第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子

5 『正法眼蔵』の特徴的巻々の関捩子ー2





第二十一 「授記」巻


    「授記」とは、「仏に成仏を保証される事」であるが、要するに自己本来の在り方(尽十方界真実人体)を頂いて生きている事実即ち「本来成仏」を指している。ところで、この言葉は小乗仏教には無い言葉である。
    つまり大乗仏教(『法華経』)の根本理念である「本来成仏」(尽十方界真実に生かされて生きている事実)の上に成立した言葉であり、我々の「生命の実態」を宗教的に掘り下げた言葉である。
    「本来成仏」という事は、大乗の修行者の修行を支える根本契機であるが、それは論理的に「修証不二」(修行は同時に証悟である)の「只管打坐」に帰結する。
    即ち只管打坐に徹して本来成仏を実践する処に「授記」の事実が現成するのである。
    また「授記」のお蔭で「菩提心」を発すことが出来る。即ちエゴイズムを捨てて本来の自己に還ることが出来るのである。
    なお「有時」巻との関連で言えば、「有時」巻で示された宇宙・大自然の実態を、如何に受け止めて我々は生きていくべきか、修行していくべきかを説くのが「授記」巻である。

    この巻の冒頭は、まず「仏祖単伝の大道は授記なり」と述べている。
    「仏祖」とは、「全自己の仏祖」のことであり、全自己(尽十方界真実人体)が仏祖(尽十方界真実)であるという意味である。
    「単伝」とは、誰もが尽十方界真実を生きている事実に目覚め、自我意識発現以前の身体本来の生命の在り方を実践することである。
    即ち全自己を修行する事である。

    そこで、この巻は、「得授記ののちに作仏すと参学すべからず。作仏ののちに得授記すと参学すべからず。授記時に作仏あり授記時に修行あり」と説示する。つまり授記を得てから成仏するとか、成仏してから授記を得る等と考えてはいけない。
    「授記」は「真実を頂いている」という意味であり、この場合の「時」は、所謂Whenではなく、「〜ということは」と訳し、全体として「真実を頂いているということは、作仏即ち自己の本来の姿であり、修行即ち生命活動そのものである」という意味である。
    言わば、「授記」(尽十方界真実)のもとに「修行」(生命活動)が確保され、「無所得・無所悟」(只生かされて生きている)であり得るのである。
    従って「授記」が「成仏」(本来の在り方)の契機であり、「授記」があってこそ「修行」がそのまま「成仏」である「修証一如」の現成もあり得るのである。
    即ち自分勝手にさとったものではないということであり、ましてや目的と努力の関係等ではないという事である。
    要するに、「尽十方界真実の実態」は、「授記」によってのみ「成道」(本来の在り方)への道を自覚する(成道への契機としての授記)。
    しかも「授記」は契機としての意味を超えてそのまま「成道」と同義となる(授記は本来の自己の現成)。
    こうして「授記」時にのみ「作仏」と「修行」があるということになる。 
    そして「まさにしるべし、授記は自己を現成せり、授記これ現成の自己なり」(本文)という結論が導かれる。
    つまり「授記」(尽十方界真実)によって「自己」(尽十方界真実人体)というナマの現実(現成)を生きており、授記はナマの現実の完全な自己であるということになる。

    更に上記本文に続いて、「このゆゑに、仏仏祖祖嫡嫡相承せる(仏道)は、これただ授記(生命は全部頂いたもの)のみなり、さらに一法としても授記にあらざるなし(全部授記)」と示される。
    つまりこの説示は、「授記」が「嗣法」(法を嗣ぐ)と異名同義だということを表している。
    「嗣法」とは、仏祖の仏法を相承することであるが、仏道における相承嗣法には伝授すべき「技術」はなく、無所得無所悟の只管打坐の実修に裏打ちされたものであればよい。
    しかもこのような嗣法の事実は授記の現成するところにのみあり得る。また「嗣法」の実態は、「面授」(仏法の真実が目の当たり授けられる(伝わる)事)即ち「師弟の信頼と一体性」に基づく仏法の伝授にあるとされるが、それは「只管打坐」(自我の超越)において初めて現成する。
    従って「嗣法」ということは、単なる観念や「化儀化法の儀式」ではないという事を知らなければならない。

