5 心シン
仏法を学ぼうとする者にとっては、仏法における「心(シン)」という言葉の正しい意味を理解しておくことが非常に重要である。通常一般の「心」の意味は、人間の心理ないし精神作用のことを指し、「こころ」と訓むのが慣例である。
一 心はこころではなく、尽十方界真実のことである
一 心はこころではなく、尽十方界真実のことである
しかし仏法において「心」或いは「仏心」と言う場合は、「仏が心、心が仏」である。つまり「心」とは、これまで述べてきた「尽十方界真実」、即ち宇宙・大自然の生滅活動のすがた乃至ありとあらゆるもの(非情を含む)が一刻も休まず(生命)活動を続けている事実を指す。
端的に言えば仏法そのものの事である。ところが、この最も重要な仏法の基本を知らない僧侶や仏教学者が余りにも多く、「仏教はこころの持ち方一つじゃ」等と、自らの恥をさらしている場合が多い。
勿論「心」は尽十方界真実のことであるから、人間(尽十方界真実人体)の精神作用である「こころ」も「心」の表情の一つであると言うことはできる。
然し仏法で人間のこころ乃至精神作用を表現する場合は、「慮知念覚リョチネンカク」と言う。恐らく宗教というものを精神的範疇だと考えている人達は、不思議に思われるかもしれないが、通常仏法では自我意識に起因する人間の精神や心理等をその対象とはしないのである。
何度も述べるように、仏法は尽十方界真実(宇宙・大自然の絶対事実)であって、所謂「思想」(人間の自我の所産)ではないからである。
例えば、後述の「即心是仏」「三界唯一心」「一心一切法」等という言葉も、すべて人間のこころの意味ではなく、尽十方界真実のことである。『般若心経』の「心」も同じである。
但し西欧哲学で言う「唯心論」の「心」は精神の意味であるから間違ってはならない。西欧哲学では、デカルトが「精神」と「物質」の二元性を前提にした思想を展開しているが、仏法を学ぶ者は、仏法が決して西欧的な唯心論ではないことを弁えておかなくてはならない。
ところで、このような仏法の「心」の意義を明確化したのは、唐末九世紀中頃の黄檗希運(〜855―9年)の『伝心法要』や大珠慧海の『頓悟要門論』においてだとされている。尤も五祖大満弘忍(602〜675年)の『修心要論』において「守心」即ち「守本真心」が説かれており、初期中国禅宗において既に「心」に対する解釈の大枠は定まっていたと言えよう。参考までに『伝心法要』に次の言葉がある。
- 「此の法(物事)即ち心なり、心外に法なし。此の心即ち法なり、法(物事)外に心無し。心自ら無心(心そのものの在り方(把握不可能))ならば、亦無心なる者なし。心を将って心を無ナミ(無心ならしめようと)すれば、心却って有(有心)と成る。黙契(只管打坐)のみ、諸の思議を絶す。故に「言語道断、心行(思為)処滅」と曰う。」
- 「此心は、かって生ぜず、かって滅せず。」
さて、心が仏法即ち尽十方界真実と同義だとすれば、これまで述べてきた仏法や尽十方界(真実)の説明が全てそのまま心に当て嵌まる。例えば、石を例にとれば、心が石しているのであり、石は石の生命・寿命を生きている。即ち石を一刻も休まず努力(修行)している。
それは四大(地水火風)という異なった性質のものが因縁により和合したものであり、それらは常に分離しようとする働きがあるため、石は次第に疲労し、やがて滅びることになる。心はこのような自然現象であり、絶えず活動変化している。
心は様々な姿・形、即ち山河大地、日月星辰等をなしている。
しかもこのような心の無限に続く活動の事実そのものは永遠に変わらない。このことを「涅槃」(常住)と言うのである。
従って心即ち宇宙・大自然には人間の恣意の入り込む余地等ない。この事実を、仏法では「不可得」「解脱」と言い、密教では「阿(字)」で表現する。まさに人間の概念に基づく流儀や思想等はないのである。
なお、「性ショウ」「仏性」(後述「仏性」参照)の語も心と同様の意味で使用され、仏法の同義語である。
二 「風旙バン心動」(『正法眼蔵三百則』中巻四十六)の公案
次に心を扱った公案であるが、これは『正法眼蔵』「恁麼」巻にも取り上げられている。
つまり、説法旙が風に揺れるのを見て、二人の僧が、風が動くのか旙ハタが動くのかと、無意味な言い争いをしているのを六祖が聞いて、「風が動くのでもないし、旙が動くのでもない。仁者(あなた方(尊称))心動」と裁定した。
