第T章 仏法の大意

14 戒(総説)

『正法眼蔵』十二巻本「受戒」巻において、道元禅師は「西天東地(インド、中国)、仏祖相伝しきたれるところ、かならず入法(仏法入門)の最初に受戒あり。戒をうけざれば、いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり」と示されているが、仏法を信じ仏道を行ずる者は、在家出家を問わず、必ず「受戒」しなければならないことは当然である。
さて「戒」の仏法における本当の意味は、達磨の言葉に「戒とは仏心(尽十方界真実)なり」とある通り、尽十方界(宇宙・大自然)の在り方そのものを意味しているのであり、決して通常一般的に理解されている単なる人間の意志意欲段階における道徳や倫理的な禁止事項というようなものではない。





一 戒の意義


    仏法の戒について、戒法を説く『梵網経』(下巻)は、次のように述べている。

    戒光は口従り出ず、有縁は因無きに非ざる故に、光光は非青黄赤白黒、非色非心非有非無。非因果法。是れ諸仏之本源、行菩薩道之根本、是れ大乗諸仏子之根本なり。」

    つまり、戒(戒光)は何かの因縁があって、言葉(口)即ち「説戒」によって知る。
    真実の働き(光光)は全て絶対的な自然(非)の姿(青黄赤白黒や色心有無等の感覚・自我・欲望の世界)であり、ありとあらゆるものが真実である。
    尽十方界真実は修行を積むことにより習得・習熟したりするようなものではない(非因果法)。
    尽十方界真実(戒)は諸仏の本源であり、菩薩道を行ずる根本であり、大乗の仏道修行者の根本であるということである。
    なお同経「自己の本来の在り方」に徹すれば本来「持犯」(戒を持つ或いは犯す)ということ自体がないと述べている。


    次に、道元禅師及びその弟子詮慧に師事した経豪が、詮慧の説を基本に道元禅師の『教授戒文』『梵網経』(下巻)を一つに纏めた注釈書『梵網経略抄』を著わしている。
    この書は、その題名の意味が『梵網経』(下巻)の略の註解ということを表しているが、実際は主として『教授戒文』に関する参究の成果を体裁に囚われずに覚え書きとして残したものであり、その中で以下のように戒の本質を明確に述べている。
    「戒は制止なり、対治なり。制止と云は、既に釈迦牟尼仏始て菩提樹下に坐し給て、無上正覚なり。終て結戒を制止と名づくるが故に、我与大地有情同時成道と制止するなり。故に仏戒と云ふ。」
    (因みに『梵網経』の註に制止も対治もその意味は「人機に対ししてはならぬと止めたこと」とあるが、「不」、「解脱」と同義である。)
    つまり「」とは「制止、対治」であり、「制止」とは釈尊の菩提樹下の結跏趺坐(只管打坐)における「無上正覚(悟)」即ち尽十方界真実の実修実証の事実である。
    詳しく言えば、釈尊の悟りの内容は「我与大地有情同時成道と制止する」ということである。
    即ち、まず釈尊は、人も大地有情も、この世界のありとあらゆるものは、皆同じく「時」のすがた(相)であって成道(尽十方界真実)している。ありとあらゆるものは一時も休まず生き続けており(心の活動)、後述『正法眼蔵』「有時」巻が示すように、すべて「時」の在り方であり、人間も例外ではないという事実を悟られたのである。


    ここで「有時ウジ」について若干触れると、「有は時なり、時は有なり」(同巻)ということである。
    「有」とは、事件、森羅万象、存在等形を努力する「時」(心)の相スガタを意味し、「」は、心同様宇宙・大自然の生命活動そのものを言う。
    つまり「有時」とは、尽十方界のその時の様相即ち「心」の相であり、あらゆるものは全て「時」、「時の相」であるということである。
    但し既述の通り、尽十方界(大自然)に人間の自我(欲)から生まれた「時間」の概念はあり得ず、時と時間とは根本的に異なることを知るべきである。
    なお上記の「同時」とは、「一斉に」という通常一般的な意味ではなく、「同じ様に」という意味である。
    要するに、釈尊は、宇宙・大自然のありとあらゆるものの在り方が、全て同様に「時の相」であり且つ「成道」即ち完全無欠な絶対的事実であること、つまり「本来成仏」であることを悟られたのである。
    しかも釈尊は、人間は自己満足の追求(エゴイズム)を放棄して、本来の宇宙・大自然の生命(尽十方界)の在り方に還ることが本当の生き方であると悟られたのであり、このエゴイズムの放棄(本来の生命への回帰)が「制止」ということである。