    このことを『正法眼蔵』「嗣書」巻では、「仏の印証をうるとき無師独悟(単伝、只管打坐)するなり、無自独悟(只管打坐)するなり」と述べている。
    初めにも述べたように、大乗経典は「授記」の上に成立した。『法華義疏』巻八「授記品」は、「授記は既に是れ法華の要義なり、亦是れ衆経の大宗なり」と述べている。
    なお『法華経』の「一乗」「授記」という概念が発展して、『涅槃経』の「仏性」が生まれたのである。




第二十三 「都機ツキ」巻


    「都機」とは、「月」の意味で万葉の書き言葉である。つまり広大無辺の宇宙の実態、即ち尽十方界真実のことである。
    宇宙全体が「心月孤円」(月は心で完全無欠)であり、仏性光明(宇宙の生命)の輝き(生き続けている)であることを表現している。
    なお第二十二「全機」巻を割愛したが、都機の「都スベテ」は「全」と同義で、都機は「全機」と同義である。いずれも同じ尽十方界真実の働きを意味している。

    さて「都機」巻は、我々の常識的な判断や物の見方を批判し、真実は「直観」するものであるという非常に重要な説示がなされている。
    要するに、『円覚経』「釈迦牟尼仏、金剛蔵菩薩に告げて言く、譬へば動目の能く湛水を揺がすが如し(目が動いていると静かな水も動いて見える)、又定眼の猶火を廻転せしむるが如し(火がついた棒を廻すのを見ると火が回転していると思う)。雲駛ハシれば月運メグり、舟行けば岸移る、亦た復た是の如し」を引用して、雲と月、舟と岸はその時の尽十方界の様相として一体であり、対立したものではないと説いている。
    つまり如何いうことかと言えば、「ナマのままの感覚(現実)」をそっくりそのまま受け取ることが大切であり、「認識の為の置き換え」はいけないという事を説いている。
    即ち我々は通常「直観」した後、それを本に考え判断する。
    例えば舟に乗って岸が動いて見えるとき、それはそのまま岸が動くと見ればよい。直接見たままでよい。それに何らかの判断を加える必要はない。
    「そう見える」ように我々人間の「感覚」は恵まれている。(因みに『脳はなぜ「心」を作ったのか:「私」の謎を解く受動意識仮説)』前野隆司著ちくま文庫88〜92頁参照)
    ところが我々は素直にそのまま受け取らず、自分のそれまでの経験・知識によって覚えている概念に一度置き換えて納得し、自分の理解を作り上げている。
    言い換えれば、判断されたものは、本来のものから変容されて、真実と異なったものになってしまっている。
    つまり「尽十方界真実は直観するものであって、探し求めるものではない」ということを教えているのである。




第二十四 「画餅ガヘイ」巻


    「画餅」とは、「画に描いた餅」のことであるが、通常は実際の役に立たないという意味に使われる。
    ところが道元禅師は、香厳智閑が言った「画餅不充飢」(画に描いた餅は飢を充たさず)という言葉を採りあげて、仏法を表現した言葉として説示される。
    つまり画餅は、先述の「空華」と同様、尽十方界真実の様相だと捉え、「諸法実相」と同義であるとする。
    即ち「餅」を「描いた時」は、その時の「尽十方界の様相」であり絶対的事実である。
    全てのものは尽十方界に描き出されたものであるというのであり、「画図」は修行である。
    そして「」ということは自然現象、即ち活動しつづける大自然の生命の事実である。
    不充飢」という事実は、宇宙・大自然の生命活動であり尽十方界真実である。
    即ち「永久に満足無し」、これで良いという事無しという尽十方界の「無量無辺の生命活動」を表現しているのである。
    要するに「飢る」ことは、「画餅」即ち満足無し、常に努力し続けているということである。
    人間は満足を追求するが、満足が「救い」ではない。不足も救いである。
    よく酒井老師が譬えに出されていたが、「腹が減るから良いので、腹が減らないという事は不自然で妙な感じがするぞ」と仰っていた。




第二十六 「仏向上事ブッコウジョウジ」巻


    「仏向上事」とは、洞山悟本大師(曹洞宗開祖)の言葉であり、「仏は向上事なり」と訓む。つまり総てのものが一刻も休まず生命活動をしている宇宙・大自然の絶対事実(修行)のことである。即ち尽十方界真実を「向上事」という事実で表現したのである。

