第U章 『正法眼蔵』主要巻の関捩子

5 『正法眼蔵』の特徴的巻々の関捩子ー3





第五十一 「面授」巻


    「面授」とは、「面現成授」(仏面が現成し授けられ仏面になる)、即ち仏法の真実が目の当たり授けられる(伝わる)事であるが、師弟の信頼と一体性に基づく仏法の伝授であって、他に与えたり、他から貰ったりするような通常の授与を意味するものではない。
    つまり自我意識を超越した(尽十方界真実)に逢う(実践する)ことであり、それは坐禅によって初めて可能になるものである。
    一般に仏法の真実(正法眼蔵涅槃妙心)は伝わり難いものである。「面授」はそれを可能にする。
    師の「生活姿勢」により弟子に「身体の本来の在り方」(尽十方界真実人体)を気付かせる。
    ただ注意を要するのは、仏法は宇宙の生命活動そのものであり、ありとあらゆるものが生かされて生きている事実(唯仏与仏乃能究尽)であって、秘密でもなければ、仏法修行者の特権的なものでもない、「平常心是道」であるということである。
    従って仏道修行が、所謂「秘事」、「口伝」等といった類の言葉と結び付けられる事は大きな誤りである事を認識しておく必要がある。

    さてこの巻の本文冒頭は、『大梵天王問仏決議経』(偽経説有)の以下の話を採り上げている。

    「爾の時、釈迦牟尼仏、西天竺国(インド)霊山(霊鷲山)会上、百万衆中、優曇華(青蓮華)を拈じて瞬目(「拈華瞬目」)す。時に於いて摩訶迦葉尊者、破顔微笑す。釈迦牟尼仏言ノタマハく、吾有正法眼蔵涅槃妙心(吾に正法眼蔵涅槃妙心有り)摩訶迦葉に附嘱す。これすなはち、仏仏祖祖(真実人)面授正法眼蔵(師弟の仏法伝授)の道理なり。七仏(過去七仏)の正伝(生命本来の在り方を努力)して迦葉尊者にいたる」と述べ、続いて迦葉尊者から菩提達磨、更に中国の六祖慧能、そして道元禅師の師天童如浄に至る仏法相承について述べている。

    つまり、霊鷲山上、百万(大勢)の聴衆を前にした釈尊の説法が始まるとあって、聴衆は固唾を飲んで釈尊を見守っている。
    ところが釈尊は何も言わず、手に持っていた青蓮華の華を摘みながら瞬きした
    すると迦葉尊者がそれに呼応して破顔微笑した
    即ち迦葉尊者だけが、釈尊の振る舞いの意味(尽十方界真実人体)が分かったのである。
    そこで釈尊は、「皆よく見よ、吾有(私の在り方・実態)は正法眼蔵涅槃妙心(大自然の真実の姿・尽十方界真実人体)なり」と言った。
    そして更に述べられた釈尊の言葉「摩訶迦葉に附嘱す」とは、「摩訶迦葉は私(釈尊)の実態が尽十方界真実人体(生命の実態)であることをそっくりそのまま素直に受け取った。
    摩訶迦葉も私(釈尊)同様、尽十方界真実人体を生きている。(同様に百万の聴衆も尽十方界真実人体を生きていることに変わりは無い)」という意味である。
    ここで重要なのは、「吾有正法眼蔵涅槃妙心」は、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り」と訓むのではなく、「吾有は正法眼蔵涅槃妙心なり」と訓まなければならない。
    「仏性」の項で「一切衆生は悉有なり、悉有は仏性なり」と訓まなければならないのと同様である。

