第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子

5 『正法眼蔵』の特徴的巻々の関捩子ー1





第六 「行仏威儀」巻


    「行仏」とは、「行」が仏(尽十方界真実)であり、行仏という「仏(尽十方界真実)の在り方」である。端的には「坐禅人」のことである。
    また「威儀イイギ」とは、(偉大)は(作法・かたち)であり、(作法・かたち)が(偉大)であるということで、言わば坐禅即ち尽十方界真実を行ずる姿勢のことである。つまり「修行が成仏」という事である。
    因みに『正法眼蔵』の各巻との関係を言えば、「仏道」とは、第四「身心学道」巻の「身心学道」のことであり、それは自我意識発現以前の身体の本来の在り方に還る努力をすることである(「仏道」の項参照)。
    また第五「即心是仏」巻の「即心是仏」(「心」の項参照)は尽十方界真実を修行することであり、個人の満足を求めない無所得・無所悟の修行をすることである。そしてそれが「行仏威儀」即ち只管打坐の坐禅だということになる。
    なお「行仏」という語は道元禅師独特の言葉である。




第七 「一顆明珠」巻


 

    「一顆明珠」とは、「全体が無色透明の珠」のことで、尽十方界真実を表現したものである。
    つまりありとあらゆるものはみな真実であり、あらゆる姿を現しながら生き続けていることを表現している(「尽十方界(真実)」の項の「玄沙師備の尽十方界」参照)。
    また「明珠」は「平常底」をも意味し、尽十方界真実は体験出来るものではなく「手応えが無い」ことを教えている。




第八 「心不可得」巻


    この巻で、道元禅師は『金剛経』「一体同観分第十八」「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」(「般若波羅蜜」の項の『金剛般若経』参照)の句を取上げて、所謂「徳山婆子」の公案を拈提されている。
    つまり『金剛経』の専門家を自称していた徳山宣鑑(782〜865年)が、龍潭崇信(不詳)に学ぼうとその下へ赴く途中、餅売りの老婆と出会い餅を買おうとした際、徳山が自分は「周金剛王」だと自慢したのを、老婆は逆手にとり、上記『金剛経』の句を引いて、「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得。いまいづれの心をか、もちひ(餅)をしていかに点ぜん(食う)とかする(どのこころに食べさせるのか)和尚もし道得ならんには(答えられたら)、もちひをうるべし。和尚もし不道得ならんには、もちひをうるべからず」と言った。
    ところが徳山は茫然として答えられなかった。老婆は終に餅を売らずに行ってしまったという話である。

    さて、まず「心不可得」は、「心ハ不可得ナリ、不可得ハ心ナリ」と訓む。
    そして「心」も「不可得」もいずれも尽十方界真実のことである。我々の生きている事実はただ不可得(尽十方界真実)の中で斯く生きている。人間は自我意識により、生理現象として過去現在未来のことを考える。この事実が「心」(尽十方界)の活動即ち不可得である。
    『大般若経』の注釈書『大智度論』「諸法実に無なるが故に、これを称して不可得と云う」としている。
    また「不可」とは、人間の意志意欲発現以前の生命活動の様相を表現している。つまり人間は不可得(尽十方界真実)という事実の中で、「過去現在未来」即ち「生活」を送っているのである。

    ところでこの老婆自身は、『金剛経』の「心」が、「こころ」(精神作用)ではなく尽十方界真実(宇宙・大自然の生命活動)を意味するとは知らず、『金剛経』の句を文字通り「こころは得べからず」即ち「こころは無い」、故に「過去現在未来の何れのこころであっても、こころは餅を食べられない」と考えて、得意気に徳山に難問を吹っかけた積りであった。
    これに対して単に言葉や論理だけの勉強をしただけで、正師について生きた仏法を学んでいなかった所謂「文字法師」(学問仏教の徒)の徳山は、悲しむべき事に、老婆の誤りを正すことはおろか、その誤りを看破する事すら出来なかったのである。

