第T章 仏法の大意

15 戒(各説)




〔1〕 懺悔サンゲ


    「懺悔」とは、戒法に必然のもので、大乗の「十六条戒」(三帰戒・三聚戒・十重禁戒)を受けるに際し、仏法僧の三宝(尽十方界真実)に絶対帰依する姿勢であり、生活態度を転換することによって仏法を素直に頂戴する姿勢である。

    なお仏法の「本来成仏」ということは、単なる思想やスローガンではなく、実際に「受戒」(懺悔を含む)という実践を伴ってはじめて現実になる。


    1、懺悔の意義


      懺悔」とは、一切の自我活動を棚上げし、本来の生命の姿(尽十方界真実人体)に還ることである。
      端的に言えば前掲『梵網経略抄』が、「懺悔は直指(坐禅)」と言っている通り、只管打坐の坐禅をすることである。

      懺悔は坐禅である」ということを明確に述べているのが次の『普賢経』の言葉である。
      一切の業障海皆妄想従り生ず、若し懺悔せんと欲すれば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如く、慧日能く消除す。是の故に応に至心に六根の罪を懺悔すべし。」

      まず「一切の業障海」とは、我々の自我活動による喜怒哀楽の人生のことである。
      「妄想」とは自我意識の活動のこと。
      「端坐」は只管打坐。
      「実相」とは尽十方界真実のこと。
      「思え」は、坐禅の項で述べたように、本来の生命の在り方を努力すること。
      「衆罪」は、妄想、悩み、我がまま等。
      「慧日能く消除す」とは、尽十方界真実(大自然)の働きにより生かされて生きている本来の生命の在り方に還ること。
      「至心」は無所得・無所悟の本来の在り方。
      六根の罪」とは、六根(眼耳鼻舌身意の各根)即ち感覚等の働きによる罪、言わば自我活動(自己満足追求)のことである。

      つまり「懺悔」とは、自我活動を棚上げして、仏(大自然)に生かされている自然の在り方を実践する、即ち正身端坐(只管打坐)を努力することである。

      更に『梵網経略抄』は、「懺悔の法あらわるる時、三帰三聚戒も、攝せずと云事なし、……始め懺悔の法より、三帰、三聚浄戒、妄を離れずと雖も、妄中に於て解脱を得、妄想未だ去らざるに実相到来す」と述べている。

      前半の言葉は、懺悔(尽十方界真実の実修実証)がなされる時、後述の三帰戒、三聚浄戒も同時に持たれている事実を述べている。また後半の「妄想未だ去らざるに実相到来す」と云う言葉は、「驢事未だ去らざるに馬事到来す」という言葉を置き換えたもので、驢事も馬事も同じようなものだということの表現であり、実相も妄想も同じようなもの(尽十方界真実人体の表情)だということである。

      なお先述の川の例の通り、川の流れ(生命)における流れ(生命活動)そのものは尽十方界真実(本来の相)であり、「実相」も「妄想」も、流れにおける波(自我意識)のようなもので尽十方界真実人体のその時々の相(現象)である。

      つまり後半の意味するところは、「修行しよう」と思うことも、「坐禅しよう」と思う事も、全て「妄」即ち「自我意識」の活動であって、「生命活動の中に於ける妄想」である事に変わりは無い。
      その意味で我々は「(尽十方界真実)」の中にいて「妄」を離れられない
      然しまた「妄」(自我意識)によって行動を起こし坐禅をすることも出来るし、妄想に引きずられないでそれを眺める(坐禅)、即ち妄を超越する(「解脱」)ことも出来る。
      要するに妄(自我意識)を認めてこれに振り回されない(超越の)姿勢(正身端坐)を保持すれば、「努力するという意識」も消えて、無量無辺の尽十方界真実(人体)のみとなるという「懺悔」の実態を述べている。

      なお懺悔の「功徳」とは、「生命本来の姿に還る」ことである。
      然し注意を要するのは、懺悔は「滅罪等のため」というような目的を持ってすることではなく、大地虚空の如く「只管タダ」するということが重要である。
      何故なら「滅罪」というような目的を持ってすることも「自我」の表れであり、そのような自我を超越して只管自然の生命に還ることが本当の懺悔であり尽十方界真実の実践である。
      尤も一般的に懺悔の功徳として「滅罪清浄」や罪の「転重軽受」が説かれるが、最初からそのような目的を持ってするということではなく、只管懺悔の結果そのような功徳も生まれ得るというだけである。


      参考までに、教学では、懺悔は、@「理懺悔(実相懺悔)」即ち尽十方界真実と
      A「事懺悔(対首懺悔)」即ち仏に自首(小罪無量)の二つに分けられ、
      事懺悔の三条件は、仏の大慈悲心(右掌)、衆生の懺悔心(左掌)、懺悔の儀式(合掌)であると説明されている。