これは、通常、寺で説法が行われる時、旙を立てるのが慣例であり、偶々その旙が風に靡くのを見た二人の僧が、争論をおこし決着が付かないのを、六祖が聞いて、「風が動くのでもなければ、旙が動くのでもない」、即ち風は只吹いており、旙は只揺れている。風も旙も目的を持っているのではない。「あなた方よ、心動即ち大自然の働きつまり自然現象だよ」と言った。
このように景色を見てあれこれ考える、即ち事件を見るのは、人間の自我の問題であると同時に、心即ち「人間も人間している」からだと六祖は云ったのである。
ここで注意すべきなのは、「仁者(あなた方)のこころが騒ぐ」と捉えてはならないことである。
心は尽十方界(真実)であり、大自然の活動(自然現象)を意味している。
三 一心一切法、一切法一心
更に禅において有名な「一心一切法、一切法一心」と云う言葉について、多少難しくなるが酒井老師の説明を引用する。
まず「一切法」とは、その存在の根拠をそれ自身に持たない無自性・依他起の因縁(原因・条件)所生の法(事件・事実)ということになる。
つまり「一切法」とは事件・存在のことであり、人間の自我には関わりのない「時」の姿(後述「有時」参照)である。
これは心(尽十方界)と対立するものではない。
即ち心(尽十方界)の外にあるものではない。
心(尽十方界)の外にあるものだとすれば「一切法」ではない。
一切法はまさに尽十方界における「普遍」そのものであり、無量無辺である。故に我々は一切法に対して傍観者となることができない。
つまり一切法は、我々を含めた一切法であって埒外がない。
また一切法は我々の生活活動そのものを活動させている事実であり、単なる無限の個々の存在の綜合体でも包摂体でもない。
即ち単に個々の事物を合計したものではない。無限の個々の存在・不存在を自己の中においてかくあらしめている実態であり、ありとあらゆる事実はこの一切法によって実在する絶対の事実である。
しかも思索の対象(概念)になり得ない事実である。
言わば、言語矛盾になるが「概念に非ざる概念」とでもいうより仕方がない事実である。
これについては、『金剛経』の次のような文言が参考になる。
◎「一切法は皆是仏法なり。」(『金剛経』「究竟無我分」第十七)
◎「言う所の一切法とは、即ち一切法に非ず。是故に一切法と名づく。」(『金剛経』 後述「般若波羅蜜」参照)
要するに、仏法の項で、仏法が定義不可能な事実の問題である事を述べたが、ここの「一切法」もまさに同じことであり、「尽十方界」という言葉もまた同様である。
次に、『起信論義記』によれば、「一」は無他(他なきもの)の義であり、全体・全部という意味で、即ち尽十方界のことである。
つまり、その次に、二、三と続くものがないもの、所謂順序の「一」ではない。従ってその中から一つを摘まみ取るというように、選り好みが出来るようなものではない。
「一心」の用語例は次の『華厳経』の言葉が有名である。
◎「三界唯一心、心外無別法、心仏及衆生是三無差別。」(『華厳経』)
つまり、この世界の全てのものは、心の姿即ち尽十方界真実の様相であり、心(尽十方界)以外のものはない。
仏という在り方も衆生という在り方も心(尽十方界)のすがたであることに変わりはない、ということである。
なお、一心と一切法の間に、「〜は〜である」というように、助字が介在することは無い。即ちこの実態は述語されるものではない。
言い換えれば両者は同一事実であって、一切法と心は同じである。『大乗起信論』における「心真如」もまた同義(心=真如)である。
四 心が身している(身心一如)
ところで、「身心一如」という言葉について、通常世間一般では「こころと身体が一つ」というような意味に誤解されていると思われるので、仏法に於ける本当の意味を述べることにする。
この言葉は、人体そのものの実態を表現した言葉であるが、心とは上述のように大自然の生命活動そのものであり、その心の生命活動の一つの姿・形態が人間の「身」(からだ)であるということである。
つまり「心が身(からだ)している」のである。
尽十方界真実人体、即ち自我意識発現以前の身体本来の生命の事実を「身心一如」と表現するのである。
例えば、呼吸は我々の意志意欲には全く関係のない人体の生命活動の営みである。「見える」「聞こえる」「感蝕する」等の感覚・知覚等も生命活動の表情であり、仏法から言えば、人体の「調度」「荘厳道具」である。
要するに心を離れた単なる身はないし、心だけがなんらかの形に現れずに存在するということも有り得ない。