    道元禅師は、もし徳山が本当の修行者であったなら、老婆に対して「お前の言う(こころに食わせるような)餅しか無いなら、(私が食える)餅を私に売ることはできない」ぐらいは言えた筈である。
    またもし老婆も本当に仏法が分かった人物であったならば、茫然自失の徳山に何か然るべき言葉を言い得た筈であったが、何も言わずに去ってしまったのは、得道の人物ではなかったと批判される。
    言わば、「心」も「餅」も「点ずる」ことも、すべて心不可得(尽十方界真実)であり、過去現在未来のどの心(尽十方界真実)も完全無欠であり、点ずる(食う)とか点じないとか言えないということである。

    以上を再説すると、「不可得」とは尽十方界真実のことであり、我々の生きている事実はただ不可得の事実である。即ち不可得の中に只このよう(「只麼シモ」)に在り得ているのである。
    大自然の如何ともし得ない絶対的なあらゆる表情が、「心」(尽十方界真実)の在り方である。

    因みに『正法眼蔵』七十五巻本において、「心不可得」巻の直前の巻が第七「一顆明珠」巻であるが、「心不可得」巻は「一顆明珠」(尽十方界真実)を継承した説示になっている。
    即ち「心不可得」の巻は、「心不可得」という語を通して、我々の本来在るべき生活態度は現実をただそっくりそのまま頂くこと、即ち具体的には只管打坐を行ずるべきことを説示している。

    ところで日常生活の在り方(平常底)に関連して言えば、趙州の有名な次の言葉がある。
    即ち 或る僧が、趙州に「十二時中如何用心」(毎日の修行は如何あるべきですか)と尋ねた。
    趙州は、「諸人十二時に使得せらる、老僧(趙州)は十二時を使得す」
    (普通の人は自我生活に振り回されるが、私(趙州)は尽十方界真実(人体)を実践する)と答えた。

    なお「不可」とは、上述のように人間の意志意欲の発現以前の生命活動の様相であるが、「」のみならず、「」や「」ということも、人間生活の契機である「意志意欲的行動の発端」である。
    そして「この発端」を「不可」することは、即ち「得ること」も、「取ること」も「捨てること」も、それを否定することでは無く、発端を発端としない大自然の絶対的なことである。
    即ち「不可(絶対的)の得」、「不可(絶対的)の取」、「不可(絶対的)の捨」である。

    また不可得同様「無所得」も大自然の全てのものの「本来の在り方」を表現している。我々は本来「無所得」に生かされている。
    これを仏法では「空劫以前」「父母未生以前」「威音王那畔」「朕兆以前」等と表現している。いずれも尽十方界の実相、人間の意志意欲を超えた次元、感覚体験で把握できない尽十方界真実を表している。
    要するに「有所得」(意志意欲のあり方)は「無所得」の光明(宇宙・大自然)の中での生活であるに過ぎない。
    つまり「有所得」はその時々の一時的な「生命活動の表情」であり、どのような大きな波も収まらなければ収まらないと同様に、どのような「有所得」も消えなければならない。
    無所得の光明の水面には、常に有所得の小波が漂っている。小波は水面の表情、日常であり、後述「家常(平常底)」である。




第九 「古仏心」巻


    「古仏心」とは、古仏(ありとあらゆる事実)は心なりで、心即ち尽十方界真実のことである。古仏心の事実が「牆壁瓦礫ショウヘキガリャク」(平常底)である。つまり日常の些事でもすべて尽十方界真実であるということである。
    実践面から言えば、日常生活に本来の自己(無所得・無所悟)を見出す真実実践の修行のことである。
    なお「古仏」とは、目前に展開しているありとあらゆる事実のことであり、「古」とは、本来の姿、永遠に変わらぬ事実、無量無辺を意味している。 


 



第十 「大悟」巻


    「大悟」とは、「大」は「摩訶」即ち比較を絶した尽十方界真実そのもの、「悟」も尽十方界真実のことである。つまり「大悟」とは尽十方界真実のことであり、我々は大悟の中で生かされて生きている(「悟」の項参照)。

