序説
一 はじめに
二 本当の仏法は世間に知られていない
三 仏法を可能な限り言葉で伝える
四 「心」「悟」「三昧」「解脱」は宇宙・大自然の姿を表現
五 仏法は、宇宙・大自然全体の生滅活動の事実である
六 仏法は、所謂「思想」ではない
七 仏法の真実は「真の事実」の意で、「真理」の意ではない
八 有所得の「さとり」を求める宗教は普遍宗教ではない
九 仏道修行は只管打坐(生命本来の在り方)の実践
十 自我意識を超えた坐禅の相(スガタ)(生命本来の在り方)が「仏」
十一 終りに
<仏法理解のポイント>
<本書の構成>
一 はじめに
我が国は、1990年代から21世紀の現在に至るまで、長期に亘って経済的に低迷して来たが、その影響を受けて、ありとあらゆる分野で既存の秩序や価値観が崩壊しつつあり、目を覆うばかりのモラルハザードに見舞われている。何時の間にか人々は真っ当に生きていくうえに必要なバックボーンを喪失してしまったのではないか思われる。
既に亡くなって半世紀程になる澤木興道老師の「見たい飲みたい食いたい着たい金も取りたい遊びたい」という言葉に象徴される人間の単純な欲望だけが追求される時代になってしまったとしか言わざるを得ない状況である。
また「二十世紀は人間欲望の追求だけをもって人間文化とし、人間存在のすべてだとして、これ以外は未開低級文化としている。」と仰った故内山興正老師の言葉や、故酒井老師の口癖であった「わがままの暴走族」という言葉が象徴する自己満足追求に終始する利己主義が蔓延する国に成り果てたように見える。
このようなアノミー状態が今後も続けば、恐らく我が国の未来は、少子高齢化の不安要因に加えて、必然的に衰退の一途を辿るしかないと危惧される。今このような時代状況において最も必要なのは、人々がまともに前を向いて生きていこうとする気持ちであり、それを支える何らかのバックボーンではないかと思われる。しかもそのようなバックボーンになり得るのは、私は、所謂「思想」等ではなく、宇宙・大自然(尽十方界)の真実である本当の仏法(禅)しか無いのだと痛感している。
二 本当の仏法は世間に知られていない
ところが残念な事に、本当の仏法(禅)というものが全く世間に知られていないのが実情である。それはこれ迄世間に仏法が誤って伝えられて来たからであるが、その責任は僧侶が本当の仏法を学ばず、世襲の僧侶としての葬式仏教に殆ど終始してきたからである。
しかも仏法(禅)というものは、それを学ぶためには、正師に随いて正確に学ばなければ却って邪教に堕しかねないものであり、加えて真に仏法を体得した仏道修行者が現実には非常に少なく、正師を見つけること自体が至難であるという事情があるからである。
ましてや、仏法を独学で学ぶ事は、「謝辞」で述べたように、私の経験から言っても殆ど不可能だと言っても過言ではない。
何故なら、独学の場合、仏典等に出てくる仏法の要語の意味を知ろうとして、単に仏教辞典や、国語・漢和辞典の類を引いても、本当の仏法の意味が分からないからである。
この点については、仏教学者達も仏法要語の本当の意味を全く理解していない。同様に各宗派の学僧達についても、彼等の著作を書店で瞥見する限り、仏法の基本要語の意味を殆ど弁えていないと断定せざるを得ない。
従って仏法(禅)を本当に分かろうと思えば、正に正師に随いて学ぶしか方法がないと言わざるを得ないのである。
仏法の独学が難しいのは、その要語の意味が普通の国語辞典ないし仏教辞典の意味とは根本的に異なるという事から来るのであるが、それは長い仏教史の中で、杜撰の輩が仏法要語の真の意味を弁えず、多義的・曖昧に使用してきたことに原因があると思われる。
