第T章 仏法の大意

4 尽十方界真実人体

前項で禅の祖師達が仏法を巧みに表現した尽十方界(尽十方界真実)という言葉を詳しく説明したが、この尽十方界真実人体も他ならぬ尽十方界真実の一つの実態である。ただこの言葉が、特に我々人間の自我意識発現以前の身体そのもの、即ち身体本来の在り方を指し、仏道修行の当体であるという意味で非常に重要であるため項を改めて説明する。





一 尽十方界真実人体の意義


 
    尽十方界真実人体とは、簡単に言えば、「尽十方界の真実が人間している」ということである。

    即ち宇宙・大自然が「人間」という生物を生み且つ生かしている事実を云い、人間の意志・意欲を超えた宇宙生成のエネルギーと根源的に同じ宇宙・大自然の生命活動の具体的な現れ(真実)である。

    つまり尽十方界真実人体という言葉は、我々の身体は尽十方界(宇宙・大自然)の真実の現れ即ち小宇宙であるということを表現している。

    因みにこの事実を、「正法」「本来の自己」「本来の面目」、或いは『正法眼蔵』においては「全自己の仏祖」等とも表現する。

    勿論このような事実は人間だけに限った事では無い。例えば、犬、蛙、草、石等も、それぞれ尽十方界真実犬、尽十方界真実蛙、尽十方界真実草、尽十方界真実石等である。


    ところで、この言葉は、『正法眼蔵』の「身心学道」「遍参」「諸法実相」等の各巻に出てくる。

    ただしそこでは「尽十方界真実人体」と共に「尽十方界是箇真実人体」と、「是箇コレ」という強調の二文字が付いているものも有るが、意味はこの強調の文字の有無に関係なく、宇宙・大自然に生かされて生きている人間生命の本来の姿、即ち「只管」「無所得・無所悟」「非思量」と言われる在り方を表現している。

    つまり「自我意識」を超えた「生身のカラダの生命活動の相・在り方」を端的に表現した言葉である。

    教学的な用語を混じえて説明すれば、四大(地水火風)の因縁和合が身心(人体)として活動する時、五蘊(色受想行識)という形態をとり、自我意識等(欲)が生じる。

    この場合人間の「欲」はその生命維持のための大自然の働き(恵み)であるが、通常その生命維持に必要な分を超えて余分に恵まれている。

    そのため、人間は自己の欲を必要以上に追求するあまり欲を暴走させてしまう。これを酒井老師は「我がままの暴走族」という言葉で表現されていた。また内山老師は、人間の悩み等について、人間の胃が胃酸過多によって胃潰瘍になるのと同様に、脳が分泌する思い(思想・考え)の分泌過多の症状だと仰っていた。


    そこで仏法を学ぶ者は、大自然の恵みである尽十方界真実人体を生きているのであるから、本来尽十方界の在り方に沿った生き方をすべきであり、それが大自然に対する報恩感謝の態度であると言える。

    つまり我々が大自然に生かされて生きている事実、即ちこの身体を恵まれている事実に感謝しながら生きる為には、自己の欲を必要以上に暴走させず、自我意識に振り回されないで、この身体本来の生命を大切に生きる事でなければならない。

    そしてこの大自然から恵まれた身体に対してする自らの報恩感謝の姿勢は、尽十方界真実を実践する唯一の方法である後述「只管打坐」の坐禅でなければならないのである。

    そして正にこの報恩感謝の姿勢が、後述「発菩提心」即ち菩提心(尽十方界真実の在り方)を発すということなのである。

    因みに、自我の「」とは、脳の生理現象である「自己意識」としてあるだけで、言わば「生理的習性」に過ぎないものである。本当の身体は、尽十方界真実人体であって、自己意識が意識した身体(意識した時点の身体)は単に身体の或る時の相、即ち尽十方界ないし尽十方界真実人体の或る時の様相に過ぎない。

    例えば、道元禅師がその師如浄禅師の下で悟られた時の有名な言葉「脱落は身心なり、身心は脱落なり」は、「仏法」の項でも述べたように、身体の本当の在り方即ち尽十方界真実人体は脱落(解脱)であるという意味である。