    本文に「向上(本当の姿)は更有(常に新しく)なり」とあるが、「向上」は、正に次々に進む全てのものの在り方、真実の実態を述べている。
    そして「仏向上事といふは、仏にいたり(成仏)て、すすみてさらに仏をみる(成仏)なり」(本文)という言葉は、尽十方界に完成・完了という事は無い、修行(生命活動)に終了は無いことを説示している。
    要するに、全ての物の形態は一時の姿であり、すべて形を努力(四大因縁和合)している。この一時の姿は「仏向上事に支えられている」のである。
    また人生・苦楽・迷悟(自我意識)は生命活動の表情であり、仏向上事の風景である。この生命活動の表情はその時だけのものであり、これを第二十七「夢中説夢」巻(尽十方界真実の表情の詳細を説く)が説く「夢中説夢」とも言う。つまり「夢中」が「仏向上事」即ち生命活動であり、「説夢」がその「表情」である。

    ところで「仏向上事」巻は、詳細を割愛するが、坐禅の真髄を示す巻であり、仏向上事即ち生命活動そのものをまともに頂く只管打坐の修行を説いている。
    なおこの巻は、割愛した前の第二十五「渓声山色」巻(「渓声山色」即ち尽十方界真実)の延長である。
    同様に第二十九「山水経」巻も割愛するが、尽十方界真実の実態を述べている。
    また第二八「礼拝得髄」巻は、「礼拝は得髄なり」で、わがままの放棄(坐禅)を説き、礼拝即ち生かされていることの尊さを拝むことである。この巻は女人禁制を批判(男女を論ずること勿れ)している。




第三十一 「諸悪莫作」巻


    「諸悪莫作マクサとは、後述「七仏通誡偈」の第一句であるが、仏法の訓み方は「諸悪を作る莫れ」ではなく、「諸悪は莫作なり」と訓む。
    即ち諸悪(人間の意欲的行動)を莫作(本来自然の在り方)に戻せ、諸悪は莫作でなければならないということであり、成仏、解脱行、尽十方界真実のことである。
    つまり「人間の行為」を「諸悪」と言うのであるが、この行為の構造は「(食欲、性欲等五欲)」であり、これがなければ生きていけないし、亡くす事は出来ない大自然の事実である。
    人間は「欲」を恵まれているからこそ生きていけるのだが、大抵その欲をブレーキをかけずに暴走させてしまうため、苦悩が生じるのである。
    そこで、ただ我々に出来る事は、「少欲」即ち「欲を暴走させない」ことであり、莫作(大自然の本来の在り方)を修行(莫の努力)することだけである。
    なお仏法の常識として、「莫」は不、無、非などと同様、絶対的なこと、自然の姿、大自然の事実を意味するのであって、否定の意味ではない。
    従って「莫作」は、「只管」「不染汚」「非思量」「無生」と同義であり、生命維持の為の本来の生き方であり、端的には只管打坐の坐禅のことである。
    また「悪」とは、自分が満足を得る為の行為であり、生活活動(自我活動)のことである。

    さてこの巻の冒頭の以下の言葉は、仏法全体の原則を述べている。

    「古仏(『増壱阿含経』)云く、諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意(不染汚)是諸仏教。(「七仏通誡偈」)これ七仏(過去七仏)祖宗(全仏)の通戒(根本修行)として、前仏より後仏に正伝(どの仏も坐禅を実践)す、後仏は前仏に相嗣(坐禅の実践)せり。ただ七仏のみにあらず、是諸仏教(是れが諸仏の教え)なり。この道理(事実)を功夫(坐禅)参究すべし。いはゆる、七仏の法道(仏法の原則)、かならず七仏の法道のごとし(過去の原則でなく現在も原則)。相伝相嗣(坐禅)、なほ箇裏の通消息(自己の本当の在り方)なり。すでに是諸仏教なり、百千万仏の教行証(仏の実態)なり。」

    まず「過去七仏」とは、毘婆尸仏、尸棄仏、毘舎浮仏、拘留孫クルソン仏、拘那含クナゴン牟尼仏、迦葉ショウ仏、釈迦牟尼仏のことであるが、勿論フィクションであり、仏法は単に釈尊が発見しただけのものでなく、無量無辺の尽十方界真実である事を説明する概念である。