恐らく仏教の歴史の中で、仏教者の秘密主義や権威主義が、仏法を秘事・口伝等として特権的に扱って、広く仏法の教理を公開することを惜しんで来たからであり、特に禅宗の僧は、所謂「有難がり屋」や「難しがり屋」等が多く、真の仏法を学ぶことなく、権威主義と自らの不勉強による自信の無さから、仏法の説明に際して、肝心な所を「曰く言い難し」等と逃げて来たために、本当の仏法が一般に伝わって来なかったのだと考えられる。
はっきり言って、仏法も用語の定義を明確にして説明すれば、通常人が仏法の教理自体を理解する事はそれ程困難ではない。ただ仏法が本当に難しいのは、教理ではなく、其の内容である実際の身心の修行を実践出来るか否かにあるのである。
三 仏法を可能な限り言葉で伝える
実際に内山老師が仰った通りに、「出来るだけ言葉で言える処まで言う」のが本当の宗教者の態度であるべきで、特に現代のように高等教育が進んだ科学の時代において、真の仏法を普及させるには、老婆親切をもって徹底的に論理的に説明できるところは説明するということでなければならない。このことを実際に実践されたのが、正に澤木老師の御高弟である酒井得元老師と内山興正老師の御両師である。
私の経験から言えば、『澤木興道全集』で何となく仏法というものが分かったように思えたが、実際に正確な仏法の教理を学ぶことが出来たのは、内山老師や特に酒井老師の親切な御提唱のお蔭だと言えるのである。
勿論仏法は、後述の通り、宇宙・大自然のダイナミックな事実の問題であるから、最後の所は、学ぶ者自身の資質に応じて理解するしかない。その意味で学ぶ者は、自分の思いや考えを基準にしてはならず、あくまで正師の説くことを第一に学ぶことが絶対的に重要である。
内山老師の「人間最後最高の智慧は、思いをもって思いの限界を知り、物足りぬまま、片付かぬままこれを絶対事実として知ることではないのか」という言葉は、仏法の本質を的確に表現されている。
因みに、日本曹洞宗の歴史の中で、『正法眼蔵聴書抄』や『梵網経略抄』等を著された道元禅師の高弟詮慧・経豪師弟は、上述の意味で、道元禅師の仏法を正確に伝えようとした真摯な宗教者であったと言えよう。後学の者が『正法眼蔵』等を学ぶ際、彼等の著作を参考にする事無しには、道元禅師の仏法を正確に学び得ないからである。
四 「心」「悟」「三昧」「解脱」は宇宙・大自然の姿を表現
さて一般的に仏法は精神上の問題を扱う宗教だという根本的な誤解があるために、仏典の要語等を初めから精神的・心理的な範疇で理解しようとして、本当の仏法から大きく乖離してしまう。例えば「心」「悟」「解脱」「三昧」等を人間の精神や心理上の事象を表現した言葉だと捉えてしまう。
然し本当の仏法の教えは、人間の本来の生命活動における一時の表情・風景に過ぎない「自我」即ち「精神や心理上の事象」等は、本質的な問題としては取り扱わない。つまり仏道は、私たちを生かしている宇宙・大自然の生命活動の在り方に目を開かせて、それに忠実に生きることを説くものである。
従って「心」も「解脱」も「悟」も「三昧」も、全て宇宙・大自然の生命活動の絶対的な在り方・姿を意味する言葉であって、人間の自我に起因する精神・心理上の事象とは全く関係の無い言葉である。
同様に、例えば通常の国語辞典では「否定」を意味する「無」「非」「不」「莫」等の言葉も、仏法要語としては基本的に否定の意味ではなく、大自然の絶対的な在り方・姿、即ち人間の恣意の入る余地の無い厳粛な大自然の事実を意味しているのである。
五 仏法は、宇宙・大自然全体の生滅活動の事実である
以上の事から分かるように、仏法とは、宇宙・大自然(これを「尽十方界」と言う)が絶えず生滅活動(宇宙的生命活動)を続けている無量無辺の事実全体(「尽十方界真実」)のことを言うのである。
また、我々人間はその宇宙・大自然の生命活動(尽十方界真実)から生まれ、宇宙・大自然に生かされて生きているのであるが、このような宇宙・大自然の生命活動の表れである人間、即ち脳の生理現象に過ぎない「自我意識」が発現する以前の生命体である人間の身体そのものを、仏法では「尽十方界真実人体」(宇宙の真実が人間している)と言うのである。