    さて、洞山の弟子である華厳休静大師(不詳)に、或る僧が、「大悟底人郤カエッテ迷時如何」、即ち「大悟底の人(尽十方界真実人体)が迷う時は如何か」と問うた
    つまり俗に一度悟った者は迷わないのではないかと考えられている事を踏まえての質問であろう。
    しかしこの質問(如何)は既述の通り、質問が同時に答でもある。つまり大悟底人(尽十方界真実人体)は如何なる時も「郤迷」即ち「真実を表現」(生命活動)している、或いは如何なる状態も(どんな生命活動の表情)も大悟底人(尽十方界真実人体)の在り方だということである。ここで「郤迷(迷い)」とは、その時の尽十方界真実人体ないしその時の尽十方界の在り方である。
    既に「悟」の項で述べたように、「迷・悟」は人間の自我意識であって、人間の生命活動の表情に過ぎない。
    「大悟」は、尽十方界真実人体そのもの(「本来成仏」)であり、自我を超越した人間の生命そのものである。

    以上の僧の問いに対し、華厳休静は「破鏡不重照、落花難上枝」(破れた鏡は重ねて照らさず、落花は枝に上り難し)と言った。
    つまり「破鏡」も「落花」も二度と元に戻る事は無い、即ち宇宙の生命活動は後戻り無し(仏向上事)ということであり、常に真実で完全(「正法眼蔵涅槃妙心」)である。
    即ち生きている現実の姿・在り方が「大悟」ということである。
    従って我々は絶対的事実である尽十方界真実(現実)を素直にそのまま頂かなければならず、それが仏道修行である。




第十四 「空華」巻


    「空華」とは、通常の意味は「眼病のちらつき」の事を指す。ところが道元禅師はこれを「法華」と同義に用い、ありとあらゆるものが真実であり、世界はその真実の華盛りであることを表現されている。
    つまり「空華」は尽十方界真実の表現である。勿論「」は、尽十方界真実、既述「般若波羅蜜」のことである。
    エイ眼空華」(眼のかざしが真実)とは、は絶対的な現実の有様のことで、現実の生命活動の真実のことである。
    また「空華乱墜(ちらつき)」とは、人生上の種々の景色は尽十方界真実人体(生命活動)の表情に過ぎないが、その時の尽十方界の絶対的な真実の様相でもある。
    なおこの巻は割愛した第十三「海印三昧」巻(只管打坐の内容)の補足的な巻である。




第十六 「行持」巻


    「行持」とは、仏道修行、尽十方界真実の実践である。
    「行」は、仏行であり、個人的な修行ではない。「持」は、真実(実相)の総持、即ち尽十方界真実を持つことである。端的には只管打坐の坐禅の実践である。
    この巻は、三十四人の祖師の宗教生活(行持)の例を挙げた『正法眼蔵』の中で一番長い巻である。
    つまり本来行持が無ければ宗教にならない。生活全体、全生涯をその宗教に投げ入れることであり、単なる思想との相違である。

    この巻の冒頭の以下の言葉は「行持」の本質・在り方を説示している。
    「仏祖の大道、かならず、無上(無所得・無所悟)の行持あり、道環して断絶せず。発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり。このゆゑに、みづからの強為ゴウイ(強制・無理)にあらず、他の強為にあらず、不曾染汚(自我の放棄)の行持なり。」 
    つまり、仏祖の修行即ち尽十方界真実の実践は、目的や終局の無い無所得・無所悟の修行であり、尽十方界真実は始終がない。発心・修行・菩提・涅槃も修行の階段・階梯ではなく、それぞれ尽十方界真実人体のその時々の様相(在り方)であるに過ぎない。
    何故なら身体自体は常に生命活動を続けているからである。従ってただ恵まれた自然の在り方を忠実に行ずるだけである。人間の意欲活動には無理があるが、自然(尽十方界)には無理は無い。常に自己満足の追求を放棄した真実の実修実証を行ずるだけである。

    以上が行持の実態を述べたものであるが、上記の「道環」の語は、「道は環なり、環は道なり」ということで、「完成始終なし」ということであり、宏智禅師の偈「道は環中に適カナう」という言葉に由来する。つまり尽十方界は、人間を喜ばせたり満足させたりしないし、完成、終り等も無いのである。