    要するにこの巻の主題は「只管打坐の絶対性」を述べることにある。
    因みに禅門では「面授嗣法」即ち一般に師が弟子に直接法を伝えることを重要視するが、曹洞宗では投子義青(1032〜1083)の嗣法について問題視する考え方がある。
    それは大陽警玄(943〜1027)には弟子がなく偶々臨済系の浮山法遠に皮履と直トツを与えて後事を託し、後に投子義青がこれを得て大陽警玄に嗣法したという禅宗史の問題である。
    参考までに私見によれば、この嗣法の問題は中国文明の歴史観が深い影響を与えていると考えられる。
    つまり中国文明の歴史観は司馬遷の『史記』に始まる「正統」の歴史観である(『歴史とはなにか』岡田英弘著・文春新書参照)が、この正統思想が中国においては禅宗史にまで影響を及ぼしたのではないかと思われる。
    それはさておき面授嗣法の本当の意味は自己が自己の本来の面目に逢うということであり、道元禅師もこの投子義青の問題を特に採り上げておられない。
    なお第五十二「仏祖」巻は、仏祖の在り方、仏祖を礼拝する意味を明らかにしており、「面授」巻と一体として読まなければならない。




第五十六 「見仏」巻


    「見仏」とは、「(現)は仏なり、仏は見(現)なり」と訓み、「成仏」の意、即ち尽十方界真実(仏)を行(現)ずる「只管打坐」のことである。
    即ち「」は「」、「現成」の意味である。
    この巻の本文冒頭は、『金剛経』「釈迦牟尼仏、大衆に告げて言く、若見諸相非相、即見如来」という言葉を採り上げて、「見仏」即ち「坐禅」の具体的な在り方について説示される。
    つまり『金剛経』「如理実見分第五」(本当のものの見方を教える)に於けるこの言葉の一般的な訓み方は、「若し諸相を非相と見れば即ち如来を見る」(諸相を相に非ずと見るならば、如来なりと見る)であり、現実をそのまま見ないで一度概念に置き換えるが、道元禅師「若し見諸相非相ならば、即ち見如来なり」と訓む。
    即ち「見諸相と非相」の如く「諸相」「非相」を並列的に訓み、両相併せて「あらゆる生命の姿を現ずる(生命活動)」という意味にとる。
    言わば「非相」(大自然の姿)も「諸相」の一つである。
    そしてそれは、「見如来」そのもの(即)、つまり成仏(現如来)の姿であり、「真実」(如来)の「実践」(見)、即ち只管打坐であることを説く。
    なおこの巻で、道元禅師は、法眼文益「若見諸相非相、即不見如来」と言った言葉を拈提しているが、「」も「不見」も、尽十方界のその時の様相であり、「如来」、「非如来」も同様である。
    つまり尽十方界真実の相には色々あるということである。因みに「仏法の頂き方」にも、「会(理解)」と「不会(ただそっくりそのまま全部頂戴する)」とがあって、会も不会も尽十方界真実人体の表情であることにおいては同じである。




第五十九 「家常」巻


    「家常」とは、「平常底」のことであり、何ともない日常の地味な行持のことである。
    一般に人間は特別な事を好む習性があり、感激したり、興奮したりすることがないと張り合いがない。常に何か良いことが無いかと満足追求に明け暮れる。
    ところが仏道はそのような人間の自己満足追求を放棄することである。「好事も亦無事に如じ」ということである。
    即ち「家常」とは、日常生活の地味な行持(著衣喫飯)を大切にすることであり、特別な修行を必要とはしない。日常の行持こそが仏(尽十方界真実)の姿(「黄金の妙相」)であると言う。
    この巻の「黄金妙相といふは、著衣喫飯なり。」「仏祖の会下に功夫なる三十来年は喫飯なり、更に雑用心あらず」という言葉がそれである。

    更に、この巻は、以下の「趙州の茶」という有名な則(喫茶に表現される平常底の修行)を挙げて、仏道修行者は初心者であろうが無かろうが、誰でも「平常心是道」の修行を続けなければならないことを説いている。