つまり、仏法は、所謂「思想」即ち人間の脳の生理現象である「自我」が産み出した人為的な「思考・観念(言わば脳の分泌物)」とは根本的に次元の異なる、宇宙・大自然の生命活動そのものを言うのである。
因みに「仏教」の英語訳buddhismの「イズム」(主義)は思想であって、本当の仏法即ち尽十方界真実から言えば、明らかに誤った表現である。
六 仏法は所謂「思想」ではない
他方「思想」とは、人間が自分を観察者の立場に置き、自分だけは其処から除外して自分の前に置いた頭の中の対象(観念)であるに過ぎない。我々がものを考える場合、自我の範囲だけでしか考えられない(考えられる以上の事は考えられない)という制約がある。自分の経験した範囲でしか考えられないのである。つまり自我意識そのものは脳の生理現象であり、人間生命の活動の一表情に過ぎないのである。
ところが仏法は宇宙・大自然の事実(尽十方界真実)を言うのであって、考える主体である人間そのものは、尽十方界真実(仏法)の内の一つの事実(尽十方界真実人体)に過ぎず、自らを含む仏法(宇宙・大自然)を対象として観察・記述する事は、根本的に不可能なことであり矛盾である。
同様の趣旨を構造主義生物学者池田清彦氏は、『科学とオカルト』(PHP新書)の中で次のように述べている。
即ち「科学の重要な特徴は「客観性」及び「再現可能性」(厳密な法則に基づく繰り返し現象)であるといえる。科学はなるべく少ない「同一性」(実体や法則)でなるべく多くの現象を説明しようとする性質がある。科学は原理的に説明できない現象は説明できないままに放置せざるを得ない。例えば一回限りの現象或いは厳密な繰り返し現象ではない、来年の今日の天気を科学は予測できない。」と述べた後に、「人の脳が理解できる範囲のやり方で自然を全部説明しようとしても不可能である。人の脳は自然の一部であり、一部で自然全体を説明しようとしても無理が生ずる」と。
要するに仏法は、人間の自我の所産である思想・観念とは根本的に次元の異なるものであり、宇宙・大自然(尽十方界)の真実即ち絶対的な真の事実なのである。
七 仏法の「真実」は「真の事実」の意で、「真理」の意ではない
従って仏法で言う「真実」は、西欧哲学の「真理」探究等における「それに拠って全て説明が可能な一つの根本原理」、即ち形而上学で言う「真理」を意味するものではなく、現実にこの世界で生滅するありとあらゆる真(本当)の事実のことを意味しているのである。
つまり仏法の所謂「真実」は、その時の宇宙・大自然の生命活動に於ける表情・景色(尽十方界の様相)である、と同時にその時の絶対的な動かし難い事実でもある。
ところで西欧哲学乃至思想は、ギリシャ哲学の時代から、上述の「それに拠って全て説明が可能な一つの根本原理」という所謂「真理・真実」を追求し続けて来た。これこそ正に人間の生理現象である自我の営みであり、人間の常に何事につけても納得したいという欲望追求の姿であって、何か一つの「根本原理」を求めずにはいられない習性である。しかも困った事に、人間は更にそれを振り回さず(主張せず)にはおられないという習性もある。
例えば、かつて一世を風靡した実存主義や構造主義、或いは現在批判されつつあるグローバリズムや市場原理主義等が喧伝されることを考えてみれば容易に理解できることである。
なおこの根本原理を求めるということに関しても、前掲池田氏の説によれば、「科学とオカルトは原理への欲望とコントロール願望を持つ点で共通している」とされる。
正にこの意味で同様に共通した特徴をもつと考えられるのは、所謂「さとり」を求める宗教、例えば「看話カンナ禅」(本書「坐禅」参照)である。
八 有所得の「さとり」を求める宗教は普遍宗教ではない
