第T章 仏法の大意

11 信

これまでの説明で、仏法や坐禅に関する最も根本的且つ重要な事柄を述べてきたが、ここで日頃何気なく使用している宗教に最も関係の深い「信」という言葉の用法についても、仏法のそれとは大きく異なる事を知っておく必要がある。
一般に国語辞典では「信」について、「欺かない事、疑わない事、宗教に帰依する事」等人間の意思意欲に関わる事柄として解釈されている。

然し仏法に於ける「信」は、以下に述べるように「信じる」「信じない」というような人間の意思意欲とは直接関係の無い、宇宙・大自然の事実としての人間の「在り方」そのものを意味している。




一 正信(絶対信)の意義


 

    つまり仏法の「信(正信)」とは、人間生存における当たり前の在り方、即ち日頃自己が生きている事実に何の疑いもなく、殊更何とも感じないで生きている我々の「意識以前の姿・在り方」を言うのである。

    即ち本来尽十方界真実人体である我々は、大自然に生かされて生きているが、平生自己満足追求に忙しくて、自分が生かされて生きているという事実そのものを全く疑う事もなく安心しきって生きている。この様な人間の在り方を「(絶対)信」と言うのである。

    尤も我々は、しばしば他人との会話の中で、「何時死ぬか分からない」というようなことを何気なく言うことがあるが、その時でも我々は本気で自己の死の蓋然性を意識しているのではない。

    要するに、仏法の「信」は、人間(主体)が何かを対象(客体)として信ずること、即ち所謂精神的・心理的な行為を言うのではなく、人間生命の根源的な主客泯亡(尽十方界真実人体)の在り方そのものを言うのである。

    ところが通常の一般的な「信」は、必ず或期待が持たれており、それが外れないようにという人間の願望がある。
    言わば人間の「不信」が原動力となっており、信ずる者は、信ずる対象との間に一種の取引的関係を期待している。
    例えばお地蔵様に百日の願をかけて願いを叶えてもらうというようなケースである。

    これに対して「絶対信」は、人間自ら「自己の生存を疑う」ような不信がないので、願望・期待といった利己的なものが存在しない。
    つまり絶対信は個人の意欲的・感覚的生活の次元における信とは根本的に異なったものである。




二 信は(平常)心である


 

    ところで「平常心是道」で述べたように、この宇宙全体は一時も止むことのない活動を続けている。そしてこの活動(変化)し続ける事実の外には、この宇宙に不変のものは存在し得ない。この不変の事実を「平常心(尽十方界真実)」と言い、我々はこの平常心に安心し切って無感覚で在り得ている。このように我々が無感覚で在り得ている実態を「平常底」と言うのである。

    要するに大自然の恩寵(尽十方界真実)を我々は「信」じきって、しかも信じきっていることさえも全く我々は意識していない。それは、例えば無意識に空気を呼吸していて何とも感じていないように、或いは夜眠る時翌朝の目覚め(生存)を疑う事がないように、我々は大自然に生命活動を保証されて生きていることに無感覚である。

    以上のような我々の生存に於ける事実(尽十方界真実)の実態を、「信心」(「信」は「心」なり)と言い、「大安心」とも言うのである。このことを『信心銘』(三祖僧サン)は「信心不二、不二信心」と表現している。即ち「信は心なり」で、信と心は一つ、つまり「心」(尽十方界真実)を受け取っている事実が「信」だということである。




三 絶対信仰


 

    さて「」は、上述のように、「(平常)心」と同一の実態を指すのであるから、当然信(信心)の修行もこれまで述べた仏道の修行と異なるものではない。
    何故なら『華厳経』の「仏法の大海は信を以て能入となす」という言葉が示す通り、「仏道」は「信」を修行すること、即ち「正信心」を修行することだからである。そしてそれは、「平常心」に自己の全身心を完全に委ねる「絶対信仰」(絶対信を仰ぐ)でなければならないことを意味する。
    つまりそれは本来の在り方(尽十方界真実)を実修実証すること、即ち「只管打坐」を行ずることに外ならならない。
    逆に只管打坐以外に「正信の現成」はないのである。