    なお「行持」の大綱は、釈尊入涅槃の時説示された八カ条の大人(仏)の真実(覚)即ち「八大人覚」(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)に尽くされている。
    少欲」とは生命活動を維持するために恵まれている欲。
    知足」とは自己満足追求を止めること。
    楽寂静」とは平常心是道(何とも無し)に徹すること。
    勤精進」とは尽十方界真実の実修実証、坐禅。
    不忘念」とは菩提心(自己の本来の姿)を心がけること。
    修禅定」とは只管打坐。
    修智慧」とは自己満足を放棄し、現実を素直に受け取ること。
    不戯論」とは思想や主義を主張したり振り回したりしないこと、である。

    因みに「超仏越オツ」という語があり、目標無し、不染汚(自我の超越)という意味である。また「師を超えて師の法を継ぐに耐えたり」「師の口写しは師の徳を減ず」という言葉もある。
    なお撰述が「行持」巻より後の第十五「光明」巻を「行持」巻の前に置いている。「光明」巻大自然の働きの恩寵(尽十方界真実)を説き、ありとあらゆるものが「光明」であると説く。




第十八 「観音」巻


    「観音」とは、「自未得度先度他」即ち「己未だ度らざる先に一切衆生を度さんと願う」菩薩であるため、永遠に成仏することがない(自己の成仏放棄・自己満足追求無し)。つまり一切衆生が全て「自未得度先度他」の菩提心を発すことを誓願するほとけである。言わば観音とは、尽十方界真実即ちありとあらゆる大自然の働きや恵みを表現したものである。

    この巻の冒頭は、観音に関する薬山門下の兄弟弟子雲巌と道吾の以下の問答を取上げて、観音の本質を説示している。

    雲巌が「大悲菩薩(千手観音)用許多コタ(沢山・不確定)手眼(身体全体)作麼(真実)。」(千手観音は沢山の手眼(体全体)で作麼ナニするのか)、即ち日常の修行はどうあればよいのかと道吾に問うた。当然疑問詞「作麼ソモ」は「真実」を意味しており、質問が即ち答(問所の道得)であるから、「何でも」と訓む。「その体全体で千手観音(大自然)は何でも(あらゆる働き・真実)やっている(本来救われている)」という事を述べた。つまり身体の真実(尽十方界真実人体)を修行することが本当の修行の在り方だという事である。なお「許多の手眼」とは、日常の生命活動の実態を表すと共に「平常底」の修行(自我の超越)の仕方(只管打坐)を表現している。

    これに対して道吾は、「如人夜間(目標無し・感覚以前)背手(不確定)摸枕子(生きようとする)。」(人の夜間に背手(手をうしろに)して枕子チンス(欲求)を摸する(探り求める)が如し)と言った。つまり人間の日常の姿は、具体的にははっきりしないが何か活動している。言い換えれば、感覚以前の本来の生命活動の実態は身体全体が働いているのだ、即ち観音(大自然)の恵みで生かせて頂いているのだと言った。

    すると雲巌は、「我会也、我会也。」(我会せり)、即ち「大自然に生かされている本当の自分が分かった。有り難いことだ」と言った。「会」は、分かる・理解するということであるが、ここでは、生きていること、自然しているという意味である。因みに「会」ということには、「会」(理解)と「不会」(黙ってそっくりそのまま頂く)がある。

    そこで道吾が、「汝作麼生ソモサンカエス。」(貴方はどのように分かったのか)と問うた。然し疑問詞「作麼生」は、「如何なるものでも」即ち現実をそっくりそのまま全部ということであり、「会」は「分かる・受け取る」ということであるから、結局「その通りだ。現実をそっくりそのまま全部頂くことだ」と言った。

    雲巌は答えて、「遍身(体全体)是手眼。」(体全体が働いている)と言った。

    すると道吾は、「道イウコトハマタ太殺ハナハダイウタダ道得八九成ハックジョウ。」(甚だよく言ったが、八九割程度しか言い得ていない)と言った。ただ「八九成」とは、八九割の出来、即ち十割の完全な出来ではないが、洞山に「十成を忌む」という言葉がある。つまり人間の表現や行為(修行)には、これで完全(目標達成)という終りは無く、常に「八九成」という進行形であり、八九成も出来れば良く出来た方だという事である。

