以上仏法が如何なるものかを簡単に述べてきた。そこで出家修行者はともかく、現在一般在家のままで、坐禅に親しみながら可能な限り仏法に忠実な生き方を志す者はどの様に生きていけばよいのか以下に考えてみたい。
まず、尽十方界真実人体である我々の身体は、我々の意志・意欲の如何に拘らず、本来の生命活動を休み無く続けてくれているお蔭で人生を生きることができる。
同時に我々は人生の中で宿命的に喜怒哀楽を避けることは出来ない。
ただし喜怒哀楽は身体の生命活動のその時々の景色・表情に過ぎず、どんな大きな喜び悲しみも決して何時までも長続きはせず、時間の経過と共に平常底に戻らざるを得ないことを前記平常心是道で学んだ。
従って我々の人生においては平常心是道が根本であることを決して忘れないことである。
次に、我々は日本国家の制度(制約)内、即ち法的・政治的・経済的・社会的制度の中で生きている。
当然憲法に定める国民の義務も果たさなければならない。
いわばこの制約そのものがまさに現成公案の現実であると言える。
従ってこの現実をそのまま素直に頂き順応していかなければならない。
昔の中国の大梅法常のように、独りで山中に籠って何年も修行するなどということはもはや不可能であり非現実的である。
因みに、インド仏教は出家者の労働を厳禁して托鉢に頼ったが、中国仏教は、百丈禅師の「一日働かざれば食うべからず」の語に見られるように労働を認めている。
これはインドと中国の気候、風土、社会的条件等国情の相違によるものであり、托鉢は仏法に普遍的なものではない。
実際釈尊の時代に多くの壮年男子が出家したため労働者が不足し、社会問題になったようである。それはともかく、前記現成公案で述べた現実をそのまま素直に頂くという基本的な生活態度で暮らすべきである。
更に、お釈迦様の『遺教経ユイキョウギョウ』の教えである八大人覚(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修知慧・不戯論)の特に少欲・知足を心掛けることである。
少欲・知足は与えられた生命(尽十方界真実人体)をまともに保持するという意味から仏道修行の根本であり、他の六項目は少欲・知足を達成するためにある。
以上、普通一般の人が日常生活を送る中で、平常心是道を信じ、最寄りの寺院の参禅会を拠り所に坐禅を行じ続ける。
尤も肥大化し続ける現代の物質文明の中で、自己満足追求を完全に放棄することは殆ど不可能かも知れないが、このような環境・生活形態も現成公案の現実として素直に頂くと共に、可能な限り少欲・知足の本旨を時代相応に護持し生きていく努力を続けるべきではないかと思われる。