    趙州真際大師、新到(新しく到着)の僧に問ふて曰く、「曾て此間(此処即ち平常底)に到れり(会得)や否や。」 
    僧曰く、「曾て到れり。」
    師(趙州)曰く、「喫茶去。」
    (お茶飲んで行け即ち日常の行持を続けよ) 
    又一僧に問ふ、「曾て此間に到れりや否や。」
    僧曰く、「曾て到らず
    (此処は初めて即ち平常心是道を会得せず)
    師曰く、「喫茶去。」
    院主
    (寺の事務長)師に問ふ、「甚為ナニトシテカ曾て到此間也マタ喫茶去、不曾到此間也喫茶去なる。」(如何して、この寺へ来たことがある者(平常心是道を会得している者)にも、初めての者(会得していない者)にも、同じ喫茶去(日常の行持)なのですか。)
    師院主と召
    ぶ。主(院主)応諾す。
    師曰く、「喫茶去。」(平常底の修行が根本)
     
    従って、この巻は、最後に「しかあれば、仏祖の家常は喫茶喫飯(平常心是道の修行)のみなり」と締めくくっている。
    因みに洞山大師「門より入るものは家珍にあらず」という言葉も、真実の宝物は、その貴重さを何とも感じない日常生活であるということを示している。
    また「円覚」とは、完全無欠なる真実ということであるが、それは日常生活を大切にすることである。




十二巻本 第五 「供養諸仏」巻


    「供養諸仏」巻は、十二巻本第四「発菩提心」巻を承けて説かれたものであるが、「現成公案」の信仰が、「七十五巻本」(第一「現成公案」巻〜第七十五「出家」巻)を貫いているのに対し、「供養諸仏」即ち「報恩感謝」の「報恩行」の信仰が、「十二巻本」(第一「出家功徳」巻〜第十二「八大人覚」巻)を貫いている
    言わば七十五巻本は主として自己の究明に主眼が置かれ教理的側面が強い。ところが十二巻本利他行、エゴイズムの放棄の実践に主眼が置かれている。
    つまり前項「因果」で述べたように、七十五巻本だけであれば、仏道修行者が教理に偏り傲慢に陥りかねないため、道元禅師は老婆心から十二巻本を説かれたとされる(酒井得元老師説)。

    さて「供養諸仏」とは、外でもない尽十方界真実(諸仏)の実践(供養)のことであり、自己満足の追求を棚上げする修行である事に変わりは無いが、同時にそこには生かされて生きている事に対する感謝と報恩の意味合いが強く込められている。
    要するに「供養」とは、報恩行としての無所得・無所悟(ただ生かされて生きている本来自然の在り方)に徹する「只管打坐」の修行のことであり、不染汚(自我意識の超越)の修行のことである。
    端的に言えば、「修行が尽十方界真実人体に対する報恩感謝であり供養である」ということである。
    また我々は過去があってこそ現在このように生きている。即ち現在を現在ならしめている過去の諸仏(尽十方界真実)の御蔭を蒙って生きている。我々は三世(過去現在未来)諸仏の当体(尽十方界真実人体)を頂いて生きていることに感謝しなければならない。ここに三世諸仏に対する「報恩行」が生まれてくる。
    つまり「報恩行」とは、日常生活の中で分別妄想により見失いがちな本来の生命の在り方即ち「本心」に常に立ち戻る努力を続けることであり、それが我々の生を受けたことに対する報恩感謝の行である。
    我々の自己満足追求の人生は尽十方界真実の表情・風景に過ぎず、我々は自らの身体に対し報恩感謝しなければならない
    即ち自我の暴走により身体(本来の生命)を自我の道具にしてはならないのである。因みに「奉覲ブゴン諸仏」(仏に仕える)も供養諸仏と同義である。




十二巻本 第九 「四馬」巻


    「四馬シメとは、『阿含経』等に馬を調教する方法に四種あることが説かれており、これに基づく譬えとして、仏法は同じであっても、仏法の頂き方に色々差が有ることを説いている。
    ただし仏法は「了解」するものではないことを肝に銘じなければならない。




十二巻本 第十 「四禅比丘」巻


    「四禅比丘」巻は、『大智度論』巻十七の所謂「四禅比丘」、即ち「禅定」のみを修して教えを聞かずに(聞法しない)仏法を誤った比丘の例を挙げて、仏道参学に際し、慢心と錯誤に陥らぬよう「チャク法眼」の必要性を説くと共に、「三教(仏教、儒教、道教)一致」説が邪説であることを説いている。