      所謂「懺悔文」は「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔。」である。
      また、「罪」とは僧団の規律条文(波羅提木叉)に照らして、それに違反していることである。そのを僧団の節制の日(夏安居終了7月15日)、衆目の前で「明白にする」ことを「布薩」と言い、僧団の安居の終了式に指摘された罪を衆目の前で「償い改める」ことを「自恣」と言う。いずれも受戒を前提している。




〔2〕、三帰戒



    1、三帰戒の意義


     

      さて大乗の十六条戒最初が三帰戒である。
      「十六条戒」というのは、本来尽十方界真実である「戒」全体を十六の方面から説いたものである。
      「三帰戒」も同様に戒全体を三方面から説明したものであり、戒の受け取り方、修行の仕方の違いだけである。

      まず「三帰戒」とは帰依三宝のことである。
      「帰依三宝」とは「帰依仏法僧」、即ち帰依仏・帰依法・帰依僧であるが、端的には帰依「仏法」のことであり、帰依「尽十方界真実」のことである。
      つまり自己満足追求に終始する自我中心の従来の生活態度を転換して、本来の生命の在り方である尽十方界真実人体に還ることである。
      上述の懺悔と同じく「解脱行」、即ち川の流れ(生命)そのものに還り、川の波立ち(生命活動の表情である人生)を眺め、それに引きずり回されないように努力(只管打坐)することである。(『正法眼蔵』「帰依仏法僧」巻
      なお「帰依」とは、尽十方界真実に回帰することであり、「只管」「帰命」「南無」と同義である。


      次に「三帰依」について、道元禅師の『教授戒文』は次のように示されている。

      応に仏法僧に帰依したてまつるべし。三宝に三種の功徳(在り方)いわゆる一体三宝・現前三宝・住持三宝なり。阿耨多羅三藐三菩提(尽十方界真実)を称して仏宝となす。清浄離塵(自我の超越)なるは乃ちこれ法宝なり。和合の功徳は僧宝なり。これ一体三宝なり。現前に菩提(真実)を証するを仏宝と名く。仏の証する所はこれ法宝なり。仏法を学するはこれ僧宝なり。これを現前の三宝と名く。天上を化し、人間を化し、あるいは虚空に現じ、あるいは塵中に現ずる(あらゆるものが真実)は、仏宝なり。あるいは海蔵(書物)に転じ、あるいは貝葉(文章)に転じ、物を化し、生を化するは法宝なり。一切の苦を度し、三界の宅(自我生活)を脱するは、乃ち僧宝なり。これ住持の三宝なり。仏法僧宝に帰依すと称する時、諸仏の大戒を得るなり。仏を称して師となし、余道を師とせざれ。」


      以上において、「三宝」とは、仏宝・法宝・僧宝で、戒の正体である尽十方界真実のことであり、実質は一つ即ち仏法である。
      仏法を三方面から説明すると、「仏宝」は仏即ち尽十方界真実人体であり、「法宝」は清浄心である尽十方界真実(法)であり、「僧宝」は法の実践即ち尽十方界真実の実修実証(尽十方界真実人体が尽十方界真実と和合)である。


      更に三宝は次の三種に分類説明される。

      1. 一体三宝」とは、三宝は尽十方界真実を三方面から言っただけで本来一つのものである。
      2. 現前三宝」とは、裟婆(堪忍)世界で菩提を成就した釈迦牟尼仏(仏宝)、仏の説く経(法宝)、仏宝と法宝を学ぶもの(僧宝)というように、三宝を実践の観点から説いたものである。
      3. 住持三宝」とは、三宝を修行者自身が安住護持することで、三宝の実現を説いたものである。


      要するに修行者は、一体三宝を自覚して尽十方界真実を実践する。それが現前三宝であり、その現前三宝で、此身が尽十方界真実人体に還ることが住持三宝である。

      因みに教学の説明は以下の通り。
      一体三宝」は、法は仏によって発見され説示されることにより仏の教法となり、法は仏に依存する。
      仏は法を発見し体得することにより仏となったから法を離れて仏は存在しない。
      また僧は仏に代わり仏の代理者として民衆に法を説く者で、仏や法を外にして僧は在り得ない。
      現前三宝」は釈尊在世時の三宝、即ち釈迦牟尼仏、釈迦の教説、釈迦の弟子達である僧団のことである。
      住持三宝」は仏滅後の各時代を通じてその時代の仏教における三宝のことである。(『仏教要語の基礎知識』春秋社刊)

      なお「三帰依の功徳」については、
      @「翻邪帰正」の戒、即ち邪見を翻して正法に帰依することと、
      A「重受恭敬」の戒、即ち幾度戒を受けても良いということがある。
      また『三帰戒文(三帰依文)』は「南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧。帰依仏無上尊。帰依法離塵尊。帰依僧和合尊。帰依仏竟。帰依法竟。帰依僧竟。」である。
      「受戒」に際しては所謂「三羯コン摩」の作法・儀式は無く、合掌だけである。