    以上を纏めると、「戒」とは制止であり、制止とはエゴイズムの放棄、即ち尽十方界真実の実修実証(只管打坐)である。
    故に戒とは尽十方界真実の実修実証(只管打坐)であり、「結戒」とは只管打坐である。
    また「仏戒」とは「仏」が「戒」であるということであり、即ち尽十方界真実が戒であるということである。
    なお制止・対治(戒)は、即ち只管打坐の坐禅であるから、「坐禅」の項の説明の通り、対象がないことは言うまでもない。
    因みに戒は、仏戒のみならず、菩薩戒、或いは仏性戒、実相戒、一心戒等と言われる。
    つまり仏戒同様、「菩薩戒」は菩薩が戒であるということであり、菩薩の戒ではない(仏や菩薩は形容詞ではなく、仏や菩薩が戒と同じ事実である。)ことに注意すべきである。
    但しこの場合仏も菩薩も特に違いは無く、「戒は仏・菩薩即ち尽十方界真実である」ということに意味がある。
    また「仏性戒」は「仏性(尽十方界真実)」が戒であり、「実相戒」は「実相(尽十方界真実)」が戒であり、「一心戒」は「一心(尽十方界真実)」が戒であるということであり、全て同一の事実を表現している。上に述べたことから明らかなように、戒とは尽十方界真実の実践、即ち宇宙・大自然の在り方ないし我々の本来の在り方のことである。これを仏教用語で言えば、「阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイ」であり、簡単に言えば「成仏」のことである。
    なお「一戒光明」という言葉は、宇宙のありとあらゆる事実が戒の実態であり、あらゆるものは戒そのものの様相であり、戒そのものの輝きであるという意味である。勿論「一戒」の「一」は既述の如く「全(体)」の意味である。




二 大乗戒と小乗戒


    ところで、「戒」の起源について簡単に述べてみる。

    まず一般に「戒律」という言葉がしばしば使われるが、インドの経典にはこれに相当する原語は無く、中国に於ける造語のようである。
    つまり「戒」と「律」は全く別の語であるが、中国で同一視したものである。
    インドでは、「」は「毘奈耶(毘尼)ビナヤ」と呼ばれ、僧団の規則のように、他律的、外的に規制するものを指し、調伏、滅、離行という意味(〜すべからず)があった。
    尤も当初は行儀、マナーを意味していたようである。
    これに対し「戒」は「尸羅シラ」と言い、「非を防ぎ悪を離れる」意に用いられ、自己の内省によって努力することが基本であった。
    更に戒は「波羅提木叉ハラダイモクシャ」とも呼ばれ、「別々解脱」、「処々解脱」という訳がある。
    つまり一戒を持てば、その一戒により成仏得道する。
    今此処で行じたら、其処で解脱(「一分受」、「二分受」と言う)し、成仏するという意味である。
    「現成公案」の項で説明した「得一法通一法、遇一行修一行」と同じことである。
    波羅提木叉という言葉については、釈尊が臨終の際弟子達に残した『遺教経』の次の言葉が有名である。

    ◎「汝だち比丘、我が滅後に於て、まさに波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遇い、貧人の宝を得るが如し。」

    次に、戒における大乗と小乗の違いを知らなければならない。
    それは、しばしば「小乗の持戒は大乗の破戒、大乗の持戒は小乗の破戒」という言葉で示される。
    即ち、「小乗」は苦行中心の戒律に縛られるが、それは解脱即ち理想に縛られることを意味している。小乗は特に淫欲の克服が重要課題であった。
    他方「大乗」は尽十方界真実人体である「身体」の最重要性を発見すると共に、あらゆるものの生命を尊重することが中心となった。
    つまり小乗仏教の修行の中心は「」であり、「奉律」は生活規制であり、さとり・解脱等理想追求への道程である。小乗の所謂「二百五十戒」はさとりを目的とする生活規制である。
    これに対して大乗仏教の修行の中心は「」であり、所謂「維摩居士の奉律」に見られるように、自戒の内省が深められ戒法が確立していったと言える。
    『維摩経』は、一切法(尽十方界)の実態が同時に自己の存在の実態(尽十方界真実人体)であり、自己の本来の面目であることを説く。
    そしてまた、そこから自らの生活が如何にあるべきか決定すべきことを説く。
    その根本は、常に尽十方界真実人体を生きているから、尽十方界真実に随うだけという維摩居士の奉律、即ち戒律で非を防ぎ悪を止めるということが説かれる。
    同経は仏教史上小乗から大乗への橋渡しになった経だとされている。