    また「七仏通誡偈」の「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(『増壱阿含経』)は、要するに尽十方界真実をそっくりそのまま頂き修行することである。
    衆善奉行」とは、「衆善は奉行なり」で、諸悪莫作と同じ意味である。即ち「衆善」は諸悪、「奉行」は莫作(只管、本来の姿)と同義である。或いは衆善も諸悪も「諸法」の事であり、奉行も莫作も「実相」のことである。つまり「諸法実相」と同じである。
    そして「自浄其意」は、「自性清浄心」(生命本来の姿)のことで、不染汚、莫作、非思量と同じ意味である。言わば衆善奉行・諸悪莫作は、「自性清浄」の在り方、修行である。

    ところで、一般に教学では、あらゆるものを倫理的観点から善、悪、無記(善悪どちらでもないもの)に区分するが、仏法に本来善悪等は無い。「善・悪・無記」とは、自我生活(人生)のことであり、人間生命の表情である。
    故に「無生」、即ち生きている限り避けられない事実である。
    こうした事実を、この巻は「善悪は時(その時の在り方)なり、時は善悪にあらず」と説示している。

    なおこの巻に、「諸悪既に作られずなりゆくところ」という表現があるが、これは尽十方界の真実を頂く修行即ち現成公案に随順していくことを表している。
    また「莫作の力量」の意味は、「日常生活に処しつつ、しかも暴走しない力」即ち只管打坐のことである。
    「修行」とは生命活動、真実を努力している全てのものの在り方、尽十方界真実人体の真実態である。故に修行は何時でも尽十方界真実の実修実証でなければならない。

    更に「みずから心(生命活動)を挙して修行せしむ、身を挙して修行せしむるに、機先(生命活動そのもの)の八九成あり、脳後(意識活動)の莫作あり」(本文)の意味について、『御抄』は、「身心が即ち修行なる所を此如云也」としている。
    つまり「身心」とは、尽十方界真実人体の事実であり現実である。そして「身心が即ち修行」とは、身心が一時一刻も休まず生命活動を続けている事実を意味し、身心の事実が修行であり、修行の事実が身心である。
    従って人生上のことは、此の修行(生命活動)の事実の上での諸般の事象(風景・景色)に過ぎない。言わば身心修行の事実の中にあって、人生諸般のあらゆる事象はその時々の修行の事実の表情の片々であると言える。
    以上から、人生の諸般の事象に於いて、我々が身心修行(生命)の事実を知ろうとしても不可能であり、せいぜい「機先の八九成」であるか「脳後の莫作」でしかない、つまり「満足、納得を与えてくれるものではない」という事である。




第三十四 「仏教」巻


    「仏教」巻は、「教外別伝」、「不立リュウ文字」を妄解した「看話禅」の徒輩に、本来の姿、仏教を教えるための巻であり、第三十三「道得」巻を承けて、「道得」(尽十方界真実)の実践を説示する。「仏」は「教」、「教」は「仏」即ち尽十方界真実である。
    要するに「仏教」とは思想ではない、ナマの尽十方界真実のことであることを教示する。
    因みに、道元禅師の和歌に「峯の色渓タニの響きもみなながらわが釈迦牟尼仏の声と姿と」(傘松サンショウ道詠)がある。




第三十五 「神通」巻


    「神通」とは、般若波羅蜜(尽十方界真実)、大自然の在り方のことであり、分別・感覚能力を恵まれた尽十方界真実人体の姿である。そしてそれは仏家の日常生活即ち仏法者の在り方でもある。
    「仏教」巻を承けて、日常において尽十方界真実を行ずることを説く。つまり仏家の日常生活とは「一生不離叢林」ということであるが、「叢林」(修行道場)は人間の純粋培養のためにあるのではなく、種種雑多な人間の寄り集まりであることにその本質的意義がある
    即ち諸法は実相であるから、総てのものをそっくりそのまま大切に頂いて生きていくことである。これを「異類中行」(只管打坐)とも言う。
    この巻の本文冒頭は、「かくのごとくなる神通は仏家の茶飯(一生不離叢林)なり、諸仏(仏行)いまに懈倦ゲケンせざる(行持綿密)なり」の言葉で始まる。
    要するに神通とは、「平常心是道」であり、「朝打三千、暮打八百(一日中)終始一貫「行持綿密」(自己満足の放棄)を全うすることである。
    この巻は、山霊祐と弟子のキョウ山慧寂(807〜883年)及び香厳智閑の3人の間の有名な仏家の神通(何とも無い日常生活)の例を紹介しているが割愛する。
    なおホウ居士蘊公(馬祖の俗弟子)の言葉「神通并ナラビニ妙用、運水及搬柴」(神通と妙用とは、水を汲み薪を運ぶ何とも無い日常生活。付録(二)「偈頌及び詩」参照)を取上げている。つまり素晴らしい生き方とは、日常の何とも無い当たり前の生活以上のものは在り得ないのである。
    また「得神通」とは平常底(尽十方界真実)を実践する、即ち自然に任せることであり、「無神通」とは、解脱(感覚に引っ張り回されない生活)にも囚われないことである。




