(1) 大乗
仏教史における大乗仏教の大乗と言う言葉は、尽十方界真実(仏法)のことである。
つまりあらゆる事物事象を存在させ生滅させている事実(尽十方界真実)、即ちあらゆるものは自分勝手に存在しているのではなく、尽十方界(宇宙・大自然)という大きな乗り物の中に在り、ありとあらゆるものを包摂して全く漏らすものがないという事実を指している。従って何者も尽十方界から逃れることは出来ないし、又これを目標とし対象とすることもできない。
我々はこの尽十方界の真実に支えられて日常自己満足追求(自我活動)の生活をしている。
(2) 大乗と小乗の修行の相違
ところで大乗仏教における大乗(菩薩)の修行は、自己満足追求の生活を放棄することであり、無所得・無所悟(ただ大自然に生かされて生きている在り方)即ち自我の放棄ないし自我の超越(自我に振り回されない)を修行(実践)することである。
これに対して小乗仏教における小乗(声聞・縁覚)の行は、自分のさとり(理想)を求める(有所得・有目的)行であり、自己満足追求の行である。
従って小乗仏教では成仏即ち仏になることが理想であるが、大乗仏教では仏というものは本来尽十方界真実そのものであり理想・目的ではない。
何故なら本来ありとあらゆるものは、仏(尽十方界真実)だからであり、元々本来成仏しているのである。
(3) 法身仏
またお釈迦様の捉え方についても、小乗仏教の段階では、お釈迦様を単に歴史上の聖人(人間)として捉え、仏道修行者は、さとる為に修行し、お釈迦様のような聖人になろう(有目的・有所得)と努力(自己満足追求)した。
しかし大乗仏教は、お釈迦様(仏)は法身仏(尽十方界真実)を象徴し、歴史上のお釈迦様は釈迦牟尼仏即ち無所得・無所悟(尽十方界真実)を修行(自己満足追求の放棄)して、釈迦牟尼仏(法身仏)になったとする。
つまり我々は勝手に生きているのではなく、尽十方界真実人体即ち大自然に生かされて人間として生きているということに気が付いたのである。