    2、礼拝


     

      ここで「帰依」に関連して述べておかなければならないのは「礼ライ拝」である。
      帰依の端的な在り方は坐禅であるが、「礼拝」も純粋な帰依の姿である。
      即ち礼拝は大自然に生かされて生きていることに対する「報恩」の行である。
      『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」巻が説く礼拝は、階級の無い完全平等の修行である。
      つまり「礼拝」は、自我を超越して大自然に還る姿勢であり、特に「五体投地」がそれである。黄檗希運は額に礼拝タコができる程礼拝したと伝えられている。
      曹洞宗では、五体投地は受戒をはじめ様々な機会に行われるが、浄土真宗や真言宗等には見られないようである。
      なお『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻は、大乗仏教の根本は「礼拝得髄」であることを示されており、「陀羅尼」巻は、報謝に徹する絶対帰依即ち「陀羅尼」(礼拝)の実践が説かれている。
      更に『正法眼蔵』十二巻本は、「報恩行」即ち我々が大自然に生かされて生きている事実(尽十方界真実人体)に対する「報恩感謝」の行に徹底すべきことを強調している。




    3、三身


     

      さて「さとり」を求める小乗仏教は、自己満足の追求に終始した結果行き詰まるようになった。
      ところがそれを克服しようとした大乗仏教は、大自然に生かされて生きている身体の尊厳性・真実を再発見することになり、「さとり」というような人間の勝手な理想を求める必要がなくなった。
      そしてその契機となったのが「仏陀」に関する哲学的な考察であり、それは「三身」という「仏身観」に発展した。
      「三身」とは、法身・報身・応身の「仏陀の三身」を言うが、「三身は即一」であり、身体の普遍的絶対事実即ちこれまで述べてきた「尽十方界真実人体」のことである。

      @「法身」(自性身)とは、仏即ち尽十方界真実を人格化した「法身仏」(真理仏)である。
      A「報身」(受用身)とは、積功シャック累徳の報果即ち修行の報果を受用する完全円満な「報身仏」である。法身仏の修証即ち尽十方界真実の実修実証の実態である。
      B「応身」(変化身・化身)とは、自未得度先度他の利益衆生即ち無所得・無所悟の行仏(「応身仏」)であり、釈迦牟尼仏を言う。

      つまり報身の行が法身を行ずる事であり、法身は自我の次元ではないので、報身を徹底すれば、それは法身即ち尽十方界真実の実践である。
      そして尽十方界真実の行を徹底するということは、具体的に利他行即ち菩薩行を実践することであり、応身を行ずることになる。
      因みに教学では、「応身」とは、特定の時代・地域・相手を教化の対象として仮に或る姿を化作した仏身であり、弥勒仏等を言う。
      化身」も同じで仏の相好(三十二相・八十種好)を具えず、種々の姿をとって衆生を救済する仏身で、観世音菩薩(三十三身)等を言う。
      また「受用身」については、「自受用身」即ち修行の結果として得られた仏果や自内証を自ら受用し楽しむ仏陀と、「他受用身」即ち悟りの報果や優れた法門を他の人々に受用させ人々を指導教化する仏の二つに分けて説明する。
      報身仏」には阿弥陀如来(法蔵菩薩四十八願・西方極楽浄土)や薬師如来(菩薩十二願・東方瑠璃光世界)を挙げている。(前掲『仏教要語の基礎知識』)


      また禅宗では「十仏名」というものがあり、その中に「清浄法身毘盧舎那仏、円満報身盧遮那仏、千百億化身釈迦牟尼仏」というものがある。ここでは法身としての毘盧舎那仏、報身としての盧遮那仏、化身としての釈迦牟尼仏を三身としているが、これは天台宗の説によったもので、毘盧舎那仏は『普賢観経』で説かれている法身であり、盧遮那仏は『梵網経』の蓮華台蔵世界で千葉百億の大小釈迦仏を化現せしめる報身であり、釈迦牟尼仏は前記の千葉上の化身としての釈迦仏を意味するとされる。(前掲『仏教要語の基礎知識』)




〔3〕、三聚(浄)戒


    次に「三聚(浄)戒」であるが、既に述べたように、これらの戒も戒全体を三方面から説いたもので、尽十方界真実であることに変わりは無い。
    後述「十重禁戒」の根源となる戒即ち十重禁戒を纏めたもので、十重禁戒の一々の戒に三聚戒が全て包含されている。
    因みに三聚戒は、大乗の基本によって小乗戒を整理し再編成して新しく誕生させたものである。
    つまり大乗戒史の発源は、『瑜伽師地論』「本地分」が独立して『菩薩地持経』となった「瑜伽戒」であるとされ、その後『菩薩瓔珞本業経』により「三聚(浄)戒」が定着し、『梵網経』として整理されたとされる。
    なお今日の大乗戒(菩薩戒)が十六条に編成された事についての詳細は分らないが、比叡山所伝の「円頓戒」を基にして、栄西が編成した「十六種事」を発展整理したものと言われている。