第四十一 「三界唯心」巻


    「三界唯心」とは、ありとあらゆるものが尽十方界真実であり、かけがえのない絶対的な姿であるということである。
    この巻は、『正法眼蔵』の頂上或いは名所と言われているが、本文冒頭に『華厳経』「三界唯一心、心外無別法。心仏及衆生、是三無差別」を引用している。ここの「三界」の意味は、仏教教学の定義、即ち「仏(界外)」に対する「人間の自我世界(界内)」という場合の三界、所謂「欲界・色界・無色界」とは異なる。ここは「心、仏、衆生」を「三界」と言うのであり、これら心・仏・衆生は全て「心」(尽十方界真実)即ち「唯一心」の姿であり、心の外に何も無い(「心外無別法」)という事である。つまり「心」を「仏」と言ったり、「衆生」と言ったりするだけで、何れも「心」の姿即ち尽十方界真実である事に変わりは無い(「是三無差別」)という事である。
    因みに、通常仏法の「界」は、「因」の義(『起信論義記』)、即ち生じている、尽十方界真実している、自然しているという意味であるが、ここの「三界」の「界」因から果を生ずるという意味ではない。また「唯」とは、「外のものなし、全てそのもの」の意である。

    更にこの巻は、『法華経』「如来寿量品」「不如三界、見於三界」を取上げて説示しているが、「法華」の項で述べたように、天台教学は「三界の如くに三界を見ず」或いは「三界の三界を見るが如くならず」と訓む。例えば凡夫は欲望に従って見るとする。(「法華」2、『法華経』245頁参照)
    ところが道元禅師は、「如シカじ、三界(現実)は三界(尽十方界真実)を見(現)ずるなり」と訓み、現実は常に尽十方界真実を表現している(いつも見た通りのものが尽十方界真実)と解釈する。
    なおこの巻は、玄沙とその弟子羅漢桂チン(867〜928年)の三界唯心に関する問答(『永平広録』巻六の上堂)を拈提しているが割愛する。
    ただ其処での説示の要旨は、「仏法は理解する必要なし、即ち自分が納得するものではない」ということである。




第四十六 「無情説法」巻


    「無情説法」とは、大自然の真実の姿、諸法実相、尽十方界真実の表現という意味であり、割愛した第四五「密語」巻の「密語」と同義である。そして「無情説法」の具体的実践が只管打坐の坐禅である。
    さて「無情」とは、全てのものの本来の在り方(尽十方界真実)、自我意識ないし意志・意欲以前の在り方・姿のことであり、我々は無情の中で人生(自我生活)を送っている
    また「説法」とは、真実の表現、或いは真実の実践、修行のことであるが、この巻の本文冒頭に、「説法於説法(説法において説法する)という言葉が出てくる。
    その意味は、何処までも説法、即ち真実の表現や実践には能所や対象が無い(坐禅の実態)ということを表現している。つまり出処進退が説法(真実の表現)でなければならないという事を説いている。

    ところで、この巻は、雲巌・洞山の問答が拈提されており、詳細は割愛するが、その中で、
    洞山が雲巌に「無情説法、什麼人(何人・誰でも)か聞くことを得たる」(誰が無情説法を聞くことが出来るのか)と質問した。
    これに対して、「無情説法、無情得聞」(無情説法を無情聞くことを得たり)と雲巌が答えている
    つまり洞山の質問は、仏法の常識「問所は答所なり」で、無情の説法は「誰でも」聞くことが出来るということであり、尽十方界真実人体の実態を述べている。
    また雲巌の答も、「真実が真実している」、つまり「説法・得聞」は身体全体の働き、即ち生命活動そのものだということを示している。
    なお「眼處聞声ゲンショモンショウ」(眼が見える、耳が聞こえる)という言葉は、「生きている事実」を意味している。
    そしてそれが「無情説法」であり、無情説法を聞いていることになる。
    因みに「会(理解)」ということは、生きていること、自然していることを表す。