    このことは『正法眼蔵』「三十七品菩提分法」巻「仏果位にあらざれば信現成にあらず」という言葉を見れば明らかである。
    仏果位」とは行仏(坐禅人)のことであり、「正信の現成」は、実際に無所得・無所悟の只管打坐が実践されることによってのみ可能になるのである。
    また同巻の「信現成のところ仏祖現成(尽十方界真実実証)」も同じである。
    つまり尽十方界真実を実践する正信心が身についた時、真実の仏道が行ぜられ、その行道は行仏となって仏行としての坐禅現成となるのである。

    そもそも尽十方界(宇宙・大自然)の真実は、我々が生かされて生きている過程の一齣セキの感覚で捉えらるものではない。
    尽十方界真実については、我々の模索は有り得ても、思惟や感覚で把握できることではない。人間の技でできることではない。
    従って人間を超えた尽十方界真実を生きる道は、絶対信仰に生きることしかないのである。なお『倶舎論』に「信とは澄浄なり」という言葉があるが、「澄浄」は「清浄」と同義であり、自我(欲望)をもち込まない、即ち信は自我に染汚されないことを意味している。
    同様に「信心清浄」という言葉も、現実をそっくりそのまま頂く、即ち自己流に変えて自分のものにするのではない(納得ではない)ことを表現している。

    因みに『正法眼蔵』「深信因果」巻の「深信因果」(後述「因果」参照)とは、「深信」(人間の在り方)は「因果」(尽十方界真実・総てのものの在り方)なりということで、現在の状態は過去の成果であり、現在の状態以上のものは有り得ない。故にその現実をそのまま素直に受け取ることが仏道修行の要諦であるということである。




四 宗教


 

    最後に信ないし信仰との関係で宗教というものについて考えてみると、「宗教の発生は、人間が他の動物と異なり、心識(脳の働き)により生死する生命(人生)を考え、死(有限)を見通すことが可能であることに起因する。」(内山興正老師)と言われる。
    また「宗教とは、人間がその有限性に目覚めたときに活動を開始する、人間にとって最も基本的な営みだ。」(『日本人はなぜ無宗教なのか』阿満利麿著 ちくま新書)も同じ趣旨である。

    ところで一口に「宗教」と言っても、仏教、キリスト教、イスラム教等の所謂世界宗教もあれば、明らかにいかがわしい新興宗教等もあり、その内容は千差万別である。然しここで真の宗教とは、「宗」の意味が「全ての根源、真実の姿、最も重要なこと」等であることを考えると、人間の本当の生き方、有るべき姿、究極の生き方を教えるものでなければならない。即ち内山老師が仰ったように、人間に「畢竟帰処」即ち「行き着く処へ行き着いた究極の生き方」を示すものでなければならない。
    しかもそれは、ある特別な人だけに可能だというのではなく、誰でもその教えを容易に実践することが可能な普遍的なものでなければならない。

    ところで、仏法は、「何者因縁」(何者は因縁なり)、即ちありとあらゆるもの(何者)が尽十方界の真実(因縁)によって「只」存在させられているという絶対的事実(尽十方界真実)である。

    故に宗教としての仏法は、我々人間にこのような仏法の真実(尽十方界真実)に目を開くことを教えると共に、自己満足追求に明け暮れる我々人間の在り方を、尽十方界の本来の在り方(生命本来の在り方)に還る事(尽十方界真実の実修実証)が本来の生き方だと教える。

    しかもこの教えの実践(只管打坐の坐禅)が、誰にでも可能(普遍的)だと言う事が重要である。
    従ってまぎれもなく仏法は真の意味における宗教であることに疑いはない。

    ところが一般の宗教は、所謂「神」の恩寵によって自分個人が救われるという人間性ないし有所得に起因する救済を主とするものが多い。
    つまり当該宗教の信者の求道は神の良い子になる為の努力であり、神に自分の誠意を認めさせて恩寵を得ようとする個人的利己主義的傾向が濃厚である。
    つまり「神」は人間のエゴイズムが創造した理想像であり、神の対立概念である「悪魔」は人間のエゴイズムに不都合な反理想像なのである。

    人類の歴史における所謂民族宗教の存在は、まさに人間の自我(エゴイズム)の象徴であり表現であると言える。
    例えば、観音様にお百度を踏んで願い事をかなえてもらうというような個人の有所得の行為は仏法とは何の関係も無い単なる習俗に過ぎない。