    さて「三聚戒」については以下の通りである。

    (1)「第一摂ショウ律儀戒
    摂律儀戒は、『教授戒文』云く「諸仏法律の窟宅する所也。諸仏法律の根源とする所也。」
    つまり、「摂」は収めること、「律儀」とは尽十方界真実、「法律」とは諸仏が諸仏であり得る根本即ち本来の姿、「窟宅」とは家即ち総合のことである。
    要するに「摂律儀戒」とは、人間の自我(意欲)行動を生命本来の在り方に帰すことであり、尽十方界真実人体に還ることである。
    端的には只管打坐することである。或いは後述「諸悪莫作」、即ち「諸悪」(人間の意欲的行動)を「莫作」(本来の姿)に戻すことである。
    なおこの戒が大乗の戒である意義は、「十善戒」又は「十重禁戒」(及び四十八軽戒)の「止悪」の面を指す。
    因みに「十善」を大乗戒としたのは『般若経』に始まり『華厳経』がこれを受けている。
    十善行道」とは、
    身業:@不殺生A不偸盗B不邪淫、
    口業:C不妄語D不悪口E不両舌F不綺語、
    意業:G無貪H無瞋I正見である。

    (2)「第二摂善法戒
    摂善法戒は、『教授戒文』云く、「三藐三菩提の法、能行所行之道也。」
    つまり、「三藐三菩提」とは尽十方界真実のこと、「能行所行」とは感覚作用乃至感覚生活のことである。要するに「摂善法戒」とは、生活の中で尽十方界真実(本来の姿)を実践することである。
    即ち只管打坐することであり、「衆善奉行」である。この戒は十善戒や十重禁戒等の「行善」の面を指している。

    (3)「第三摂衆生戒
    摂衆生戒は、『教授戒文』云く、「凡を超へ聖を越へ、自を度し他を度す也。」
    つまり「摂衆生戒」とは、利他行であり、平等の自他無し(只管打坐)ということである。この戒は十善戒や十重禁戒等における慈悲救済の「利他」の面を指している。

    以上、三聚戒は止悪・行善に止まらず、利他行が強調されるところに大乗戒の特徴がある。




〔4〕、一心戒文


    「十重禁戒」の説明に入る前に、その原型である中国禅宗初祖菩提達磨の作とされる「一心戒文」について説明する。
    但し「戒」(仏法)はすべて「仏」(尽十方界)の視点から見なければならないのは当然である。
    即ち人間の「自我の次元」における「禁止事項」ではないということである。
    〜してはならない」というのは小乗等の自我意識のレベルであり、「大乗」の「本来の生命の在り方」である尽十方界真実基盤(坐禅)においては「本来〜することがない(自然そのまま)」が実態である。

    まず初めに、「戒文に云く、受は伝なり、伝とは是れ覚なり、即ち仏心を悟るなり、真に受戒と名づく」とある。
    」とは「正伝・単伝」(前述「尽十方界(真実)」[仏法の常識]参照)、即ち自我意識を超えた本来の生命を努めることであり、「」とは真実の実践、エゴイズムを捨てること。
    「受戒」は、全てのものが真実であるから、自分の好みを超越してそっくりそのまま現実を頂くこと、即ち尽十方界真実を実践することである。

    さて以下に「一心戒文」(十戒)を説明するが、これは尽十方界真実の在り方を十方面から説いたものである事は言うまでも無い。

    (1)「不殺生戒
    『戒文に云く』、「自性霊妙、常住法中に於て断滅見を生ぜず、名付て不殺生戒と為す。」
    「自性霊妙」とは、諸法実相、即ち人間の恣意を超えた尽十方界真実の在り方や生命活動の絶対性を言う。「常住」とは、自性、定まっている事、当たり前の事、不変の在り方を言う。「断滅見」とは得手勝手な考え・行動を言う。「不殺生戒」とは、尽十方界の真実の在り方、大自然の生命のことであり、生命活動を大切にする事である。

      (以下『戒文に云く』という言葉を省略する。)

