ところで仏教史において、前述の小乗仏教から大乗仏教への転換の根本的契機になったのは、人間のからだの偉大性・尊厳性の発見であった。即ち人間の身体そのものが宇宙・大自然(尽十方界)の生命活動における一つの相スガタ・形であり、人間自身の意志・意欲等に関係のない尽十方界真実人体(宇宙・大自然の真実が人間している)だということを発見したのである。
なお尽十方界真実は、独り人間だけでなく、ありとあらゆるものが尽十方界真実であり、例えば犬は尽十方界真実犬であり、草は尽十方界真実草である。
ところで尽十方界真実人体である身体(正法と言う)は、身体単独で存在しているのではない。身体は、その時間的・空間的全体の環境(依法と言う)と一体で生きている(この事実を依正エショウ一如と言う)。つまり身体は環境、即ち空気や水の存在は勿論、身体の存在している場所(空間)や時等全てと一体(尽十方界)でしか生きられないのである。
従って尽十方界の一部である人間の生命活動自体は、宇宙・大自然の生命活動そのものであり、例えば「見る・聞く」等の人間の生命の働き(行為)等も、その時の宇宙・大自然(尽十方界)の様相・表情であると言えるのである。
また尽十方界真実人体の実態は、前記仏法で述べた三昧、脱落、解脱、悟であり、後述川の流れにおける流れ(生命活動)そのものである。
そして人間の自我活動(身体の一部である脳の働き)における喜怒哀楽は川の流れの表情である波のように一時的なものだと言えるのである。