    更に雲巌は、「某甲ソレガシ祇如此、師兄スヒン作麼生。」(私は今言ったとおりであるが、貴方はどうなのか)と逆に道吾に問うた。

    道吾は「通身(体全体)是手眼。」(身体全体が働いている)と雲巌の「遍」身を「通」身に言い換えて答えた。同じことであるが、敢えて「遍」だけでなく「通」という言い方もあると言ったのである。

    因みに『観音経』に、「応に三十三身を以って度すことを得べき者には、観世音菩薩は夫々三十三身を現して、為に法を説く」とある。例えば「応以仏身。得度者。観世音菩薩。即現仏身。而為説法。」(応に仏の身を以って度スクうことを得べき者には、観世音菩薩は即ち仏の身を現して、為に法を説くなり)である。つまり現実には種々の姿(第十七「恁麼」巻の所謂「恁麼」の事実)があるが、皆尽十方界真実(成仏)の様相である。身体はどんな状態でも尽十方界真実(尽十方界真実人体)であるということを表現している。即ち元気な時も、病気の時も、喜んでいる時も、悲しんでいる時も、さとった時も迷った時も、全部身体(生命)の真実の姿である。
    また「現身度生」という言葉があるが、「本来成仏」即ち生かされて生きているということを意味している。「現身」は「度生」、即ち「生きている身体の事実」は「救われ・恵れている(絶対的)」であるということである。




第十九 「古鏡」巻


    「古鏡」とは、「正法眼蔵涅槃妙心」即ち完全無欠の尽十方界真実のことであり、「本来成仏」のことである。
    既述のとおり、「生命そのもの(尽十方界真実人体)」と「その生命活動の様相(喜怒哀楽の自我)」の実態を、「川の流れ」と「波」に喩えて述べたが、同様に「」が「生命そのもの(川の流れ)」であり、「鏡に映じている事実(現実)」が「生命活動の現象(波)」であるということである。つまり尽十方界(宇宙・大自然)の在り方(無始無終の生命活動)が「古鏡」に喩えられるのである。
    但し「」とは本来の姿、永遠に変わらぬ事実を言う。即ち常にあらゆるものが活動・変化している事実自体は永遠不変の事実であり、これを「」と言う。
    要するに「古鏡」とは、絶え間ない大自然の生命活動の実態であり、生命そのものが現在の環境に順応しながら生きていく生活現象を指す。それはその時その時の尽十方界の様相であり、尽十方界の真実の表情を表現している。
    言わば「」は、例えば後述の「胡来胡現、漢来漢現」(胡人が来れば胡人を現し(映し)、漢人が来れば漢人を現す)と言う言葉で表現されるように、来現するものすべてを映し(受け入れ)適応していくことができ、しかも映しても痕が残らない(その時だけの景色)。
    即ち「」はその時々の尽十方界の様相或いは尽十方界の生命活動の実態を表現している。
    また「」は、「すべてをそのまま頂く」という「現成公案」の修行の在り方をも意味している。

    因みに「円鏡」とは我々が何とも思わずに生かせてもらっていること、
    宗鏡」とは根源のこと、
    宝鏡」とは最も大切な物、真実の現れを表現している。
    また「大円鏡智」とは無条件に全てを頂いている尽十方界真実人体の姿を意味している。
    なお「形と影」ということについて、自分の姿を知るのは鏡に映って初めて判るということがある。

    この巻は、第十八祖伽耶舎多尊者の話等多くの古則を拈挙しているが、雪峰義存と玄沙師備の古鏡、明鏡等に関する問答を紹介する。

    雪峰真覚大師、あるとき衆にしめすにいはく、此事(生きている現実)を会(会得)せんと要せば、我這シャ(自分が生きている事実)一面の古鏡の如くに相似たり。胡来胡現し、漢来漢現す(千変万化)
    時に玄沙出でて問ふ、「忽ちに明鏡来に遇う時如何。」
    (古鏡に曇りのない鏡即ち明鏡を遇わせたら如何) 
    (雪峰)云く、「胡漢倶に隠る。」
    (対象が無くなり映像が消える)
    玄沙云く、「某甲即不然。」(私はそうではない)
    峰云く、「ナンジ作麼生。」(あなたは如何だ)
    玄沙云く、「請ふらくは和尚問ふべし。」(和尚私に問うてみてください)
    峰云く、「忽ちに明鏡来に遇う時如何。」
    玄沙云く、「百雑砕
    スイ。」(区別がなくなり、活動のみある)

