(1) 仏法
さて仏法とは、この宇宙・大自然の生命(生滅)活動とそれに伴うありとあらゆる事実を言い、禅の言葉で尽十方界ないし尽十方界真実とも言う宇宙・大自然の様相・実態のことである。
従って所謂思想(観念)や「〜という考え方」等人間の考える概念等ではなく、現実世界に生起する事実・実態を指す。従ってこの世界に仏法で無いものは何もない。全て仏法なのである。
勿論我々が生きている事実も仏法であり、この事実を禅の言葉で尽十方界真実人体即ち我々が大自然に生かされて生きているという実態を表現している。
そして仏法(宇宙・大自然の活動)の実態の特徴は以下の通りである。
- まず、この世界に存在するありとあらゆるものは、生物であれ、無生物であれ、自分勝手に存在しているものはなく、何らかの条件(因縁)によって存在させられている(因縁生起という)。
- 次に、宇宙に存在するありとあらゆるものは、一刻も休まず生滅活動(刹那生滅という)し続けているが、この事実を本当の意味の修行と言うのである。また宇宙・大自然がこのような生命(生滅)活動を続けている在り方そのものを心シン、三昧、脱落、解脱、悟とも言うのである。
- 第三に、現実(現在の事実)は、如何なる状態にあっても、その時の宇宙・大自然(尽十方界)の様相であり動かし難い絶対的な事実(真実)であって且つ過去の成果の実態である。従ってこの現実は現在の事実以外の事実としては有り得ないという意味で完全無欠であり、これを現成公案ゲンジョウコウアンと言う。
- 第四に、宇宙・大自然においては、ありとあらゆるものが本当の事実(真実)であるから、これこそは真実という還源返本的な特別な真実はない。
西欧の哲学や宗教のように、それに拠って全て説明が可能な根本原理即ち形而上学における所謂真理等は存在しない。そのような還源返本(事物の背後に本源や原理を求めようとする態度)の考え方は、人間の自我(納得したい欲望)即ち思想(脳の生理現象の所産)に過ぎない。
因みに所謂「神」は人間のエゴイズムが創造した人間の理想像であり、神の対立概念である悪魔は人間のエゴイズムに不都合な反理想像なのである。人類の歴史における所謂民族宗教の存在は、まさに人間の自我(エゴイズム)の象徴であると言える。
仏法においては、現実にこの宇宙・大自然に生滅するありとあらゆる事実が全て絶対的な事実(真実)であり、これが『法華経』の根本命題である諸法実相である。前記現成公案と同義である。
つまり現実は、その時の宇宙・大自然の生滅活動に於ける表情・景色(尽十方界の様相)であるが、それはその時の動かし難い絶対的な事実でもある。
また同時に宇宙・大自然全体が絶対的な真実であり、これを全体本然ホンネンと言う。
それは、例えば気象において、晴れ・雨・曇り等様々な状態があるが、どの状態が最高ないし本来の姿だという事は出来ない。どのような気象であっても全て真実であることに変わりはないということである。
- 最後に、宇宙・大自然においては、無所得・無所悟(ただ大自然に生かされて生きている在り方)であり、これを禅の言葉で非思量、不染汚フゼンナ、只管シカン等と言い、人間の自我意識(意志・意欲)発現以前の生命活動の在り方である。
因みに非・不・無・莫と言う語も通常の用法の否定の意味ではなく、人間の恣意が介入する余地のない大自然の姿を意味する。つまり宇宙・大自然には、人間世界におけるような目的・理想・意志・意欲などの観念は無いし、同様に人間固有の満足や問題の解決等という観念も無い。また人間の欲望(自我)に起源する、時間、空間、多少、大小、長短、或いは是非、善悪等の観念も無い。
(2) 禅
なお禅も仏法と同義である。曾て中国の仏教史において、仏教が余りにも学問的且つ煩瑣な学問仏教(仏教教学)に成り果てた。
やがて達磨を祖とする真に血の通った実践的仏法を希求する修行者達の間に、正伝の仏法(正伝は生命の本来の在り方を勤めること)としての禅(禅宗)が起こり、新しい中国における実践的な大乗仏教として蘇ったのである。それはインドにおいて、所謂声聞・縁覚等の悟り(自己満足)を追求する小乗仏教(観念的な仏教)が行き詰まり、新しく利他行(無所得・無所悟)を標榜する菩薩の大乗仏教が生まれてきた現象と酷似し、しかも禅においてインド・中国を通じて初めて真の大乗仏教が生まれたと言えるのである。
なお仏法は仏教経典上種々の表現がなされており、代表的なものでは般若波羅蜜、法華、仏性、涅槃、大乗、因果等全て仏法の同義語である。