(1) 戒
仏法の戒とはエゴイズムの放棄(制止という)であり、端的には尽十方界真実を実修実証(只管打坐)することである。
まさに尽十方界真実が戒であり、戒とは宇宙・大自然の在り方ないし我々の本来の在り方のことであり、成仏のことである。
(2) 大乗と小乗の相違
「小乗の持戒は大乗の破戒、大乗の持戒は小乗の破戒」という言葉がある。
それは即ち、小乗は苦行中心の規制に縛られ解脱即ち理想に縛られることを意味している。小乗は特に淫欲の克服が重要課題であった。
他方大乗は尽十方界真実人体である身体の最重要性を発見すると共に、あらゆるものの生命を尊重することが中心となった。
つまり小乗仏教の修行の中心は「律」即ち規制(〜すべからず)であり、奉律は生活規制であり、さとり・解脱等理想追求への道程である。ところが大乗仏教の修行の中心は戒であり、上記尽十方界真実を実修実証(只管打坐)即ちエゴイズムを放棄することである。
(3) 受戒
受戒の受とは、身体が生きている、身体を頂いている、本来の在り方を生きるということである。
従って受戒とは、自己が本来「戒」(尽十方界真実人体)であることを自覚することである。即ち尽十方界真実に目覚めてこれを信じ、これを実践することである。
つまり身体の本来の在り方即ち自我意識を超越して全てそっくりそのまま頂く事、端的には只管打坐を行ずることである。
(4) 懺悔
懺悔とは、一切の自我活動を棚上げし、本来の生命の姿(尽十方界真実人体)に還ることである。端的に言えば只管打坐の坐禅をすることである。
また『梵網経略抄』(経豪著)は、「懺悔の法あらわるる時、三帰三聚戒も、攝せずと云事なし、……始め懺悔の法より、三帰、三聚浄戒、妄を離れずと雖も、妄中に於て解脱を得、妄想未だ去らざるに実相到来す」と述べている。
前半の言葉は、懺悔(尽十方界真実の実修実証)がなされる時、後述の三帰戒、三聚浄戒も同時に持たれている事実を述べている。
また後半の「妄想未だ去らざるに実相到来す」と云う言葉は、実相も妄想も同じようなもの(尽十方界真実人体の表情)だということである。なお先述の通り、川の流れにおける流れ(生命活動)そのものは尽十方界真実(本来の在り方)であり、実相も妄想も、流れにおける波(自我意識)のようなもので尽十方界真実人体のその時々の相スガタ(現象)である。
つまり後半の意味は、「修行しよう(坐禅しよう)」と思う事も、全て妄即ち自我意識の活動であって、生命活動の中に於ける妄想である事に変わりは無い。
その意味で我々は戒(尽十方界真実)の中にいて妄を離れられない。
然しまた妄(自我意識)によって行動を起こし坐禅をすることも出来るし、妄想に引きずられないでそれを眺める(坐禅)、即ち妄を超越する(解脱)ことも出来る。
即ち妄(自我意識)を認めてこれに振り回されない(超越)姿勢(正身端坐)を保持すれば、努力するという意識も消えて、尽十方界真実(人体)のみとなるというのである。
(5) 十六条戒
- 三帰戒
さて大乗の戒は所謂十六条戒であるが、その最初が三帰戒である。十六条戒とは、戒全体を十六の方面から説いたものである。三帰戒も同様に戒全体を三方面から説明したものであり、戒の受け取り方、修行の仕方の違いだけである。なお以下十六条戒の解説は道元禅師の『教授戒文』による。
まず三帰戒とは帰依三宝のことである。帰依三宝とは帰依仏法僧、即ち帰依仏・帰依法・帰依僧であるが、要するに帰依仏法のことであり、帰依尽十方界真実のことである。つまり自己満足追求に終始する自我中心の生活態度を転換して、本来の生命の在り方である尽十方界真実人体に還ることである。
上述の懺悔と同じく解脱行、即ち川の流れ(生命)そのものに還り、川の波立ち(生命活動の表情である人生)を眺め、それに引きずり回されないように努力(只管打坐)することである。
帰依とは尽十方界真実に回帰することで、南無、帰命、只管と同義である。
- 三聚(浄)戒
次に三聚(浄)戒であるが、これらの戒も戒全体を三方面から説いたもので、尽十方界真実であることに変わりは無い。
後述「十重禁戒」の根源となる戒で、十重禁戒の一々の戒に三聚戒が全て包含されている。
- 摂律儀戒とは、人間の自我(意欲)行動を生命本来の在り方(無所得・無所悟)に還すことであり、尽十方界真実人体に還ることである。端的には只管打坐することであり、諸悪莫作即ち諸悪(意欲的行動)を莫作(自然本来の在り方)に戻せである。止悪の面を指す。
- 摂善法戒とは、生活の中で尽十方界真実(本来の姿)を実践することである。即ち只管打坐することであり、衆善奉行(本来の在り方を修行すること)である。行善の面を指す。
