第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子

4 因果ー2




〔5〕 「因果」まとめ


    因果 修行の実態因果の概念 因果に対する態度
    小乗(部派仏教)
    仏滅 BC383年or 484年
    目的・目標のための手段
    (自己満足追求)
    悟りを求め、これこそ真実と決め込み納得
    人間の思考の範疇(論理=単純な原因結果)
    輪廻転生(生々流転)因果業報等(道徳・倫理の範疇)
    輪廻・因果業報支配から
    解脱不落因果(因果に落ちず)が修行の目的
    (後記(2)、@の断見)
    小因大果
    大乗
    仏滅後紀元前後400年
    無目的(無所得・無所悟
    本来の生命活動=仏向上事(一刻も休みなし)
    尽十方界真実(無所得・無所悟)を実修実証
    尽十方界真実=大因果=宇宙・大自然全体
    因果している
    現在の状態は過去の成果
    現在以外の状態はあり得ない(完全無欠)
    因円果満=諸法実相=現成公案
    因果不可避→不昧因果(因果を昧まさず)
    深信因果
    (生かされている事実が因果。如何なる因果も受容)
    因果の支配超越不落因果
    因果不二因も果も絶対)=全機(尽界の様相)


    1. 小乗及び大乗における因果及び修行相違上記の表の通り)

    2. 思考(自我)の範疇における因果の不落・不昧の各問題点(大因果ではない)

        @、不落因果→尽十方界真実の在り方(因果歴然)を昧ませないのに、諸行無常(刻々変化:尽十方界真実)を脱したい即ち「断見」(連続性の否定)に堕す
        A、不昧因果→諸行無常を理解せず、将来の結果を期待する「常見(〜すれば〜なるだろう)」(断絶の否定)に堕す
        撥無因果は初めから完全に因果を否定(自我至上主義)

    3. 「大修行」の巻の主眼(現成公案の徹底、看話禅の転迷開悟を批判)
      現成公案の原則からは不落不昧もいずれもその時の尽十方界真実の在り方に過ぎない。
      また真の修行無所得・無所悟尽十方界真実を実践(自我の超越)すること(大修行)である。
      つまり生かされているという実態は、如何なる現実(現在は常に過去の成果で完全)をも素直に受け入れ順応していく覚悟(大自然にお任せ)の下の修行である。
      大修行底の人は、修行の目的が無いから、修行の結果をそのまま頂ける。その意味で因果に左右されず不落因果であると言える。

        @、「百丈野狐」の公案不落不昧も尽十方界のその時の様相で何れも真実の表情に過ぎない。
        故に、学人に不落・不昧の両方を教示すべきで、両方揃ってこそ指導は完全。先百丈は学人に不昧も同時に教えるべきであった。
        老人は今百丈から教えられて、初めて両方必要なことを悟り、脱野狐身した。
        A、黄檗の問「転々不錯、合作箇什麼(なにをかなすべき)」 
        まず「什麼」は仏法の疑問詞(尽十方界真実)だからそのままが答えであるが、尽十方界真実には真の答え・解決は無いのが正解である。
        答え・解決自我世界の思考・論理に過ぎない。つまり真実の内容はこれこそと決められない
        もし百丈が答えを出せば真実に反し誤りを犯すことになる。黄檗は師百丈に誤りを犯させないため平手打ちした。
        胡鬚赤赤鬚胡尽十方界真実における表情の相違だけで変わりない。
        なお現成公案からは野狐(尽十方界真実野狐)が悪いとは言えない

    4. 「深信因果」の巻の主眼 (報恩感謝・エゴイズムの放棄の実践
      深信因果とは、深信即ち生かされている事実(我々の在り方)は因果(尽十方界真実)であるということ。
      現成公案からは不落・不昧に優劣がない(何れも尽十方界の表情)。
      例えば、殺人犯も普通の人間も尽十方界真実人体(生かされて生きている)である。
      しかしこのような純教理面のみを重視すると修道面において偏った傲慢不遜の誤りを犯しかねない。
      つまり悪人も善良な人間も尽十方界真実において相違がないとなれば、愚かな人間は自己満足追求に暴走しかねない
      そこで改めて尽十方界真実(大因果)は昧ませない(不昧因果)ことを自覚し、素直に因果(尽十方界真実)を頂く、即ち尽十方界真実人体(身体)に感謝(修因感果)し、その恩に報いるため無所得・無所悟の実践に勤める(報恩行)べく深信因果を説いたのである。
      犯罪者はその行為を昧ますことは出来ず、現実社会において当該行為に基づく結果(罰)を引き受けざるを得ない。
      即ち因果歴然の道理は絶対であることの自覚を促した。十二巻本は、修行者の陥り易い誤りを危惧し、生かされて生きていることに対する「報恩行」(利他行)を説くことの必要性(老婆親切)から生まれたのである。