    以上の問答において、「明鏡」とは、本来の生命の在り方即ち「尽十方界真実人体」の事である。また「古鏡」は自我活動を含む人間の生活活動であり、「明鏡」は自我活動の休止ないし自我を超越した本来の生命活動(例えば睡眠中の身体等)である。
    ところで鏡そのものは「物を映す」という「働き」があるだけで「自らを映す」ということがない。
    従って「鏡」と「鏡」が対した時は、映す対象が無いから映像が消える。
    これが本来対象を求めない
    即ち自我を超越した尽十方界真実人体の在り方であり、正に無所得・無所悟の只管打坐の坐禅の実態である。
    また「倶に隠る」(倶隠)とは全てのものはどんな現象があっても「消滅」するという生命活動の在り方を表現している。
    更に「百雑碎」とは、「明鏡」と同様、「本来の姿」即ち自我活動が休止した純粋な生命活動のことであり、色々の現象(自我活動)が消え、自我における区別がなくなることである。
    ただし「来現」(物を映す)の働きはある(活動のみある)。この働きを既述の「正念」(「坐禅」の項の「念(正念、無念)」参照)とも言う。要するに「明鏡・百雑碎」(生命現象)の中に「古鏡」(生活現象・その時々の現象)がある(古鏡している)と言える。

    なおこの巻は、六祖が五祖の黄梅山に参じた時、後に六祖の弟子荷沢神会から「北宗禅」として批判された神秀大通禅師(中国の正式の禅師号の最初606?〜706年)の偈に因んで作った六祖の偈を紹介している。
    つまり神秀の偈は、「身是菩提樹。心如明鏡台。時々勤払拭。莫令惹塵埃。」(身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭し。塵埃を惹かしむること莫れ)というものであり、「身体は真実(菩提)そのもの、心は清浄で明鏡のようである。不断に修行して五欲煩悩に曇ることなく、(自分は)すべてはっきり見ることができる」という意味である。この偈自体誤りではないが、何か主張すべき実体があるような錯覚を起こす危険性がある。
    これに対して、六祖の偈は、「菩提本無樹。明鏡亦非台。本来無一物。何処有塵埃。」(菩提本モト樹無し。明鏡も亦台に非ず。本来無一物。何れの処にか塵埃有らん)というものであり、「これこそと振り回す(主張する)ような或いは求めるような真実(菩提)や立場(台)等無し、身体だけでなくあらゆるもの(大自然(無)の全(一)物)が真実であり、捨てるようなゴミ(煩悩)等何処にも無い」という意味である。
    なお第三句が「本来無一物」ではなく、「仏性常清浄(不染汚)」(すべて絶対的、真実そのもの)という句だという説もある。

    なお参考までに、中国禅宗の南北問題を如何に簡単に述べる。
    つまり唐の玄宗皇帝時代(732年)に、六祖大鑑慧能の弟子荷沢神会は滑台の大雲寺で「無遮大会」(道俗を選ばぬ公開の大法会)を設け、「北宗」代表の崇遠法師に宗論(「滑台の宗論」)を挑み、「南宗」の祖達磨の仏教(如来禅・頓悟禅)の正系を承ける者は六祖慧能であり、「北宗」(段階的漸次的な坐禅方便説。開創は法如崇山を中心に長安、洛陽方面で活躍、唐室の帰依と保護を受けた)はその傍系に過ぎないと難じた。
    神会没後、慧能の伝記や思想を語る『六祖壇経』『宝林伝』等の出現により、慧能滅後百年近い頃「西天二十八祖、東土六祖」の地位が確立する(『講座禅・第三巻禅の歴史』「中国禅宗史」(7〜108頁)柳田聖山 筑摩書房刊参照)。

    話を元に戻し、雪峰と玄沙の以下の問答を紹介する。

    雪峰、示衆に云く、世界闊ヒロキこと一丈なれば、古鏡闊こと一丈。世界闊こと一尺なれば、古鏡闊こと一尺。
    時に玄沙火炉を指して云く、「且
    シバラク道へ、火炉闊こと多少ぞ。」
    雪峰云く、「古鏡闊に似たり。」
    玄沙云く、「老和尚、脚跟未だ地に点ぜざること在り。」

