(1) 心
さて仏法を理解する上で非常に重要な心について述べておかなければならない。
心とは、これまで述べてきた尽十方界真実、即ち宇宙・大自然の生滅活動の相スガタないしありとあらゆるもの(非情を含む)が一刻も休まず生滅活動(変化)を続けている事実・実態を指す。即ちまさに前述の仏法の実態である。
ところが心という仏法の最も基本的な言葉の意味を知らない僧侶や仏教学者が余りにも多く、人間の精神・心理状態を表現したものと完全に誤解し自らの恥をさらしている場合が多い。
勿論心は尽十方界真実のことであるから、人間(尽十方界真実人体)の精神作用であるこころも心の表情の一つであると言うことはできる。然し仏法で人間のこころや精神作用を表現する場合は、慮知念覚リョチネンカクと言う。
恐らく宗教というものを一律に精神的範疇だと考えている人達は、不思議に思われるかもしれないが、通常仏法では人間の自我意識に起因する精神や心理等をその主要な対象とはしないのである。
諄いようだが、仏法は尽十方界真実(宇宙・大自然の絶対的事実)であって、所謂思想(人間の自我の所産)ではないからである。
(2) 身心一如
従って身心一如という言葉についても、通常の国語辞典の心身の意味は精神と身体と説明しており、凡そ仏法に於ける本当の意味とは異なる。
つまり仏法におけるこの言葉は尽十方界人体の実態を表現した言葉であり、心の活動の一つの姿・形態が人間の身(からだ)であるという事実を表している。
即ち心が身しているのである。いわば尽十方界真実人体、即ち自我意識発現以前の身体本来の生命の事実を身心一如と表現するのである。例えば、呼吸は我々の意志意欲には全く関係のないからだの生命活動の営みである。
見える、聞こえる、感蝕する等の感覚・知覚等も生命活動の表情であり、心を離れた単なる身は無いし、心だけが何の形にも現れずに存在するということも有り得ない。
この身心(身体)は自己が生きている実態であり、単に生理現象に過ぎない自我意識が支配する個人的な自分の生命ではない。
つまり宇宙全体が生命活動していることの現れなのである。