    因みに『毘盧遮那成仏経疏記』に「(尽十方界)の本性(真実)は即ち尸羅(戒)にして、造作の法(人間の法)にあらず。他に依って得るにあらざるが故に無為戒に住すると云うなり」とある。
    無為」は大自然の在り方を意味する。なお中国仏教においては、大乗戒は十六条戒に集約されたが、大乗戒と南山律宗説に基く「四分律」による小乗戒との併用も行われた。日本では、奈良時代鑑真中国式両者併用の「律宗」を伝えたが、最澄は比叡山で大乗戒のみの独自の戒を設け円頓戒と称した。


    参考までに戒とは直接関係ないが、禅宗寺院の規則制定の立場における大乗と小乗の違いということについて、『永平広録』巻五に以下のことが取上げられている。即ち、或る人が、百丈懐海(720〜814年)に問う。『楡伽論』『瓔珞経』は大乗の戒律である。如何して此を用いないのか。百丈が言う。私が目的とする所は大小乗に限らない。しかし大小乗とも違っていない大乗と小乗の良い所を採って規範を作り、その宜しき所を努めるべきであると。

    上記は所謂『百丈清規シンギ』、即ち禅宗寺院における最初の清規(規則)を制定した百丈の清規制定の立場を述べたものであるが、これに対して『永平清規』を制定された道元禅師の立場は以下のとおりである。
    永平は即ち然らず。大小乗に局るに非るにあらず。大小乗に異るに非るにあらず。(どっちが如何ということは無い)作麼生是小乗。驢事未了。作麼生是大乗。馬事到来。(同じ事である)不博や極大同小。不約や極小同大。(それぞれである。)吾折中せず。驀然として大小を脱落す。」


    つまり百丈は、大小乗を博約折衷して一つの規則を立てたが、道元禅師は、大小は人間の欲望に起因するものであり、仏法に宗派なしと云う観点から、大乗にゆくべきは大乗、小乗にゆくべきは小乗にゆく、超越はするが、守るべきは守るという立場である




三 菩薩戒


    ここで、『梵網経略抄』の「菩薩戒」について見ておかなければならない。まず『梵網経』「菩薩戒序文」の「正戒の相(此れだけ正しい)をも取らず、亦邪念の心(自分勝手)も無し。是清浄の戒と名く」という言葉がよく知られているが、尽十方界真実の実態を良く示している。


    次に菩薩戒には三重の道理がある。
    一云、位同大覚已、真是諸仏子と云う故に(菩薩は諸仏の子であるから、大覚(仏)と同じ位である)
    二云、声聞(小乗)の持戒は、菩薩の破戒よりも劣也。声聞は自調自度(自己満足・陶酔)と立つ菩薩は先度他(利益衆生・自己満足の放棄)と云う故に
    三云、一分受、二分受の事也。此戒は一をも受けぬれば永不失(永久に失わない)なり。重て未来際不失、必可成仏也。仍て菩薩の名を帯ぶ、声聞の戒に異る也。此分は一分も十分も百分も只同じ事也と心得べし
    つまり「三云」については、菩薩戒にあっては「受戒」はあり得ても「捨戒」は有り得無い。「犯戒」はあっても「失戒」はない。
    従って未来際不失即ち戒が自己の本来のすがたであるから失うということはない。
    また本来成仏であるから「捨てるに捨てられない。ただ本来の在り方に背いて、自我意識(意志意欲)の活動に終始すれば「犯戒」であるが、戒そのものは失われることがない。
    但し「捨戒」と言う言葉は、戒法を問題にしない態度を意味するだけで、本人は戒即ち尽十方界真実に生かされていることには変わりは無い。
    なお「菩薩摩訶薩は大乗に於て心懈怠せざるを本戒と名づく」と『涅槃経』は説く。