- 摂衆生戒とは、利他行(自己満足追求の放棄)であり、平等の自他無し(只管打坐)ということである。
以上、三聚戒は止悪・行善に止まらず、利他行が強調されるところに大乗戒の特徴がある。
- 十重禁戒
さて十重禁戒とは、尽十方界真実を信じ、現実をそっくりそのまま頂く事であるが、その受取り方・修行の仕方に十種有るということである。
十重という意味は一の戒が同時に十戒を含んでいるということであり、一の戒が完全に行われる時、他の戒も全部完全に行われることになる。
- 不殺生戒とは、尽十方界真実を修行する事であり、全てのものは完全であり、その命を大切にする事である。或いは全てのものの真の在り方を修行する事であり、生命活動を徹底的に極めることである。
なお仏法の「不殺」「殺」について、宇宙・大自然には「殺す」ということは成り立たない。
何故なら、例えば木を伐る(殺す)と単に材木(物体)になるが、本来木は四大(地水火風等の元素の性質)が因縁(条件)により和合して木になっている。伐る(殺す)という行為は、四大和合の因縁を変化させるに過ぎない。
あらゆるものは絶えず生命活動(心)しているが、木も材木も共に心の一時的な姿(四大因縁和合)であって、ただ四大和合の因縁の相違があるだけに過ぎない。このような尽十方界の活動においては固定的な主体等は無い。この事実を仏教教学では一切自性皆空と言う。
言わば尽十方界の生命活動に、殺即ち変化させる在り方と、不殺即ち(変化させず)そのままの在り方とがある。
つまり殺も不殺も生(生きている事実)の在り方である。従って仏法の不殺生とは、通常一般の殺生せずという国語辞典的解釈ではなく、不殺の生、即ち無条件で生である或いはあるがままという意味になる。
故に不殺は大自然の絶対的真実・絶対的存在を意味し、只管、非思量、莫作と同義である。
つまり大自然には人間世界の自我(エゴイズム)に基づく殺はない。なお『梵網経略抄』は、殺を日常的人間がなくなり本来の姿に還る、即ち成仏の意であるとしている。
そしてこの意味から正に坐禅は殺仏だと言える。
なお小乗では、戒に浅深を立てて、身を不浄と見做し、不淫欲戒を第一に立てるが、大乗では慈悲即ち自我意識発現以前の自他の対立の無い在り方が中心であり、十戒に浅深の区別は立てない。
ただ生かされていること即ち生命が根本であるから、不殺生戒が最初に来るだけである。
- 不偸盗戒とは、尽十方界において人間も物も同じように真実の絶対的存在(諸法実相)であり、物そのものからみれば盗むという事は成立しない。盗むものも盗まれるものも全て心の姿(諸法)であり平等である。盗むということは真実・平等を犯すということである。
- 不淫欲戒とは、戒の根本である自己満足の追求を止め(不貪)た人間の本来の在り方である。即ち好みに暴走せず、清浄にも執着しないことである。
- 不妄語戒とは、本来尽十方界に妄語(自我)は無く、全て真実を表現(宇宙の生命活動)しており、全てをそのまま頂戴することである。
- 不コ酒戒とは、尽十方界真実人体であることを明確に認識して何者にも騙されないことである。なお不コ酒とは人を酔わせないこと。また酔わないとは解脱、尽十方界真実を実践すること。なお小乗は不飲酒戒である。
- 不説過戒とは、尽十方界に間違いということは無く、本来の姿に咎はない。即ち仏法に誤りなしである。すべてのものは絶対完全(成仏)であって咎を説けない。従って全て差別することなく、全部頂かねばならない。まさに自他不二である。
- 不自讃毀他戒とは、全てのものが尽十方界真実であり、絶対且つ完全(皆仏)であるから、自他共に尊いということである。即ち諸法実相であり、坐禅の内容である。
- 不慳法財戒とは、諸法実相、尽十方界真実、自然の恩寵(布施波羅蜜)のことであり、どれも全部絶対的な(本来の在り方をしている)ものであり、特別なもの無しということである。
- 不瞋恚戒とは、仏そのもの即ち慈悲心(自我発現以前の在り方)、孝順心(衆生を哀れむ心)である。不瞋恚戒は如何持つ可きかということについて、之でいくという様に決められない。つまり本来の姿そのままが光明(恵み)であるから、特に態度を選ぶということはない。仏法は、のぼせや僻みの無い本来の姿を修行することである。
- 不謗三宝戒とは、現実(全てが三宝)を文句言わずにそっくりそのまま頂くことであり、本来の姿(尽十方界真実)を修行することである。
なお十重禁戒は一戒一戒が全て三宝であり、不謗三宝戒である。また不殺生のとき必ず不謗三宝である。