    5. 永平広録巻三での主眼 「不落」・「不昧」は人間の自我世界の在り方であり、両者を超越して尽十方界真実に還る修行を説いている。




〔6〕 三時業


    因果との関係で述べておきたいのが、「三時業」ということである。
    『正法眼蔵』十二巻本は、第七「深信因果」巻第八「三時業」巻であり、両巻共「修行者」の本当の「在り方」を示した巻である。

    以下は「三時業」巻本文である。

    「いまのよに、因果をしらず、業報をあきらめず、三世(過去現在未来)をしらず、善悪をわきまえざる邪見のともがらには群す(交わる)べからず。いはゆる善悪之報、有三時焉(三時有り)といふは、一者ヒトツニハ順現法受。二者順次生受。三者順後次受。これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に堕するなり。ただ邪見に堕するのみにあらず、悪道(自己満足追求)におちて、長時の苦をうく。続善根(利己主義の放棄)せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提(尽十方界真実)の道ひさしくさはり(障害)あり、をしからざらめや。この三時の業、善悪にわたるなり」

    つまり、まず「」とは「人間の生活活動」のことであり、「三時業」とは「業の結果」の「現れ方の遅速」による区別である。
    即ち「順現法受」とは、結果がすぐそのまま現れること、「順次生受」とは、次の生の時に結果が現れること、「順後次受」とは、次の次の生に結果が現れることである。
    要するに「深信因果」即ち尽十方界真実に生かされて生きている我々の在り方をそのまま素直に頂くこと、そして自己満足を放棄することが仏道修行である。
    即ち現在は過去の成果であり、過去の報いによる苦しみから逃げずに素直に受け取ることが「三時業」の主旨である。
    エゴイズムの暴走の結果生じた「業障」厳然たる絶対的事実であり、消すことは出来ない。ただまともに受け取るしかない。それが修行者の態度である。
    なお因果(尽十方界真実)は「不滅」、即ち「常住」である。これが正に「涅槃」の意味である。
    即ち「涅槃」(常住)とは、「諸行無常」(あらゆる物は常に変化している)は絶対的事実であり、その常に変化する真実の姿そのものは不変であり不生不滅である。
    従って「涅槃」とは「三時業」のことであると言える。
    また「善悪」の問題は「自我意識」の問題であり、「」とは「利己主義の放棄」であり、「」とは「エゴイズム」、自己満足追求のことである。
    因みに「苦」とは自我意識、エゴイズムの問題であり、「不運」とは「僻み」即ちエゴイズムの問題である。

    ところで「三時業」巻では、『証道歌』永嘉玄覚665〜713年)の「(大修行底人)ずれば即ち業障(エゴイズム)本来空(真実は決まったものではなく現実を全部受け取る)、未だ了ぜずんば応に宿債(前世からの債務)を償ふべし(まともに現実を受け取れ)」という句についての皓月供奉(官職名)長沙和尚の次の問答につき道元禅師は長沙を批判している。

    皓月供奉は、上記の『証道歌』の句を踏まえて、「第二十四祖師子尊者や慧可大師は什麼と為てか債を償せ得去るや。」(彼らのような仏祖が如何して債(殺害)を免れ得なかったのか。つまり如何しても債をまともに頂くしかない)と長沙に質問した。長沙はこれに対して、皓月が「本来空(尽十方界真実)を知らないからだ」と言い、皓月が「如何なるか(如何なるものも)是れ本来空」と問うたのに対し、長沙は「業障是なり。」(エゴイズムは本来空である)と答えた。皓月は更に「如何なるか是れ業障。」長沙云く「本来空是。」皓月無語なり。長沙は更に次の偈を示した。即ち「仮有は元有に非ず、仮滅亦た無に非ず、涅槃償債の義、一性更に殊なること無し。」(すべて仮の姿であって有無はない。真実の姿は不変で変化など無い。)

    以上の問答における長沙の言葉に対して、道元禅師は長沙を厳しく批判される。即ち業障は何処までも業障であり消すことは出来ず、造ったものは厳然としてそこにある。長沙の「本来空」は仮(一時)の姿を強調するだけで、一時であってもその時その時の尽十方界真実のすがた即ち厳然たる絶対的事実であることを忘れ、三時業を撥無する外道に等しいと述べている。要するに「本来空」とは諸法実相と言うことであり、「三時業」の主旨はどんなものでも現実をそっくりそのまま全部頂くこと即ち「現成公案」にあるということである。