    なお詳細は割愛するが、第四七「仏経」巻は、臨済・雲門に対する批判及び宋代の禅の偏向批判(第T章の「仏道」「坐禅」参照)並びに儒仏道三教一致批判を説く。




第五十「洗面」巻 及び第五十四「洗浄」巻


    「洗面」や「洗浄」等を、仏法の根本として取上げられているのは、多くの祖師の中で恐らく道元禅師だけであろうと思われる。
    但し後述『祖堂集』の雲巖と薬山の入浴に関する問答の存在を考えると、曹洞宗系の禅では特に珍しい事ではないかもしれない。
    ところで「洗う」、「洗浄」或いは「浣洗」という行為の意味は、「本来清浄」即ち「本来成仏」であるものを、染汚しないように勤める不染汚の修行のことである。
    つまり道元禅師の言葉をもってすれば「仏法によりて仏法を保任するにこの儀(修行)あり」ということであり、「不染汚(自我超越)の仏法の修行」である。
    即ち自我意識に汚されないように生命本来の在り方を勤める事、尽十方界真実を修行する事である。まさに只管打坐と同旨である。
    従って「洗面」即ち「自分を浄める」とは、欲を超越すること即ち従来の自我の生活態度の転換を図ることであり、仏行である。
    なお「」も「」も、「無自性清浄」即ち「不染汚」である。故に「水は水を洗わず」、「海面塵無くして波浪を洗う」(永平寺五世義雲1253〜1333年)という言葉がある。

    さて、まず「洗面」巻の本文冒頭は、「法華経に云く以油塗身、澡浴塵穢、著新浄衣、内外倶浄(身心を澡浴して香油を塗り、塵穢(垢)を除き、新浄の袈裟を著すれば、内外倶に清浄である)」という『法華経』「安楽行品」の言葉を引用して、「いはゆるこの法(言葉)は、如来まさに法華会上にして、四安楽(身・口・意・誓願)行の行人のためにときましますところなり」と説示する。「安楽」とは、「本来の在り方」という意味である。従って「安楽の法門」とは「尽十方界真実の修行」ということである。

    次に「洗浄」巻は、本文冒頭に、「仏祖の護持し来たれる修証(真実実践)あり。いはゆる、不染汚なり。」と説示し、六祖と南嶽の有名な不染汚に関する問答(「坐禅」の項参照)を挙げた後、「大比丘三千威儀(生活姿勢)経に云く、浄身者トハ大小便を洗ひ、十指の爪を剪るなり」と説く。そして「しかあれば、身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり(坐禅)ただ身心をきよむる(自我の超越)のみにあらず、国土樹下(尽十方界)をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれども(本来清浄)きよむるは諸仏の所護念(在り方)なり。仏果にいたりてなほ退せず、廃せざるなり(一生涯修行)その宗旨、はかりつくすべきことかたし(無始無終)作法(生活姿勢)これ宗旨(不染汚)なり、得道(修行)これ作法(生活姿勢)なり」と説示されている。

    更に『華厳経』「浄行品」の「東司(便所)における「洗浄の偈」(省略)を挙げて、「便所における洗浄」についても説示される。
    東司については「東司上には仏法を説かず」という趙州の有名な言葉がある。
    つまり「洗浄法」自体が仏法だから、その上更に仏法を説く必要が無いということである。

    最後に『祖堂集』雲巌と薬山の問答を以下に要約する。

    ある時、雲巖が薬山に入浴を勧めたところ、
    薬山は「入浴しない」と言う。
    雲巖が「何故か」と詰問すると、
    薬山は「垢が無いから」と言う。
    そこで雲巖は「無垢却って浴すべし」と言う。
    薬山が「無垢なら何を洗う」と反論すると、
    雲巖「多くの毛穴を如何するか」と説いたという。
    要するに本来成仏(無垢)に止まっていてはいけない、仏であるからこそ不染汚の修行をする必要がある(証上の修)ということを教えている。




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