    特に多くの新興宗教は、人間の欲望を利用した現世利益的、非科学的なものが多い。
    或いはまた真理は一つだとして、これこそ真実だと主張する宗教も多い。つまり真実とは自分が納得のできるものと最初から決めてかかって、納得を追求し、これこそ真実だと主張するケースが多いが、そこには本人の自己満足のみがあるだけで真実はない。それは単に独善的利己主義だと言わざるを得ない。

    一般に人間は特殊な或いは異常なことに興奮したり陶酔したりする事が好きである。酒を飲んで酔いたがるのもその好例である。

    通常人間の習性として、日常の平凡無事の無聊に堪えられないのである。従って普通の人が、平凡な日常性そのもの(平常底)に無限絶対の価値(尽十方界真実)を見出して、そこに大自然の恩寵を感得する等という仏道に関心を示さないこともよく分る。

    尤も人間のものの考え方は、その人の現在の生活形態の反映であると言える。故に信仰は本来その人の生活姿勢から生まれてくるものである。

    ところで我々が僅か数十年の人生で学び経験してきた我流の知恵というものは所詮浅薄なものである。そこで自己が、本当の自己について学ぼうとする場合、他(優れた先人の知恵)から学ぶ必要がある。そしてその場合最も重要なことは、仏法について言えば、正師に随順して、その全人格を学ぶ事が第一である。

    なお仏法における「教育」とは、一般教育のように理想(自己満足)を追求することを教えるのではなく、自己満足追求の暴走を制止すること、自我の超越にこそあるのである。

    最後に、宗教との関係で、科学を絶対視する考え方について付言すると、『科学とオカルト』(池田清彦著PHP新書)の以下の見解は非常に参考になる。

    科学の重要な特徴は「客観性」・「再現可能性」(厳密な法則に基づく繰り返し現象)であると言える。
    科学はなるべく少ない同一性(法則等)でなるべく多くの現象を説明しようとする性質がある。
    科学は原理的に説明できない現象は説明できないままに放置せざるを得ない。例えば一回限りの現象或いは厳密な繰り返し現象ではない来年の今日の天気を科学は予測できないのである。
    人の脳が理解できる範囲のやり方で「自然」を全部説明しようとしても不可能である。人の脳は自然の一部であり、一部で自然全体を説明しようとしても無理が生ずる。」

    以上の見解の下線部分の言葉は、これまで度々人間が尽十方界真実を把握しようとしても不可能だということを述べてきたが、それを科学者の立場からも認めていると言える。

    なお宇宙・大自然の事実である仏法は、科学的客観性に反するものでないことは言うまでもない。

    因みに仏法と科学やオカルトとの違いは、前者は全てが尽十方界真実(全体)であり、これこそ真実というものはなく、全てそのまま真実を受け取ることであるが、後者は「原理への欲望」と「コントロール願望」を持つ点で共通している。その意味で「さとり」を求める前述「看話禅」も同様であると言える。




<仏法の常識>


 

  1. 参学の大事了畢」とは、修行者の生涯の在り方が決まること。絶対信の只管打坐の坐禅に全身心を任すことを決定すること。これを「信(信心)成就決定ジョウ」と言う。
  2. 光明蔵」とは、大自然の働き(光明)による恩寵、即ち尽十方界真実を言う。「光明蔵三昧」とは、光明蔵をそのまま正受(三昧)することであり、絶対信によって具現される。
  3. 仏受用」とは、痾屎アシ、放尿、著衣喫飯等日常は全て光明蔵で仏を頂戴している。この事実は本人が信ずると否とに拘らず仏受用の事実である。信心決定も特別なことではない。
  4. 入信」とは受戒のこと。入信は即ち後述「受戒」することでなければならない。
  5. 八九成」とは、「十成を忌む」(洞山大師の語)、即ち物事に「完全」ということは有り得ないという意。ただ八九成は八九割程度でも、「素晴らしい」という褒め言葉になる。
  6. 精進」とは、真実(道)そのものの活動のことで、「精進波羅蜜」は、「精進」そのものが「波羅蜜」即ち成仏であるということ。




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「正伝の仏法」・第1章 仏法の大意 ・12 悟

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