この身心(身体)は自己が生きている事実であり、生理現象に過ぎない自我意識に支配された「個人的な自分」の生命ではない。宇宙全体が生命活動していることの現れなのである。
五 即心是仏
ここで、『正法眼蔵』「即心是仏」巻にある「即心是仏」について簡単に説明する。
この言葉は、「心そのものが仏である」という意味であるが、端的に言えば、尽十方界真実のことであり、生かされて生きている我々の本来の姿のことである。
なお当該巻に、「無心是仏」「非心非仏」「即心即仏」等という言葉が出てくるが、全て同じ事実を指している。
因みに、「即心即仏」については、『正法眼蔵三百則』下巻七十九に、大梅法常(752〜839年)がその師馬祖道一(709〜788年)に「如何ならんか是れ仏」と問うと、馬祖が「即心即仏」と答えたことに由来する言葉である。
つまり我々が尽十方界真実を生きている事実を確認した言葉である。また、「無心是仏」の「無」や「非心非仏」の「非」も、通常の否定の意味ではなく、「大自然の、絶対的な」という意味であり、これは仏法の常識である。
さて、「即心是仏」の「即」は「そのもの」という意味で、前掲黄檗の『伝心法要』は「道理無し」と解釈している。つまり、「現実そのままが真実」、即ち後述「現成公案」を表している。
そして道元禅師は、当該巻で、この「即」は、「とりもつ、つなぐ」という一つの事実であって、単なる言葉ではないと説示される。この辺の解釈は簡単には理解できなくなる。
従って道元禅師の『正法眼蔵』を本当に理解するには、本当の仏法を真剣に学んで、概念に浸りすぎた頭を徹底的に柔軟にして読まなければならない所である。
つまり「即」「心」「是」「仏」は単なる文字では無く、それぞれ一つの事実であって、一々が仏(尽十方界真実)であり、仏(尽十方界の事実)を四つ並べたのと同じである。
要するに、尽十方界真実が仏であるから、「心即是仏」「仏即是心」「即心仏是」「是仏心即」「心即仏是」と並べ方を変えても意味は変わらない。
何故並べ方を変えるのかと言えば、我々が一つの結論、例えば「即心是仏つまり心そのものが仏だ」と、即心是仏を固定的に観念化し、現実の多様な事実を忘れてしまいがちであるから、観念の固定化を防ぐ意味で、道元禅師は自由自在な説き方をされるのである。
結局尽十方界の在り方そのものが仏だということであり、また即心是仏という仏なのである。
参考までに、「即心是仏」巻は、同じく『正法眼蔵』「身心学道(身心の本来の在り方を実践)」巻を補足する巻であるが、一般に「心」というと、古来インドの「先尼外道」の不滅の「霊魂」を想定しがちであり、この過ちを正す為に書かれた巻である。また『正法眼蔵』「他心通」巻に、「他心通」を誤って「他念通」即ち「他人のこころが分かる」ことだと考え違いをしている大耳三蔵と六祖の弟子大證国師・南陽慧忠(〜775年)の問答が扱われている。
つまり三蔵(小乗・外道)の所謂「心」は「精神意識(念)」を意味するのに対し、国師(仏法)の「心」は尽十方界真実を言うものであり、その根本的な相違をテーマにしている。
国師の三蔵に対する質問「老僧即今在甚麼處」(老僧は今何処に居るか)は、「老僧の即今の在は甚麼である」(甚麼シモは所謂仏法の疑問詞)と訓み、「私の存在は尽十方界の真実だぞ」と三蔵に示している。なお「仏祖相見」とは、「仏祖に相い見える」、即ち本来の自己(仏祖)に立ち還ることであり、対人関係の問題ではない。端的に言えば、後述「只管打坐」の坐禅を実践することである。
六 性ショウは心と同義(『正法眼蔵三百則』下巻八十九)
最後に、心と同義の「性」に関する趙州従シンジョウシュウジュウシン(778〜897年)の公案を考えてみよう。
或僧が、趙州に「未だ世界が無い時、この世界を造る「性」がある。世界が崩壊してもこの性は崩壊しない。このような不壊のものは何であるか」と問うた。
趙州は「四大五蘊(生身の身体)」と答えた。
僧は「身体は壊れるものです。不壊のものは何ですか」と再度問うた。
趙州は再び同じ「四大五蘊」と答えた。
この公案は、生身の身体は無常で壊れるものであるが、生滅を繰り返す宇宙・大自然の生命活動そのものは永遠に続くものであり、この無常の姿こそ絶対的に変わらない永遠不壊の「性」であることを教えている。
ここで趙州が四大五蘊を不壊性と言ったのは、どんなものでも四大(地水火風)及び五蘊(色受想行識即ち働き)の性質を持つ、つまりありとあらゆるものはこの真実即ち無常に従うことから、このように答えたのである。