    つまり或る比丘が、小乗の「四禅定」(色界定)の四段階(初〜四禅)の最後の「四禅」を修得しただけに過ぎないのに、慢心・過信して四禅より上の段階の「四果」(阿羅漢果・無学果)を修得したと錯覚した。
    ところがこの比丘の臨終の時、実際に修得した四禅相応の「中陰」の相のみが現れ、比丘自身が思っていた四果相応の「涅槃」の相が現れなかったので仏を誹謗した。そのため彼は「無間地獄」に落ちたという話である。

    参考までに「四禅」とは小乗の初歩の禅定で、「欲界」の欲や迷いを捨て、「色界」に生ずる四段階の禅定である。
    四果」とは、同じ小乗の修行の階位で、四禅より上の四段階の階位である。
    一果は、三界の思惑を断じて初めて「聖者」の流類に入る「預流ヨル・須陀シュダオン果」。
    二果は、欲界思惑の九品中、上六品を断じた聖者であるが、残り三品の惑によりなお人中天上に一往来して修道証果する「一来果・斯陀含シダゴン果」。
    三果は、欲界の思惑を断尽し再び欲界に還って来ない「不還果・阿那含果」。
    四果は、三界の思惑を断滅し究極の無学果を得た「阿羅漢果」。阿羅漢は人から供養を受け尊敬に値する聖者の意であり、何も学ぶべきことがないので「無学果」とも言う。
    この四禅比丘の例から、「聞法」ということが非常に重要であり、曹洞宗での修行は「聞法第一」とされている。




十二巻本 第十一 「一百八法明門」巻


    「一百八法明門」とは、尽十方界真実人体に於ける種々の現象のことであり、坐禅を基準にした修行の仕方(仏道修行に完成無く無始無終)、真実の受け取り方を説いている。「法明」とは「真実の表現」のことである。終始一貫仏道修行でなければならないことを説く。

    この巻は、『仏本行集経』の仏道は如何に修行しなければならないかを説いた「一百八法明門」を全面的に引用しており、道元禅師の言葉自体は、この巻の最後に、「仏道参学の士でも「一百八法明門」を知る者は稀であり、初心晩学の士のためにこれを撰する。衆生の導師たるほどの者はこれを審細に参学すべきである。兜率トソツ天に最後身の菩薩として住む者でなければ諸仏ではない。「一生所繋(補處)の菩薩」(今生を終り次生で直接仏となる最後身の菩薩)は中有(中陰)無し即ち輪廻しない」とあるだけである。(この巻の解説書は一般に無く、酒井老師のご提唱が本邦初の解説である。)




十二巻本 第十二 「八大人覚」巻


    「八大人覚」については、上述「行持」巻(290頁以下)参照。



拾遺「ベン道話」


    ベン道話」は、『正法眼蔵』の各巻と趣が異なり、言わば道元禅師の仏法の概略を述べた「仏法概論」とも言うべきものである。ベン道話とは即ち仏道修行のことである。



拾遺「菩提薩四摂法」巻


    「菩提薩四摂法」とは、「菩提(真実)(実践)」即ち菩薩の「四摂法」(布施・愛語・利行・同事)即ち「菩薩行」を要約した四つの利他行である。
    この四摂法によって仏道修行が完全に行われるのである。つまり修行者にとっての日常生活の具体的な在り方を示したものである。
    なおこの巻が七十五巻本及び十二巻本に収録されていない理由は、正法眼蔵全体の修行を具体的現実的に実践する場合の究極の生活態度菩薩行の四摂法に要約されるからである。

    ところで我々が生かされて生きているという事は、すべて尽十方界により生命及び生命に必要な全てを「布施」されて生きているのである。
    即ち大自然の恵みによって生きることが出来るのである。
    このことから菩薩の「利他行」の根本は「布施行」であり、布施行の徹底である。これには所謂「六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)」が全部含まれる。