〔7〕 縁起


    ここで原始仏教における重要な概念である「縁起」等に触れておく。
    つまり「縁起」とは、「因縁生起」のことであり、尽十方界の全てのものは、「空性」(無自性)、「無我」(無主体性)であり、相互依存関係であるから、すべて因縁(原因・条件)によって生起する(条件的生起)。それが尽十方界真実の様相であり、あらゆるものの生きている姿或いは存在している姿が「縁起」である。

      (イ)、「自性」とは、それ自身において存在するものであり、その存在根拠をそれ自身の中に持っている時、その存在根拠そのものを言う。
      因みに『中論』「観因縁品」第四偈は、「諸法の自性の如きは縁中に存せず、自性無きを以ての故に、他性もまた無し」と言う。
      言わば「無自性」の事実は無所得・無所悟の修行によって具現するのであり、無自性は単に理念では無く、行そのものでなければならず、行が無自性に正確に的中していなければならない。
      無自性の実態が「因縁生」
      である。

      (ロ)、「無我」とは、あらゆる事実はそれ自身が自主的に存在しているものではなく、その時その時尽十方界真実しているということである。
      即ち我々が「個人的自我」を超越した尽十方界真実人体である事実の実態を言う。この事実を表現しているのが、『法華経』「方便品」「仏種従縁起」即ち「仏種(仏性)は従縁起(唯有一乗法)なり」という言葉である。
      つまりこの世のものは独存しているものはなく、全て存在させられている、即ち尽十方界真実しているということである。
      「仏種(仏性)」とは、「現在生きている姿」のことである。例えば私が人間の顔、形をしているのは縁起によってそうなっているのである。これを別の言葉で言えば、「因縁所生法」(すべての存在(一切法)は縁起に於て存在する)或いは「無生」とも言うのである。
      例えば、「法華転法華」巻「みづからに転ぜらて地涌(生じる)し、他に転ぜられて地涌す。・・・地空のみにあらず、法華涌(尽十方界真実)とも仏知すべし」とあるが、「みづからに転ぜられ、他に転ぜられ・・・涌」という言葉は、「因縁所生」の事実を表現しているのである。
      なお「縁起は行持なり、行持は縁起せざるがゆゑに。」(『正法眼蔵』「行持」巻)という注意すべき言葉がある。
      これは尽十方界真実によって「行持」(修行・生命活動)がある(真実の現れ)が、逆に「行持」は尽十方界真実を左右しないということである。

      (ハ)「因縁」とは、主原因である「因」と補助原因である「縁」を合わせた言葉であるが、結局尽十方界真実の実態のことである。
      「何者因縁」即ち何者も因縁でないものは無い。この「何物も因縁である」ということが一大事である。
      つまり全てのものが「自然現象」していることである。大自然は何物でも因縁である。自分一人で存在しているものはなく、あらゆる条件によって存在している。
      全てのものが宇宙・大自然のお蔭を蒙っているのである。

      因みに酒井老師によれば、因縁は生命現象の基本的構造を説明する概念であり、直接経験し得ない概念であるが、『中論』「因縁品」は、因縁が本来概念以前(感覚・知覚の対象外)の事実であることを、「八不中道」という概念の過程を通すことによって自覚させようとするものであるとされる。

      また因縁と言えば、原始仏教「十二因縁」が有名であるが、それは人間の迷いの構造即ち脳の生理現象であり、本来的に尽十方界真実の様相(諸法実相)である。
      参考までに「十二因縁」を以下に説明する。
      @無明(無知)からA行(形成力)が生じ、行からB識(心作用)が生じ、識からC名色(精神と肉体)が生じ、名色からD六入(眼耳鼻舌身意の六識)が生じ、六入からE触(心が対象と接触すること)が生じ、触からF受(感受作用)が生じ、受からG愛(愛欲・妄執)が生じ、愛からH取(執着)が生じ、取からI有(生存)が生じ、有からJ生(生存)が生じ、生からK老死が生ずる、というものである。
      そして二因(@〜Aは過去)・五果(B〜Fは現在)・三因(G〜Iは現在・未来の因)・二果(J〜Kは未来)とされている。
      以上の十二因縁は、言わば「概念(過去現在未来)による納得」であり、縁覚(小乗)の修行における自己の理想の追求である。これに対して大乗の修行は、全て尽十方界真実(諸法実相)だから取捨選択せず、すべて受け入れることが原則である。これを「総不要」というが、この場合の「不」は「絶対的、大自然」の意味であることは言うまでもない。
      更に『大般涅槃経』は、「大涅槃とは則ち常住と名く、常住の法は因縁によらず」と述べるが、「因縁によらず」とは、因縁を超えた事実、因縁そのものの無自性の事実、本来寂静の無限絶対の生命の事実を意味している。
      因みに、酒井老師の説では、『中論』において得た「無自性」は論理的発展を遂げて、無限絶対の「自性涅槃」となり、「本来自性清浄心」という概念に結実する。この場合の「自性」は『中論』で否定された概念とは異なり、涅槃寂静の無限絶対の尽十方界真実の当態を言うとされる。