    (2)「不偸盗戒」 
    自性霊妙、不可得法中に於て可得の念を生ぜず、名付て不偸盗戒と為す。」
    「不可得」とは本来個人が所有するものは何も無いということ。「可得の念」とは自分のものになると思うこと、例えば自分の身体も自分の所有であると思うこと。「不偸盗戒」とは、自我意識(意思意欲)発現以前の生命本来の姿のことである。
    (3)「不淫欲戒
    自性霊妙、無著法中に於て愛著の見を生ぜず、名付て不淫欲戒と為す。」
    「無著」とは本来愛着は無いということ。「愛著」とは我欲、我がままの暴走の意。「不淫欲戒」とは、人間性(自我)を棚上げして生命本来の姿に戻る事である。
    (4)「不妄語戒」 
    自性霊妙、不可説法中に於て一字を説かず、名付て不妄語戒と為す。」
    「不可説」とは「これこそは真実」と説くような決まったものは無いこと。「一字を説かず」とは欲望満足追求という人間の自我によって説かないこと。「不妄語戒」とは、真実の在り方として全体が真実であり、ありとあらゆるものが真実であって、これだけが真実というような特別なものはないということである。
    (5)「不飲酒戒
    自性霊妙、本来清浄法中に於て無明を生ぜず、名付て不飲酒戒と為す。」
    「無明」とは、自我、我欲のことで、人間(小乗)は正常・当たり前な状態を嫌い、自分勝手な理想(異常・陶酔状態)を好んで追求することである。「不飲酒戒」とは、生命本来の平常底の在り方である。元々酒を飲まない者にとっては、不飲酒戒は問題にならない。
    (6)「不説四衆過罪戒
    自性霊妙、無過患法中に於て過罪を説かず、名付て不説四衆過罪戒と為す。」
    「無過患」とは罪過が無いこと。「四衆」とは仏弟子で、比丘・比丘尼・優婆塞(近事男)・優婆夷(近事女)即ち僧・尼僧・信士・信女(在家の弟子)である。「不説四衆過罪戒」とは、尽十方界には説くべき罪過が無く、全部真実であるからすべて尊重し頂かねばならないことである。
    (7)「不自讃毀他戒
    自性霊妙、平等法中に於て自他を説かず、名付て不自讃毀他戒と為す。」
    不自讃毀他戒」とは、全てのものが尽十方界真実であり完全絶対的存在であり尊いということである。
    (8)「不慳貪戒
    自性霊妙、真如周遍法中に於て一相慳執を生ぜず、名付けて不慳貪戒と為す。」
    「真如周遍法」とは、尽十方界真実のこと。「一相慳執」とは特定のものに固守し慳しむこと。「不慳貪戒」とは、慳しむものは一つも無いこと、全部同じく尊いものである。
    (9)「不瞋恚戒
    自性霊妙、無我法中に於て実我を計せず、名付て不瞋恚戒と為す。」
    「実我」とは自我のことである。「不瞋恚戒」とは、尽十方界真実人体である本来の姿を修行することである。
    (10)「不謗三宝戒
    自性霊妙、一如法中に於て生仏二見を起さず、名付て不謗三宝戒と為す。」
    「一如法中」とは全部真実であること。「生仏二見」とは衆生と仏を区別することである。「不謗三宝戒」とは、全てのものは三宝即ち仏法であり、此の宇宙の真実をそっくりそのまま頂くことである。




〔5〕、十重禁戒


    さて「十重禁戒」とは、尽十方界真実を信じ、現実をそっくりそのまま頂く事であるが、その受取り方・修行の仕方に十種有るということである。
    「十重」という意味は一の戒が同時に十戒を含んでいるということであり、一の戒が完全に行われる時、他の戒も全部完全に行われることを意味する。
    但し以下の十重禁戒の説明は、道元禅師の『教授戒文』を参究した『梵網経略抄』の説によるものであり、根本的に「自他不二(自我の超越)」を説いている。自他不二ということについて、酒井老師は「尽十方界は自他不二だから現実に臓器移植が可能なのだ」と仰っていたことが印象に残っている。
    因みに十重禁戒は、これを破れば菩薩の「十波羅夷(重罪)」とされるものであり、「四十八軽罪」と共に「梵網戒」と呼ばれる。 

    (1)「第一不殺生戒
    『戒文に云く』、「生命不殺、仏種増長す、仏の慧命を続ぐ可し、生命を殺すこと莫れ。」
      「生命」とは尽十方界真実。「不殺」とは、生かされている事実の絶対性ないしそれをそっくりそのまま頂くこと。只管。あるがまま。
      「仏種」とは諸法実相或いは宇宙の生命活動。
      「増長」とは大切にすること。
      「仏種増長」とは、あらゆるものの生命を生かし、これらの生命と共に生きる修行のあり方。
      「仏の慧命」とは生かされている(本来のあり方)或いは生まれついている事実(真実)。
      「殺す」とは生命活動(殺すという事も生命活動)。
      「莫」は、訓みは「なかれ」であるが、意味は「なし」で、大自然の姿のことであり、人間の恣意が入る余地が無いこと(莫作)である。