    このような尽十方界真実人体の在り方即ち身体の生命活動そのもの(脱落の身心)は、自我意識による悩み等とは直接関係が無いので、身体(生命活動)そのものには行き詰まりがない。

    この事実を「和光同塵」というのであり、まさに良寛さんの言葉に「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す(行き詰まる)」とある通りである。


    因みに仏教史において、身体が尽十方界真実人体であることを発見したのが大乗仏教である。



二 『正法眼蔵三百則』中巻三十一の公案


 
    次に『正法眼蔵三百則』中巻三十一則は、「尽十方界是箇真実人体」を扱った公案である。


    慧球禅師(玄沙の弟子)が了院主(寺院の事務を司る役僧)に問う、「先師(玄沙)の道ふ、尽十方界是箇真実人体と、汝還カエッテ僧堂を見る麼ヤ。」主云く、「和尚(慧球)眼華すること莫れ(莫し)。」師(慧球)云く、「先師遷化肉猶暖かきこと在り。」


    この問答は、まず慧球禅師が了という院主に、尽十方界真実人体を実践するのは僧堂(聖僧堂・文殊堂)での坐禅しかないことを確かめる意味で、「先師玄沙が尽十方界是箇真実人体と言われたが、汝は尽十方界真実人体ということは僧堂の坐禅においてのみあるのだということを知っているか(僧堂で坐禅をしているか)」と問うた。

    すると了院主は「和尚、あなたは眼が確かですね。(眼華は「空華」と同じ真実の意。莫は絶対的、大自然の意)」と答えた。

    そこで慧球禅師は「玄沙は既に亡くなられたが、玄沙の生命(仏法)が僧堂に生きている。即ち玄沙の云うとおり尽十方界真実人体が実践されている」と了院主を許された。




三 身心と尽十方界の関係


   
    ここで身心と尽十方界の関係につき『正法眼蔵』「現成公案」巻で説いている事柄を説明する。


    ◎「一方を證するときは一方はくらし。」

    これは「一法究尽グウジン」という仏法の重要な考え方である。

    つまり、これまで述べたように、人間のその時々の身心(身体)の状態・様相については、それが尽十方界真実であり、仮そめのものは一つもない。

    即ち身心が如何なる状態にあってもその時の尽十方界の真実の様相であり、完全である。このことを後述「現成公案」というが、仏法においては、人はその時その時を常に全うして生きていくのが本当の在り方である。

    それは、「一の行為において只管タダ行為そのものを完全にする(これを「全機」と言う)」ということである。

    つまり一つの行為が次の過程のためにあるのではない

    例えば、係長は課長の、課長は部長のそれぞれ過程に過ぎないと考えるのではなく、係長の時は只管係長の職責を全うする事を努めるべきであり、将来如何にすれば課長になれるか打算を考えながら係長を努めるべきではないのと同じである。

    要するに一々の行為をアテや思惑やいい加減な気持ちで疎かにするのではなく、その行為自体を最善の努力で完遂することが大切だということである。


    ◎「身心を挙して色を見取し、声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず。」

    これは、我々が「見る・聴く」ということは、身心(尽十方界ないし尽十方界真実人体)の或時の状態である。

    我々の「見聞」は、自己及び自己意識のみならず、色・音・自己を取囲む全ての環境と一体であり、尽十方界の働きによるものである。

    つまり尽十方界のその時の状態・すがたであって、単に知覚・分別(経験)の問題ではない。

    また、「したしく」とは、能所の関係、即ち見る・聴く主体と客体の色・音との主客の関係ではない、云わば鏡と影のように映すものと映されるものの関係ではないということである。

    要するに、生命活動は身体と外界とが一体になった働きである。個体としての身体は生命の全てではなく、尽十方界の生命活動における一つの要素(これを「調度」と言う)である。