つまり看話禅においてさとりを求める人間は、何か「さとり」という目標(原理)を掴めば、世界が一変し、自分の思い通りに生きられるという有所得の期待や幻想がある。
然し本当の仏法は、たとえさとったとしても、別段本人の生命活動そのものとは何の関わりもないし、尽十方界真実人体そのものにおいては何とも無い。
むしろそのような有所得のさとりを求めることは、自己満足追求に終始する自我活動そのものに外ならず、後述の大自然そのままの姿を実践する本当の仏道修行(只管打坐)とは全く無縁である。
更に看話禅のように、坐禅を特別な心境になるための手段と考え、そのような心境が現れる人間しか救われないとなれば、普遍宗教と呼ぶに値しない。
これに対して、道元禅師撰述の『普勧坐禅儀』が「普く勧め」ているように、後述の「只管打坐シカンタザ」の坐禅は、特別な人だけというのではなく、誰でも只管タダ坐相を正して坐れば、大自然本来の在り方、即ち「三昧」を実践しているのであり、本当の意味での普遍的な宗教であると言えるのである。
なお本書では、看話禅(臨済禅)をしばしば引き合いに出して批判しているが、それは、元々酒井老師が若い頃、九州久留米の臨済の道場で修行された経験があり、その時のご自身の誤りと同じ誤りを後学の者が犯さないようにとの老婆心から老師が説かれたことに基づくものであって、私自身にはその経験はない。ただ私自身は、上述の特別な心理を求め、万人が必ずしも悟れるとは限らない看話禅は、通常の知性を備えた人間から見れば、論理的に明らかに普遍宗教だとは言えないと考えている。
九 仏道修行は只管打坐(生命本来の在り方)の実践
さて話を戻すと、上述のように、我々が生きている宇宙・大自然はありとあらゆるものがすべて真実即ち動かし難い真の事実なのである。例えばくしゃみ一つでも人間の意思・意欲に関係の無い大自然の働きであり、宇宙・大自然のその時の表情の一つであり、宇宙的規模のものである。更に意思・意欲を起こす働きや考える能力そのものが、人間が大自然から授かった恵みであって、個人的なものは一つもない。
以上の事から、仏法を学ぶということは、我々が主人公だと考えている自我そのものとは関係なく大自然に生かされて生きているこの絶対的事実を、好むと好まざるとに拘らず人間の論理を超えたものとして、そのまま素直に受容することである。
具体的には、大自然そのものであるこの身体を、日常の生理的習性に因る自我(エゴイズム)中心の生活ないし自己満足追求の人生から解放し、自我意識を超えた大自然本来の生命活動の在り方を努力することである。そしてその唯一の方法が、本文第一章の「坐禅」の項で詳しく述べる「無所得・無所悟」(ただ大自然に生かされて生きている在り方)の「只管打坐」の坐禅であり、その実践が仏道修行の根本なのである。
十 自我意識を超えた坐禅の相(スガタ)(生命本来の在り方)が「仏」
さて以上述べてきたことを要約すれば、我々の身体即ち「尽十方界真実人体」は宇宙の真実(「尽十方界真実」)が人体しているのであり、人体そのものは、単に人体の生理現象に過ぎない「自我意識」を超えた宇宙の生命活動の姿である。仏法ではこれを「仏」と言い、只管打坐の坐禅を行じている時の身体の在り方が仏の姿である。或いはまたこの姿ないし在り方を「悟」とも言い、「解脱」「三昧」「菩提」「覚」等とも言うのである。
ところがこの身体の生命活動の一つに脳の働き即ち「自我活動」がある。この自我活動が精神上の迷いやさとり、或いは喜怒哀楽を生み出すのであるが、所詮それらは生命活動(真の「悟」)の一表情に過ぎず、生命そのものではない。
例えば仮に川の流れを生命活動だとすれば、川面に浮かぶ波は川の流れの一時の表情に過ぎない。同様に迷いやさとり或いは喜怒哀楽等は、本人にとってその時如何に重大事であるように思えても、生命活動のその時の一時の表情・景色に過ぎない。ただし一時ではあってもその時の尽十方界の様相として動かし難い真の事実であることに違いはない。
