7、仏道修行と現成公案の信仰
これまで述べてきたことから、「仏法を学ぶ」ということは、我々が主人公だと考えている自我には関係なく大自然に生かされて生きているという絶対的事実を、我々はそのまま素直に受容することである。具体的には、大自然そのものであるこの身体を、日常の生理的習性に因る自我(エゴイズム)中心の生活ないし自己満足追求の人生から解放し、自我意識を超えた大自然の生命本来の在り方を努力することである。そしてその唯一の方法が、「無所得・無所悟」(ただ大自然に生かされて生きている在り方)の「只管打坐」の坐禅であり、その実践が仏道修行の根本なのである。
そして、更に言えば、仏道を修行する者は、上述の「現成公案」の信仰に遵って、絶対事実である現実をそのまま素直に受け入れて、それに対応、順応して生きていくのが最も自然な生き方である。例えば、「迷い」や「悩み」というものは、人間が生きている限り、生理現象として宿命的に避けられないものであり、頂かなければならないものである。これはからだの生命活動の表情であり、すべて大自然の在り方(「尽十方界真実」)である。それを素直に頂く事が真実の実践であり、即ち「救い」である。
要するに、現成公案の信仰に生きるということは、生きている限り、苦しい時には苦しむのが真実であると承知して、現実を素直に頂く事である。つまり生命活動の表情である悩みや苦しみを全部当たり前のもの(「平常心是道」)として、即ち「お勤め」、真実の実践として素直に頂戴するのである。酒井得元老師が、「悲しい時は悲しめということだから悲しめばよい。悲しい時に笑っていたら不自然である。悲しい時の顔というものは決まっている。自然に決まったとおりでよいのである。別に大騒ぎする必要は無い。その時その時に応じて全部頂けばよいのである。結局仏道修行者の修行とは、堪え難いようなことを本当に受け入れることが出来ること、例えば自殺でもしたいほど嫌な気分に襲われる現実をそのまま頂けるようになることである」と仰有たとおりである。
因みに、我々は「食べていけるだろうか」ということをしばしば心配する。これについて、『正法眼蔵随聞記』(第一)の「世間衣糧の資具は生得の命分ありて求めに依ても来らず、求めざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ」という言葉に、「生得の命分」ということがある。つまり我々が食べたいということは、個人の要求ではなく「命分」即ち「大自然の活動」である。我々は命分によって生活している。腹が減っている時に食べ物があれば食べればいいし、なければ食べられないだけである。我々が生きているということは、自分が勝手に生きているのではない。人間が苦しむのは、自分の力で勝手に生きていると思うから苦しむのである。我々が生きているということは自然の恵みであるから、食べ物に巡り合えば食べればいいし、食べ物が無い時は環境に恵まれないだけのことだと覚悟するしかないのである。
先の雀や猫の例でも分かるように、一般に自然界の動物は平然と皆そのような生き方をしているのであり、人間だけが必要以上に悩むのである。
最後に、我々は、大自然の中でしか生きられない。また如何に坐禅をして「自我の放棄」に努めても、生きている限り完全に自我活動から逃れる事は不可能である。そうだとすれば、逆に我々は、大自然から恵まれるものは勿論、自我活動から生じる結果を全て当然として素直に受け取ることしか方法が無いし、それが真実の実践(現成公案)だと考えるしかないのである。そのことを教えてくれるのは、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と「地震災害の見舞い状」に書いた良寛さん(1758〜1831年)である。正に有り難い実物見本である。