      不殺生戒」とは、尽十方界真実を修行する事であり、全てのものは完全であり、その命を大切にする事である。
      或いは全てのものの真の在り方を修行する事であり、生命活動を徹底的に極めることである。
      ここで特に「不殺」「殺」ということについて説明すると、本来尽十方界(宇宙・大自然)には「殺す」ということは成り立たない。
      何故なら、例えば木を伐る(殺す)と単に材木(物体)になるが、元々木は四大(地水火風等の元素の性質)が因縁により和合して木になっているのであり、伐る(殺す)という行為は、四大和合の因縁を「変化させる」に過ぎない。
      この世界のあらゆるものは絶えず生命活動、即ち「心」(宇宙・大自然の活動)しているが、木も材木も共に「心」の一時的な姿(四大因縁和合)であって、ただ四大和合の因縁の相違があるだけに過ぎない。
      このような尽十方界の生命ないし生命活動においては固定的な「主体」等は無い。
      この事実を仏教教学では「一切自性皆空」と言う。言わば尽十方界の「生命活動」に、「」即ち「変化させる」在り方と、「不殺」即ち「(変化させず)そのまま」の在り方とがある。
      つまり「殺」も「不殺」も生(生きている事実)の在り方である。
      従って仏法の「不殺生」とは、通常一般の「殺生せず」という国語辞典的解釈ではなく、「不殺の生」、即ち「無条件で生である」或いは「あるがまま」という意味になる。
      故に「不殺」は大自然の絶対的真実・絶対的存在を意味し、只管、非思量、莫作と同義である。つまり大自然には人間世界の自我(エゴイズム)に基づく殺はない

      なお『梵網経略抄』は、「殺」を日常的人間がなくなり本来の姿に還る即ち「成仏」の意であるとしている。
      そしてこの意味から正に坐禅は「殺仏」だと言える。
      因みに「小乗」では、戒に浅深を立てて、「身」を「不浄」と見做し、「不淫欲戒」を第一に立てるが、「大乗」では「慈悲」即ち自我意識発現以前の自他の対立の無い在り方が中心であり、十戒に浅深の区別は立てない。
      ただ生かされていること即ち「生命」が根本であるから、不殺生戒が最初に来るだけである。

    (以下、『戒文に云く』という言葉を省略。)

    (2)「第二不偸チュウ盗戒」(不与取戒、不盗犯戒)
    心境如如。解脱門開也。」 
      「心」は正報・尽十方界真実人体。
      「境」は依報・諸法・環境。
      「心境」とは主体と客体即ち主客のこと。
      「如如」とは平等・絶対的の意であり、人間の企みと関係が無いこと。
      「心境如如」とは、心も境も絶対的な存在で、欲しがる気持ちが起こらない、執着しないこと。
      「解脱」は本来の姿、尽十方界真実(なお本来の姿・尽十方界真実には自己主張は無い)。

      不偸盗戒」とは、尽十方界において人間も物も同じように真実の絶対的存在(諸法実相)であり、物そのものからみれば「盗む」という事は成立しない
      盗むものも盗まれるものも全て心の姿(諸法)であり平等である。
      「盗む」ということは真実・平等を犯すということである。
      なお『梵網経略抄』は、三界唯心(心仏及衆生是三無差別)において如如(心仏衆生各々絶対)を狂わせないことが「不偸盗」であると言う。
      言わば人間性を超えて物事の真の在り方を知る努力が仏道修行である。
      因みに「宝」とは欲望の対象ということであり、仏法から見れば特別に「宝」とするものは無いと言える。

    (3)「第三不淫欲戒」(不貪淫戒) 
    三輪清浄にして希望ケモする所無し、諸仏同道なる者也。」
      「三輪」とは身口意、即ち身体・生命活動。
      「清浄」とは、全てのものの本来の姿であり、全てが真実であるので、一つのものに執着する偏りがあってはならず、浄・不浄を対立的に考えないこと。
      「尽十方界清浄」が根本であり、「清浄」とは自我による選り好みがないことである。
      従って「不著清浄」即ち清浄ということにも執着しないことである。
      元来「不浄・汚れ」「ゴミ」という概念は人間の自我に基づく好みや偏りである。
      「掃除」は人間の自我(欲望)による行為であり、「水で洗う」ということは物が水に移動するだけである。
      「三輪清浄」とは「解脱」の意。「希望」とは欲望、満足。
      「諸仏同道」とは、大地有情同時成道、即ち全てのものは真実しており絶対的であること。
      「淫」とは自我の享楽、自己満足の暴走である。
      因みに小乗の修行方法の一つ「不浄観」は、人間の身体は不浄だと見なして淫欲を抑制するが、大乗では「観身不浄」、即ち身体全体は「不」の浄即ち大自然(絶対的)の浄(清浄)であるということになる。