      序に、「初転法輪」(釈尊の最初の説法)の内容とされる「四聖諦」についても簡単に触れておく。

      (ニ)「四聖諦」苦・集・滅・道の四諦)は、寂滅(悟り)を得ようとする声聞・縁覚(小乗)の修行であるが、それは大乗から言えば、自己満足の追求となる。
      まず「」・「(苦の原因)」の二諦は、欲(自己満足追求)から「苦」(流転輪廻)が生起する。
      次に「」・「」の二諦は、その対治の方法として「八正道(中道)」即ち正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の修行を教示する。
      ところが大乗では「四聖諦」についても、受け取り方が異なる。
      即ち本来寂滅の自己(尽十方界真実人体)なるが故に寂滅(尽十方界真実)の道を実践する、それが仏道である。
      つまり「苦諦」とは、人間の日常生活に於ける思い通りにならない在り方であり、自己満足の追求に於けるありとあらゆることが原因になるが、本来正体の無いものである。
      大乗の修行は、この「苦諦」に安心する、即ち「現実をそのまま頂く」ことである。
      次に「集諦ジッタイ」についても、小乗では集諦をそのまま苦諦として受け取るが、大乗はあらゆるものが仏の姿(真実の在り方)であると受け取る。また大乗では、「滅諦」は、尽十方界真実を実践すること即ち人生(自我)を超越することであり、坐禅がその唯一の修行である。
      そして「道諦」とは、この宇宙・大自然のありとあらゆるものが真実(道)であるということである。




 [参考] 公案(『正法眼蔵三百則』中巻二十二)


    法眼文益(885〜958年)と報恩玄則の話

    玄則が法眼(師)の会下に居た或る時、師が弟子に「お前は此処に居てどの位経つか」と訊いた。
    弟子は「既に三年になります」と答えた。
    師は「お前は未だ駆け出しだが、わしの所へ何故質問に来ないのか」と問い質した。
    弟子は「貴方を欺いてはいけないので申し上げますが、某は以前青峰の処で安心を得ました」と答えた。
    そこで師は「お前は一体如何いう言葉で安心を得たのか」と訊いた。
    弟子は「青峰に、『如何ならんか是れ学人(仏道修行者)の自己』(仏道修行は如何あるべきか)問うたところ、青峰は『丙丁童子(火の子)来求火』(火の子が火を求める即ち本来の自己に帰る)と答えてくれた」と言った。
    ところが師は「好い言葉だが、恐らくお前は本当のところが分っていないだろう」と言った。
    弟子は「丙丁は火に属し、火を以って火を求むということは、自己が自己を求めることだと理解しています」と述べた。
    師は「矢張りお前は分っていないな。お前の理解では、今日まで仏法は伝わって来なかっただろう」と言った。
    ところが師の言葉を聞いて、弟子は自信を打ちのめされ、我を忘れて外へ飛び出し、そのまま歩きだした。然しよく考えてみると、師は五百人の修行者の指導者として尊敬されている。私を駄目だと言うのには師には必ず根拠があるに違いないと考えた。
    そこで弟子は思い直して、師に懺悔して謝り、初心に還って、改めて「如何ならんか是れ学人の自己」と問うた。
    師は「丙丁童子来求火」と答えた。弟子はその場で大悟した
    。 

    つまり玄則が青峰の処で安心を得たと思っていたそのさとりは、自分が勝手に仏法を頭で理解した積もりであっただけで、本当の自己(尽十方界真実人体)が分っていなかったのである。
    彼の安心は、模範的な仏法の解答を領解することでしかなく、尽十方界真実人体の真の実践を伴うものではなかった
    「如何ならんか是れ学人の自己」の「如何ならんか」は仏法の疑問詞である。
    仏道修行者は「固定的な自分の立場、拠り所」があってはならない。固定的な安心を求めるのは「自我」であり、身体は常に修行(生命活動)している。
    この修行の事実を「如何」という言葉が表現しているのである。
    我々はただ因縁によって存在させられており、仏道修行は尽十方界真実の実修実証である只管打坐の坐禅をおいて他には無い。




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「正伝の仏法」・第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子・5 『正法眼蔵』特徴的巻々の関捩子

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