要するに、仏道は、喜怒哀楽などの自我意識に左右されない本来の生命の在り方に還ることであり、その唯一の方法が只管打坐の坐禅だという事である。因みに道元禅師の主著『正法眼蔵』は、「尽十方界真実」乃至「尽十方界真実人体」という言葉を根本に据えて説示されたものであると酒井老師は説明されている。
十一 終りに
以上本書の序説を述べたが、最後に、「生きると言う事は、お勤めするということである。食べる事も病気する事も、苦しむことも悩むことも総て勤めを努力するという事である。即ち総てを頂いて生きることが我々の本当の生き方である。」と仰った酒井老師の言葉が、私は最近しみじみと身に沁みて感じられるようになり、この言葉によって自らを励ましながら、これからも只管打坐の坐禅と共に生きて行こうと考えている。
<仏法理解のポイント>
参考までに、仏法を理解するポイントは、まず、宇宙・大自然の大規模な生滅活動の事実とその活動の具体的な姿である身体の生命活動、そして更に身体の一部である脳の自我活動(欲望追求)等の基本的な関係を理解する事である。そして仏道は、自我の働き(欲望)に振り回されない、即ち欲望を暴走させないこと(自我を否定するのではなく、自我を超越する)が肝要である。
従って仏法に適っているかどうかは、端的に言えば、「自我意識」に汚されているか否かの問題であると言える。この観点から、酒井老師は、しばしば犬・猫を例に出されて、人間のような自我意識を持たない彼等動物の方が却って自然に忠実であると語られた。
然し終生自我から離れられない人間の唯一の救いは、死を見通すことが可能であることであり、ここから本来の生き方(畢竟帰処)を教える宗教即ち仏法を学ぶ事が出来ることであるとも言える。
次に、あらゆる事実が総て「尽十方界(宇宙・大自然)のその時の様相」であるという宇宙規模で物事を観ることが重要であり、それに慣れれば仏法を理解する事はそれ程難しくは無い。
なお自我の働きには、@自分自身を意識する事、A自分の行動を意識的に制御する事等がある。また人間の習性として「こころ・意識・自我は実体」という思い込みがある。
- 本書は「正伝」即ち「生命の本来の在り方を勤める」仏法について述べた。そしてそれが「道元禅師」の「只管打坐」の坐禅である。
- 本書の構成については以下のとおりである。
- (一)第T章
- 「仏法の大意」は、「大意」と言っても、「概略」の意味ではなく、端的の仏法という意味である。本章だけで仏法を基本的に理解することが可能だと考えている。仏法を理解するための「基本要語」及び有名な「公案」を採りあげて解説した。更に「坐禅」の実際と偏向並びに一般に解説書が皆無である「戒」について詳細に解説した。
- (二)第U章
- 「『正法眼蔵』主要巻の関捩子」は、道元禅師の『正法眼蔵』の要諦を説明すると同時に、第T章では述べなかった仏法を表現する重要な要語(般若波羅蜜・法華・仏性・因果)を説明し、同時に『般若経』及び『法華経』の内容の一部にも触れた。また『正法眼蔵』の有名な巻々の要諦について述べ、同書の入門書的役割を意図した。
- (三)第V章
- 「参究要点と常用仏法要語」は、酒井老師の仏法参究要点の言葉を掲載すると共に、『正法眼蔵』等で頻出する仏法要語について、通常の仏教辞典的解説では意味が通じ難いため、基本的に酒井老師の言葉によって記述した。
- (四)付録
- (一)「法句抄」並びに(二)「偈頌及び詩」は、日頃私が親しんで来たものであるが、読者に仏法を身近に親しんで頂くための資料として掲載した。なお(三)「伝燈仏祖法系略図」は禅を学ぶ際に必要になるので、岩波書店刊「道元上下」の巻末付録掲載のものを引用させて頂いた。