      不淫欲戒」とは、戒の根本である自己満足の追求を止め(不貪)た人間の本来の在り方である。即ち好みに暴走せず、清浄にも執着しないことである。

    (4)「第四不妄語戒
    法輪本より転じて剰ること無く欠くること無。甘露一潤して真を得実を得也。」
      「法輪」とは尽十方界(真実)の展開(全部真実)のこと。
      「本より」とは本来。
      「転じて」とは活動の意。
      「法輪本より転じて」とは、尽十方界(真実)は常に休まず活動(心)していること。
      「剰ること無く欠くること無」とは完全無欠のこと。
      「甘露一潤」とは全て仏の姿であり、真実の実践であること。
      「真を得実を得」とは全てのものが真実していること。
      「妄」とは、自分勝手に考える人間の自我であり、自分の好みだけを採ろうとする誤り。
      「妄語」とは、生命活動(川の流れ)における生理現象としての自我意識(波)である。

      不妄語戒」とは、本来尽十方界に妄語(自我)は無く、全て真実を表現(宇宙の生命活動)しており、全てをそのまま頂戴することである。
      因みに「坐禅」は「已説未説の全語」であると言われる。

    (5)「第五不酒戒」 
    未将来も侵さ教むること莫れ。正に是れ大明也。」
      「未将来」とは、持ってくるものが何も無いこと、即ち本来の姿、解脱のこと。
      「将来」とは陶酔すること。
      「侵さ教むる」とは我がまま、人を迷わせること。
      「大明」とは、本来の姿、解脱、自然の姿。
      「酒」とは、無明(エゴイズム)、愚痴のことで、酔いたい、悟りたいという自己満足のこと。尤も酒自体に罪はない。
      」とは売ること。
      「不酒」とは、人に酒を売らないことから転じて人を酔わせないこと。
      なお「酔わない」ということは解脱、尽十方界真実の実践のことである。
      「酔う」ということについては、酒よりも思想の方が影響が大きい。
      特に注意が必要なのは、「看話禅」等の所謂「さとり」の境地に陶酔することであり、しかも本人のみならず他人にそのような誤った座禅を勧めることである。
      ここの「莫」も訓みは「なかれ」であるが、意味は自然の姿である「なし」である。

      酒戒」とは、尽十方界真実人体であることを明確に認識して何者にも騙されないことである。
      なお大乗は「不酒戒」であるが、小乗は「不飲酒戒」(梵網経の四十八軽戒の一)である。
      その相違は、後者は自利行であり、本人の「飲む咎」だけで軽い。
      然し前者は菩薩行・利他行が大乗の根本であるにも拘わらず、他人を酔わせ本心を失わせるということで罪が重い。

    (6)「第六不説過戒」(不説四衆罪過戒)
    仏法中に於て同道同法。同証同行也。説過せ教むること莫れ。乱道せ令むること莫れ。」
      「同道同法。同証同行」とは、全てのものが真実であり、真実を実践していること。
      「説過」とは大乗に背く、無茶を言うこと。
      「乱道」とは非仏法のことを行い言うこと。
      「不説」とは全部真実であるから説くべき罪過が無いこと。
      「四衆」とは仏弟子(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)。
      「莫」は上記同様、訓みは「なかれ」であるが、意味は本来自然の姿である「なし」である。

      不説過戒」とは、尽十方界に間違いということは無く、本来の姿に咎はない。即ち仏法に誤りなしである。すべてのものは絶対完全(成仏)であって咎を説けない。従って全て差別することなく、全部頂かねばならない。まさに自他不二である。

    (7)「第七不自讃毀他戒
    乃仏乃祖。尽空を証し大地を証す。或は大身を現せば空に内外無く、或は法身を現せば地に寸土無し。」
      「乃仏乃祖」とは「仏祖」以外何者も無しということ。
      「乃」は強めの語で「俺が仏祖」というようなニュアンス。
      「尽空を証し」とは、「尽空」は尽十方界のことで、尽十方界真実の実践。
      「大地を証す」とは、「大地」は尽十方界で、尽十方界真実の実践。
      「大身を現」とは真実の実践。「空に内外無く」とは対立するものが無いこと。
      「法身」とは尽十方界真実。
      「地に寸土無し」とは自他の仕切りが無いこと(大自然に自他の概念無し)。
      「或現大身空無内外」も「或現法身地無寸土」も、同じことで、どんなものでも尽十方界真実しており絶対的に尊いこと。
      なお「自賛」(自惚れ)の時は常に「毀他」(他を貶す)である。

      不自讃毀他戒」とは、全てのものが尽十方界真実であり、絶対且つ完全(皆仏)であるから、自他共に尊いということである。即ち諸法実相であり、坐禅の内容である。このことを「三業に仏印を標し、三昧に端坐して結跏趺坐」即ち「尽虚空を証す」と言う。