    以上を解説すると、雪峰が門下の大衆に、「自分が生きている世界と古鏡即ち自分が生きている事実の規模は同じである」と説示した。
    すると玄沙が火炉を指して、「ちょっと火炉の規模を言ってみてください」と言った。
    雪峰が「古鏡(自分の生きている事実)と相似だ」と言った。
    玄沙は「貴方(老和尚)は脚が地に点いていない(古鏡が身についていない)」と言った。
    つまり雪峰が示した「古鏡闊一丈、世界闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺」は、我々の生きている規模が宇宙の規模と同じであって、我々のすることなすことが「尽十方界真実」だということである。
    また玄沙が「火炉闊多少」(火炉の構造はどんなものだ、火炉の在り方も様々である)と問うたのは、火炉という具体的な物によって真実の在り方を問うたのである。
    特に「闊多少」という「疑問形」は、仏法の常識として「尽十方界真実」というものは、簡単に決め込み、片付けられないことを示している。
    更に玄沙の問いに答えた雪峰の「似古鏡闊」(我々が生きている事実と同じだ)に対する「老和尚脚跟未点地在」は、玄沙が雪峰を一見批判したように見えるが、本来尽十方界真実の修行(宇宙の生命活動)は時々刻々のものであり、此処だと決める足場や到達点がなく、固定的に脚を下ろすこと等出来無い。つまり老和尚(雪峰)の修行は、無所得・無所悟の仏祖の修行の在り方を外れたものではないと肯定したのである。
    以上で「古鏡」巻の要点を述べたが、前巻等との関係を述べると、第十七「恁麼」巻は、「仏法」の項で説明した「恁麼」(何:疑問詞、石頭希遷が最初に使用)について説示しているが、既述のとおり、恁麼とは仏法そのもの、尽十方界真実、生ナマの事実を表現している。
    この恁麼の事実がありとあらゆる姿となって表れていることを説いているのが「観音」巻であり、その「観音」巻の事実が古鏡の事実として表れるということになる。




第二十 「有時」巻


    この巻は、道元禅師の仏法を学ぶ上で非常に重要な巻である。
    まず「有時ウジ」とは、尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の一時的具体的な相・姿(仏性)であり、正法眼蔵涅槃妙心(尽十方界真実)の実態である。つまり宇宙全体の具体的な在り方が「有時」である。
    即ち「」は「」と同義である。要するに「有」とは、事件(法)であり、ありとあらゆるものの生きている姿、存在である
    「存在(有)」とは、あらゆるものの生命活動の姿・形であり、その姿・形を常に努力(「諸行無常」と言う)している「時」の姿(相)である。
    例えば、奇異な表現と思われるだろうが、石は石のかたちを努力(四大因縁和合)して石しているのであり、その努力している実態が「時(心)」のすがたである。
    従って仏法には「物体」という概念はない

    さて、この巻は、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」(時の姿が存在であり、あらゆる存在はすべて時の姿である)と説示している。
    そして「丈六金身(仏)これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明(真実は絶対的)あり。いまの十二時に(日常生活の現実において)習学すべし。三頭八臂(人間の欲望の姿)これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時(現実の生き方)に一如(そっくり)なるべし」と「時」の具体的な在り方を示すと共に、全てのものにおいて真実の絶対性を学ぶべき事が説かれている。

    因みに「十二時中不依倚フエイ一物」(日常生活の中で尽十方界真実の実践を完結させていく)は同趣旨の言葉である。
    更に、「われを排列(尽十方界自己)しおきて尽界(尽十方界)とせり(誰でも尽十方界真実を生きている)この尽界の頭頭物物(尽十方界の物物)を時時(生き続けている事実)なりとチョ見す(つかむ)べし。物物の相礙せざる(各々が尽十方界真実存在として絶対的)は、時時の相礙せざる(皆尽界として生きている)がごとし。このゆゑに、同時発心(尽十方界真実の修行)あり、同心発時(心に同ずる修行)なり。および修行成道もかくのごとし」とあるのは、「我と大地有情同時成道」という釈尊の悟り(「悟」の項の釈尊の悟道参照)の内容と同趣旨を述べたものである。
    そして、「われを排列してわれこれをみるなり(我々の活動は尽十方界を見ているようなもの)自己の時なる道理(尽十方界の様相・動き)それかくのごとし。恁麼(尽十方界真実)の道理なるゆゑに、尽地(尽十方界)に万象百草(あらゆる形態)あり、一草一象(どんなものも)おのおの尽地にある(尽十方界を生きている)ことを参学すべし」ということになる。