四 受戒


    さて戒というものが上述のようなものであれば、受戒ということの意味も自ずから明らかであろう。
    」とは、身体が生きている、身体を頂いている、本来の在り方を生きるということである。従って「受戒」とは、自己が本来戒(尽十方界真実人体)であることを自覚することである。

    即ち尽十方界真実(宇宙・大自然の在り方)に気付いて、これを信じ、これを実践することである。つまり身体の本来の在り方、即ち自我意識(選り好み)を超越して、全てそっくりそのまま頂く事、端的に言えば只管打坐を行ずることである。
    因みに「超越」ということは、(自我意識を)否定するのでは無く、それを認めた上で、それ(自我意識)に引きずり回されないことである。
    同様に「持戒」ということも受戒と全く同じことである。自我意識を棚上げして自己の本来の姿を保ち続けることであり、只管打坐を行じ続けることである。
    『正法眼蔵随聞記』に「坐禅の時、いづれの戒か持たれざる」とある通りである。
    なお大珠慧海『頓悟要門』は「仏戒とは清浄心(尽十方界真実)是也。若し人有って発心修行して清浄(尽十方界真実)を修行し、所受の心無きを得れば、仏戒を受くと名づく」と述べている。


    参考までに曹洞宗における『曹洞宗行持軌範』の「出家得度式作法」では、(1)剃度作法(剃髪、授直ジキトツ、安名アンミョウ、授坐具衣鉢エハツ)と、(2)授菩薩戒法(懺悔、三帰戒、三聚浄戒、十重禁戒、血脈授与、回向)を内容としている。




五 曹洞宗における戒の典拠


    曹洞宗においては、「禅戒一如」即ち禅も戒も同じ尽十方界真実のことであり、戒外無禅(戒の外に禅無し)、禅外無戒(禅の外に戒無し)であるとして戒を非常に尊重する。但し戒の典拠については以下のとおりである。
     
    1. 達磨の『一心戒文』(一大乗戒):これは北宗禅系統の『楞伽師資記』をもとに天台宗に伝わったもので、大乗の仏法の根本を説く。
    2. 道元禅師の『教授戒文』(懐奘録):永平門下の禅戒聖典。道元禅師が如浄禅師から伝承された禅戒の精神を「十六条戒」によって闡明したもの。本源を『一心戒文』に発し日本天台宗の円頓戒と同じ性格を持つ。 
    3. 『梵網経略抄』:「戒法の受持」とは只管打坐のみにより具現するという禅戒の理念を闡明したもの。後述禅戒関係の書の淵源。
    4. 『禅戒鈔』万仭道担(1698〜1775年)が『教授戒文』を『梵網経略抄』によって註解した。曹洞宗の禅戒のテキスト。尤も『梵網経略抄』からの引用につき重要部分が省略され過ぎている嫌いがある。
    5. 『禅戒本義』万仭道担が『禅戒鈔』上梓十六年後『教授戒文』に註解を加えたもの。

       因みに曹洞宗には「儀規本」と言われる『室内伝法式』、『教授戒文』、『授菩薩戒儀』がある。

       [参考]
       @「江湖会ゴウコエ」とは、禅僧の百日の集団修行のこと。
       A「授戒会」(曹洞宗)は、「出家得度」の授戒と異なり、「結縁受戒」が主で、僧俗共に生涯に何回でも受戒できる。
      その中心は「血脉ケチミャク授与」で7日間が本則(5日〜3日に短縮)である。
       「法脉会」(但し一日のみを「因脉会」という)の内容は以下の通りである。
        A)「聞法行」は説戒・説教・口宣クセン等の注意や指示等。
        B)「生活行」は集団生活による仏教的生活法の訓練。
        C)「礼拝行」は礼仏・壇上礼等の礼拝や各種諷経及び巡堂(諸堂の礼拝)。
        D)「供養行」は先亡供養等の回向。
        E)「面授行」は仏祖礼(伝灯の仏祖名の称名礼拝)と戒源師諷経(戒師の本師を供養し、戒師・引請師・教授師の三師と対面し礼拝)。
        F)「授戒行」は懺悔五日目夜、教授師に「小罪無量」の札を提し、戒師が此を本堂中央で焼却。教授道場については六日目朝、教授師は
        『教授戒文』を読み聞かす。正授道場については六日目夜、戒弟は洒水灌頂・十六条戒を受け登壇、三師等の証明師が証明し血脉授与。




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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・15 戒(各説)

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