    身体というものは身体の存在だけでは生きていけない。この場合の身体を「正法」と言い、身体を囲む全ての時間・空間的環境を「」と言う。

    即ち正法と依法と一体(「依正一如」という)となって生きているのが尽十方界真実人体の実態であり、このことを「主客合一」または「能所泯亡」等とも言うのである。




<仏法の常識>


  • 不生不滅」とは、不生は「不の生」即ちその時の尽十方界の様相であり、不滅も「不の滅」即ちその時の尽十方界の様相である。「不」は絶対的、自然の姿。


  • 全機」とは、尽十方界真実、大自然の活動・働き。「」は働き、現象。

      ◎「生也全機現、死也全機現。」

      この意味は、生死は全機の現れ、即ち宇宙の生命活動の表情である。また一つの行為が次の過程のためにあるのではないということを表現している。


  • 眼横鼻直」とは、道元禅師の『永平広録』巻一に出て来る語であるが、尽十方界真実を意味している。
    人生上色々あっても眼は横、鼻は直という事実は変わらない。尽十方界真実人体の中で人生(自我活動)を送っているだけ、尽十方界真実人体に不足無し。
      ◎「当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず、乃ち空手にして郷に還る。」(『永平広録』巻一)

      即ち全てはあるがままで絶対真実であり、余分に欲しがるものはない。


  • 拈華微笑」とは、釈尊が、説法の会で、黙って青蓮華の華を拈じた時、摩訶迦葉が微笑した。そこで釈尊は、「吾有正法眼蔵涅槃妙心(吾有は正法眼蔵涅槃妙心)なり摩訶迦葉に附嘱す」と仰った故事である。

    これは、釈尊が拈華によって、「見てくれ、私の身体を(私が生きているこの事実を)、これが尽十方界の真実(尽十方界真実人体)だ」と、大衆に注意を促した時、摩訶迦葉が釈尊の意を汲んで微笑んだ。

    そこで釈尊は「摩訶迦葉も私と同様尽十方界真実を生きているのだ」と仰せられた。

    要するに身体は大自然の真実であり、この真実を忠実に全うすることが仏道である。


  • 「諸人鼻孔裡ビクウリ」とは、我々が呼吸していること。現実に生きている具体的事実そのこと。或いは「眼晴裡ガンゼイリ」とも言い、人間の生命活動そのもの、個人の営みでない尽十方界真実を指す言葉。


  • 牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」とは、
    @「がらくた」、必ずしも物には限らない。全てのものはやがてがらくたにならざるをえない(例えば大震災で建造物等が崩壊し全てがらくたとなる)。
    Aどこに行ってもあるもの。
    B「平常底」(「平常心是道」の項参照)即ち何とも思わないもの。
    C「赤心片片」即ち全てのものの真実の姿(全てのものは片々)。
    Dの姿、即ち露柱燈籠、山河大地。
    E虚飾の無いこと。


  • 百尺竿頭進一歩」とは、「一隻心上」即ち常に我々は竿頭(尽十方界)の先端(現在)であり、その時その時が絶対(或る目的のための過程としての今ではない)である。逆に百尺竿頭(尽十方界の現在)で無ければ我々は進退住できない。

    進一歩」とは、個人(自我)の世界から尽十方界真実に生きる転換行為、即ち無所得・無所悟の坐禅をすることである。


  • 「身心学道」巻の言葉  「ただこれ心の一念二念(心の活動)なり。一念二念は一山河大地なり、二山河大地なり。しばらく山河大地日月星辰これなり。」:この「しばらく」の意味は、我々は便宜的に山や川と言っているだけで本当は心であるということ。


  • 病気は人間の身体の都合であり、尽十方界真実人体の様相である。風邪を引くのも個人の風邪を引いているのではない、尽十方界真実なのである。




<参考>『正法眼蔵三百則』について


    道元禅師の著作の『正法眼蔵』には仮字(和文体)と真字(漢文体)があり、『真字正法眼蔵』は、禅師が入宋中に中国諸山を遍歴参訪して帰朝される間に、閲読参究した禅者の諸種語録類より古則公案を抜録して備忘に供し、帰国後諸種の示衆撰述にあたり常時依用し、三百箇の古則集として整理し撰録したもの。(『講座道元V・道元の著作』春秋社「正法眼蔵」河村孝道より引用)




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