    なお注意を要するのは、「時」は「時間」とは根本的に異なる事である。既述のとおり、尽十方界(真実)に「時間」の概念は無い。何故なら宇宙・大自然に「主人公」は無く、「期待」するものが無いから無時間である。時間の概念は人間の自我(欲)から生まれたものである。
    即ち人間は未来を考え、未来を期待し結果を待つ。どの位待つのかということから時間を考え、時計を持つようになる。
    従って人間のような自我を持たない動物達に時間は無い筈である。

    ところで、この巻は、我々が考える「過去」や「未来」は現在における脳の働き(心識)が展開する概念に過ぎないことを教えている。過去を問題にする事も「現在(而今ニコン)」の有時のすがたであって、「過去の時」が今有るのではない。しかも「現在(今)」というものに時間的長さは無い。言わば無の一点とでも言うべき「時」の姿(相)である。従って現成公案の世界においては、ただ「如是(真実そのもの)」という尽十方界の在り方だけである。

    この巻の本文は、「松も時(尽界の姿)なり、竹も時なり。時は飛去(過ぎ去る)するとのみ解会(理解)すべからず。…(中略)…要をとりていはく、尽界にあらゆる尽有(尽十方界の活動・事件)は、つらなりながら(形を努力している)時時(時の姿)なり。有時(尽十方界の活動のすがた)なるによりて吾有時(吾という自己が存在する)なり」と説いている。
    更に続いて、「有時に経歴キョウリャクの功徳(働き・真実)あり。いはゆる、今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日へ経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆゑに。…(中略)…自他(私も貴方も)すでに時(生命の事実)なるがゆゑに、修証(真実の実践)は諸時(生命活動)なり」と述べている。

    つまり「経歴」とは、現実に生き続けている事実、形を努力し続ける事実ないしそのような在り方のことであり、端的に言えば「刻刻常に今今」という時の在り方のことである。
    要するに経歴とは「現成」(現実そのままが完全な真実)のことであり、有時(宇宙の生命活動)ということである。
    「今日より昨日に経歴す」とは、現実に有時(生命活動)している事実によって昨日もあった、現実に有時している事実を昨日やっていたということである。
    そして「いま世界に排列(目前に展開)せるむま(馬)ひつじ(羊即ちあらゆる事実)をあらしむるも、住法位(全てのものの在り方)の恁麼なる昇降上下(差別・区別の真実)なり。ねずみも時(真実)なり、とらも時なり。生も時なり、仏も時なり。…(中略)…尽時を尽有(あらゆる存在はすべて時である)と究尽するのみ、さらに剰法(余分なもの)なし」と説示している。
    「住法位」とは、全てのものは大自然に生かされており勝手に存在しているのではないという事である
    また「究尽」とは完全無欠なる尽十方界真実という事を意味する。
    (なおこの後の本文は割愛する。)但し割愛した本文中に、「尽力経歴」という言葉が出てくるが、「尽十方界の活動」即ち「生き続けている」という意味である。

    因みに「百尺竿頭進一歩」という言葉について言えば、「百尺竿頭」(百尺の竿の先)とは「常に現在」にある今、自己は常に「今」に生きているということである。つまり日常の自分の自己意識を考えてみれば分かる事であるが、目覚めた時が今、何事をなす時もそのなす時が今であるという事実を述べた言葉である。しかも「今」は、時間空間以前、無限絶対、人生問題(自我意識)以前の事実である。
    また「進一歩」とは、個人的な自我に生きるのではなく、尽十方界の真実を生きることである。
    従って「百尺竿頭進一歩」とは、尽十方界真実の実修実証即ち只管打坐の坐禅を行ずることである。




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