    (8)「第八不慳ケン法財戒
    一句一偈。万象百草也。一法一証。諸仏諸祖也。従来未だ曽て慳まず。」
      「一句一偈」とはどんな小さなことでも真実の表現であること。
      「万象百草」とは尽十方界真実、諸法実相。
      「一法一証」とは全てのものが真実していること、全部真実。
      「諸仏諸祖」とは尽十方界真実。
      「従来未だ曽て慳まず」とは全てのものは真実で完全無欠であること(「唯仏与仏乃能究尽」)。
      不慳」(「不惜」も同じ)とは、布施(法施・財施)、只管、無所得・無所悟、自他不二ということ、全てのものの本来の在り方、菩薩道のこと。
      「財」には「法財」と「世財」がある。

      不慳法財戒」とは、諸法実相、尽十方界真実、自然の恩寵(布施波羅蜜)のことであり、どれも全部絶対的な(本来の在り方をしている)ものであり、特別なもの無しということである。

    (9)「第九不瞋恚シンニ」 
    退に非ず進に非ず。実に非ず虚に非ず。光明雲海有り荘厳雲海有り。」
      「非退・非進・非実・非虚」とは、退・進や実・虚等現実の生命活動であり、尽十方界真実の一時の様相であり、尽十方界に進も退も無く、本物(実)・贋物(虚)も無いということ。
      「光明」とは大自然の恩恵。
      「雲海」とは広大無辺のもの、即ち全部光明であること。
      「荘厳」とは尽十方界真実。
      「不瞋恚」とは、「平常心是道」即ち本来事件なし、怒る材料なし、興奮無し、当たり前ということ。
      「瞋恚」とは興奮、わがまま、自我の暴走、不瞋恚(只管)に対する反応。不瞋恚は本来の在り方であり、無反応で手応えなし。
      因みに「忍辱ニク波羅蜜」は自己の本来の在り方・相をはっきりさせること。
      「忍」とは自我に振り回されないこと。
      また「娑婆」とは能忍ということで、自我を超越することである。
      なお「瞋恚」は予め用心のできない悪であるため、十重禁戒に原則として軽重は無いが、特別に保つべき戒とされており、瞋恚を起こした時は十戒共に犯すことになる。

      不瞋恚戒」とは、仏そのもの即ち慈悲心(自我発現以前の在り方)、孝順心(衆生を哀れむ心)である。不瞋恚戒は「如何持つ可きか」ということについて、「之でいく」という様に決められない。つまり本来の姿そのままが光明(恵み)であるから、特に「態度を選ぶ」ということはない。
      仏法は、のぼせや僻みの無い本来の姿を修行することである。

    (10)「第十不謗(不癡謗)三宝戒
    現身演法。世間の津梁。徳薩婆若海に帰す。称量す可ず。頂戴奉覲ゴンスベシ。」
      「現身演法」とは、諸法実相、現実は真実の表情であること。
      「世間の津梁シンリョウ」とは人間世界。
      「津」とは渡し場、「梁」とは橋で、「度」即ち衆生済度のこと。
      「薩婆若サッパニャ海」とは無限の生命活動。
      「薩婆若」とは一切智。
      「海」とは無限、仏智。
      「称量す可ず」とは「此こそ本物」と取り上げるものなし。
      「頂戴奉覲」とは、ありとあらゆるものが真実であり、無条件に三宝(尽十方界真実)を頂くこと。
      「謗三宝」とは、何か特別なもの(さとり)を求めること。
      例えば、小乗のように戒を犯さないよう異常な努力をすることも反って自己満足の追求となる。
      「謗」とは真実をそのまま受け取らない、信じない。

      なお「不癡謗」については、道元禅師のみ「癡」の字を使用されており、その理由は「三毒」(貪トン・瞋ジン・癡)の中、「貪」(欲)・「瞋」は対象があるが、「癡」はただ愚かで訳が分から無いため三宝が信じられないということである。

      「不謗三宝戒」とは、現実(全てが三宝)を文句言わずにそっくりそのまま頂くことであり、本来の姿(尽十方界真実)を修行することである。

    なお「十重禁戒」は一戒一戒が皆「三宝」であり、「不謗三宝戒」である。また「不殺生」のとき必ず「不謗三宝」である。

    以上十重禁戒について述べたが、『梵網経』は、十重禁戒以外に現実に行われていた誡めで、それを犯せば「軽罪(軽垢罪)」となる「四十八軽戒」を挙げている。

    最後に、これまで戒について種々述べてきたが、実際に戒を持つ(実践)ことは決して難しいことではない。何故なら「只管打坐」の坐禅を行ずる時、全ての戒が持たれているからである。
    戒と言っても特別なことではなく、尽十方界真実のことであり、我々の生命の本来の在り方のことである。既に坐禅の項で詳しく述べたように、尽十方界真実即ち戒を実践する方法は只管打坐の坐禅をおいて外に無く、実際に坐禅を行ずればよいのである。


 



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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・16 出家

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