    この巻で、道元禅師は「その布施といふは、不貪なり。不貪といふは、むさぼらざる(エゴイズムの放棄)なり。むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。…略…ただかれが報謝をむさぼらず(恩を売らない)みづからがちからをわかつなり。云々」と説かれている。
    つまり布施における「等三輪(布施者・被布施者・施物)空寂」、即ち布施する者も布施される者も施物も夫々本来の在り方であって、そこに利害関係など全く無いことが布施の根本である。このことは、上述の尽十方界と我々の関係を考えれば明らかである。尽十方界は我々に布施しているとは思っていないし、我々も布施されているとも何とも思っていない。
    因みに『金剛経』「持経功徳分第十五」(金剛経を修行することが最大の功徳)は、徹底布施行を説くが、まさに全身を布施する方法は即ち自己満足追求放棄の只管打坐の坐禅を意味する。

    次に「愛語」については、「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。云々」と説かれている。
    更に「利行」については、「利行といふは、貴賎の衆生におきて、利益の善巧ゼンギョウをめぐらすなり(利益があるように善巧方便を使う)。…略…かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり(自然に相手の為になってやる)愚人おもはくは、利他をさきとせば、自が利はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法(全真実)なり、あまねく自他を利するなり。云々」と示される。

    最後に「同事」については、「同事といふは、不違(本来の在り方に忠実)なり。自にも不違(エゴイズムの放棄)なり、他にも不違(他人に不満を持たない)なり。たとへば、人間の如来(本来の生命の在り方)は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ、同余界(本来同じ)なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。…略…たとへば、事(在り方)といふは、儀(在り方)なり、威なり、態(態度)なり(威儀・態度)他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがうて無窮(終りなし)なり(自分本位ではない)。云々」と説かれているが、「同事」が総てのものの在り方の本質であるということである。
    同事行」の典型は『永平清規』「ベン道法」「動静大衆に一如し死生叢林を離れず群れを抜けて益無し、衆に違するは未だ儀ならず」である。
    要するに布施、愛語、利行、同事は「利他行」として一如である。




補足・『正法眼蔵』七十五巻本及び十二巻本並びに拾遺(全巻巻名)


    第三十七「春秋}巻は、解脱行即ち寒暑という尽十方界の様相の頂き方を説くと共に、五位説を批判。
    第四十二「説心説性」巻は、大慧宗杲(看話禅)の誤りを指摘。
    第五十三「梅華」巻は、尽十方界真実の種々の姿を説き、宇宙全体が老梅であり、老梅樹が唯有一乗法、現実が仏祖の花盛りと説く(如浄語録引用)。
    第五十七「遍参」巻は、遍十方界に参ずる、即ち大自然に接し一体となる、あらゆるものが真実ということに徹する(坐禅の内容)ことである。
    第六十「三十七品菩提分法」巻については、三十七品菩提分法(四念住・四正断・四神足・五根・五力・七等覚支・八正道支)は元来「倶舎論」など小乗の階段的修行であるが、道元禅師は全て尽十方界真実として区別せず頂く。


    『正法眼蔵』七十五巻本及び十二巻本並びに拾遺(全巻巻名)

