということを述べている。
    そして、「大修行底人、還落因果也無」という質問は、単なる質問ではなく、「大修行底の内容は此れが因果だと決め込むものではない」ということを表現している。

    言わば堕野狐身はその時の尽十方界真実の姿であり、必ずしも不落因果と答えたから野狐に堕ちたとは限らない
    仮に間違った答えだとしても、それはあくまで人間の基準であるに過ぎない。
    「堕」野狐身も「脱」野狐身も同じく大因果即ち尽十方界の真実の在り方・様相に過ぎない。
    このことを、この巻の本文は、「大修行を摸得(考察)するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果(何時でも完全無欠)なるがゆゑに、いまだかって落不落の論あらず、昧不昧の道(言葉)あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。将錯就錯(錯りの上塗りと言う意味。真実の受け取り方は常に謙虚に自己満足放棄の態度が基本)すといへども、堕野狐身あり、脱野狐身あり。不落因果、たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理もあり。不昧因果、たとひ現在釈迦仏のときは脱野狐身すとも、迦葉仏時しかあらざる道理も現成すべきなり」と述べている。

    つまり落・不落、昧・不昧、脱・堕のそれぞれに優劣はなく、何れも大因果即ち尽十方界真実の一時の様相であって、尽十方界の絶対的な事実(円因満果)なのである。
    このことを、『御抄』「かえすがえすも得失優劣に拘わるべからず」と述べている。
    要するにこの巻の趣旨は、臨済禅(看話禅)の「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)という考え方を批判するものであり、本来仏祖の大修行は、大因果である尽十方界真実の実践即ち無所得・無所悟を修行することであり、それは只管打坐を行ずることであることを説示している。

    此れに対して、「深信因果」巻の本文では、「参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたずらに撥無因果(因果の否定)のあやまりあり。・・・不落因果は、まさしくこれ撥無因果(思い上がり)なり、これによりて悪趣(自己満足追求の畜生)に堕す。不昧因果は、あきらかにこれ深信因果(尽十方界真実の修行)なり、これによりてきくもの(本当に分る者)悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、うたがふべきにあらず。近代参禅学道と称するともがら、おほく因果を撥無(無いものとする)せり。なにによりてか因果を撥無せりとしる。いはゆる不落と不昧と、一等にしてことならずとおもへり。これによりて、因果を撥無せりとしるなり」と述べている。

    これは「修因感果」(生かされている事実)の旨を明にし、その事実を素直に頂く「深信因果」の徹底を強調するために、「不落因果」は因果を撥無(否定)するもので、「不昧因果」でなければならないとしている。
    つまりこの巻は、因果の支配から逃れることを目的として悟りや特別の心境を求める看話禅や老荘思想等の自然外道を批判することが目的であり、そのような趣旨から誤って「撥無因果」の立場に通じかねない「不落因果」を退けているのである。

    なお『永平広録』は、不落というも、不昧というも、いずれも「野狐身」即ち人間の「自我の世界」の在り方であり、両者を超越して本来の姿(尽十方界真実人体)に還る必要がある事を説いている。




〔4〕 「大修行」及び「深信因果」両巻の関係


    そこで問題になるのが、上述のように、「大修行」巻(以下「」という。)及び「深信因果」巻(以下「」という。)において、道元禅師は同じ「百丈野狐の公案」を拈挙されながら、一見両巻で矛盾した説示になっている。
    即ちでは「因果」における「不落」「不昧」の優劣を否定し、「不落因果」を「撥無因果」に擬するのは「くらきひとのいふところ」と述べている。
    ところがでは「不落因果はまさしく撥無因果なり」とこれを否定し、「不昧因果」こそが「深信因果」であると説示している。
    これについて学者達は、曰く「道元は矛盾だらけだ。」曰く「壮年時代の道元は思想的に優れているが晩年は衰えて平凡になった、従って七十五巻本だけを採るべきだ。」曰く「後から著わされた「深信因果」巻は先に書かれた「大修行」巻の考えを改めたのだ」等々愚かな議論を喧しくしている。

    ところで酒井老師は、一般に七十五巻本と十二巻本の関係について、「七十五巻本は仏法の大原則現成公案で貫かれているが、それだけであれば、修行者が下手をすると教理に偏り傲慢に陥りかねない。それを道元禅師は危惧されて、生かされていることに対する「報恩行」(利他行)を説くことの必要性を痛感され、老婆親切から十二巻本を著わされた」と仰っている。

    私は、酒井老師の説に従って解釈すれば、両巻を矛盾無く統一的に理解する事が出来ると考えている。
    つまり、まずでは、学人の「大修行底人、還落因果也無」の問に対し、先百丈が大修行底の人は「不落因果」と答えて「堕野狐身」した。
    上述の通り本来大修行底人は目標・目的を達するためということがないから因果に落ちることが無い。従ってこの答そのものは間違っていない。
    また百丈禅師が「不昧因果」と答えて「脱野狐身」したのであるが、因果には不落だけでなく不昧も必要である。
    「大因果」即ち「尽十方界真実」基盤に立ってみれば、「不落」も「不昧」も、「堕」も「脱」も、「迷」も「悟」も同じ「尽十方界(宇宙・大自然)」ないし「尽十方界真実人体」のその時々の様相であり、尽十方界真実の姿であって、仏法本来の意味においては両者に優劣はない(『御抄』釈)ことが明らかにされている。

    しかも「大修行」とは、「悟りを求めて真実はこれだと決め込み納得する」ことではなく、「仏向上事」即ち「本来の生命活動(生きている事実)」であり、因果の事実(無所得・無所悟の只生かされて生きている尽十方界真実)であることを示されている。
    更に言えば、「大修行」は、誰が坐禅しても絶対的な坐禅(無所得無所悟の修行)であることに変わりが無い事を説示している。

    従っては、あくまで仏法即ち「尽十方界真実」の「在り方、受け取り方」を主眼において説かれている。
    ところがにおける仏法の教理主眼の説示だけでは、修行を「さとりという特別の心境を求める為の手段」に貶める「看話禅」の誤りを犯しかねないという虞から、晩年の道元禅師は、十二巻本の「発菩提心」や「供養諸仏」に共通する尽十方界真実人体に対する「報恩感謝」を主眼とした観点から、改めてを著わされたのである。

    つまり「深信因果」とは、我々の在り方(本来の姿)は我々が大自然に生かされて生きている絶対的な事実であり、因果を昧まさない即ち因果(尽十方界真実)は絶対である「不昧因果」でなければならない。
    換言すれば我々は「因果に徹する」こと、つまり現実を素直に頂き、生かされて生きている我々の本来の姿を忠実に実践することが仏道の根本である。
    そこでにおいてはこの事を特に強調すると共に、誤って老荘思想や自然外道における単純な因果の否定である「撥無因果」に陥りかねない「不落因果」を厳しく批判されたのである。
    従っての本文は、禅の偏向による得手勝手な撥無因果を強く誡める観点から、「おほよそ因果の道理、歴然(はっきり)としてわたくし(好い加減なこと)なし。造悪のものは堕し、修善のものはのぼる(善果がある)、豪釐ゴウリ(ほんの少し)もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからん(因果が無い)がごときは、諸仏の出世(存在)あるべからず、祖師(達磨)の西来(インドから中国へ来ること)あるべからず」と敢えてAの原則論を承知の上で説示されているのである。




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「正伝の仏法」・第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子・4 因果ー2

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