     [七十五巻本](巻名)  [注] *印巻名と同一の用語の意味は、後述「常用仏法要語」を参照されたい。
     
    一、現成公案  二、摩訶般若波羅蜜  三、仏性  四、身心学道  五、即心是仏  六、行仏威  七、一顆明珠
    八、心不可得  九、古仏心  十、大悟  十一、坐禅儀  十二、坐禅箴  十三、海印三昧*  十四、空華
    十五、光明*  十六、行持  十七、恁麼  十八、観音  十九、古鏡  二十、有時  二十一、授記
    二十二、全機* 二十三、都機 二十四、画餅  二十五、谿聲山色* 二十六、仏向上事 二十七、夢中説夢* 二十八、礼拝得髄* 
    二十九、山水経* 三十、看経* 三十一、諸悪莫作 三十二、傳衣* 三十三、道得*  三十四、仏教 三十五、神通
    三十六、阿羅漢* 三十七、春秋* 三十八、葛藤*  三十九、嗣書* 四十、栢樹子* 四十一、三界唯心 四十二、説心説性* 
    四十三、諸法実相* 四十四、仏道 四十五、密語* 四十六、無情説法 四十七、仏経* 四十八、法性*  四十九、陀羅尼* 
    五十、洗面  五十一、面授  五十二、仏祖  五十三、梅華* 五十四、洗浄 五十五、十方* 五十六、見仏 
    五十七、遍参*> 五十八、眼睛* 五十九、家常 六十、三十七品菩提分法 六十一、龍吟* 六十二、祖師西来意* 六十三、発無上心* 
    六十四、優曇華* 六十五、如来全身* 六十六、三昧王三昧* 六十七、転法輪* 六十八、大修行 六十九、自證三昧* 七十、虚空* 
    七十一、鉢盂* 七十二、安居*  七十三、他心通* 七十四、王索仙陀婆* 七十五、出家
     [十二巻本](巻名)
    一、出家功徳  二、受戒  三、袈裟功徳  四、発菩提心  五、供養諸仏  六、帰依仏法僧宝 
    七、深信因果  八、三時業  九、四馬  十、四禅比丘  十一、一百八法明門  十二、八大人覚
     [拾遺](巻名)
    ベン道話 菩提薩四摂法 法華転法華 生死* 唯仏与仏 




<仏法の常識>

     
    1. 天台本覚思想を学んだ若き日の道元禅師の疑問が「本来本法性、天然自性身、三世諸仏、何によってか更に発心し菩提を求むるや。」(本来成仏であるのに何故改めて修行が必要なのか)というものであった。
      本来成仏であっても尽十方界真実を実修実証する理由は、生かされて生きている事に対する報恩行として生命本来の在り方である「不染汚」(自我の放棄)の修行が必要であるということである。
      尤も道元禅師の上記の言葉は、『建撕記』(永平寺第十四世建撕が纏めた伝記)にしか記載されておらず、後代の作り話ではないかとの疑いがある。
    2. 涅槃とは「常住」ということである。常住とは、ありとあらゆるものが絶え間なく活動を続けているという宇宙の生命活動の事実は永遠に変化しない(不変)ということである。従ってすべてのものは涅槃の形態である。例えば石は石であることが涅槃である。
      そして同時に涅槃は元に帰る(真の姿)と言う意味がある。即ち一時的な四大因縁和合(無住涅槃の中の仮の姿)したものが再び離散する。
      以上の事を『摂論』(世親釈)は、「生滅無きが故に本来寂静なり、故に自性は涅槃なり」と言っている。
    3. 公案:雲巌と道吾の問答
      雲巌掃地(地を掃く)の次で、道吾云く、「太区区生。」(甚だ忙しそうだ:生は助辞)
      巌云く、「須らく不区区者有ることを知るべし。」(忙しくない)
      吾云く、「恁麼ならば即ち第二月有る也。」(掃除に成り切っているなら忙しくないという言葉は無い筈。本当の月はこれだと示せない。これだと言った時は第二月(一時の表情))
      巌、掃箒を竪起して(現実的な行のシンボルである箒を立てて)云く、「這箇は是れ第幾月ぞ。」(本当の月はこれだと示せない(第二月等無し)。第幾月とは本来の姿)
      吾、低頭して去る
      つまり本来「平常底」で、一見忙しそうな外見の動作とは関係なく身体全体の生命活動は平然と行われているということを教えている。


      [参考]

      *数珠を持して人に向うは、是れ無礼なり(『永平清規(衆寮清規)』
      *「永平渓浅しと雖も、勅命重きこと重々却って猿鶴に笑われん紫衣の一老翁」
         (1250年、後嵯峨院より紫衣を下賜されたことにつき道元禅師自嘲の句)




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