(1) 平常心
平常心という言葉は、通常の日常生活では、何か特別な心理状態に陥りがちな気持ちを平静に保つ或いは平常普段のこころというような、人間のこころの在り方を表現する意味で使用されている。
しかし前述の通り、仏法の心は人間の心理や精神作用を意味するのではなく、平常心(平常は形容詞)も尽十方界の実態(無所得・無所悟)を表現している。
(2) 平常底、三昧、解脱、脱落、悟
平常心是道という言葉は禅において仏道の極意を表現するとされている。
では、平常心是道とは如何なる意味なのか、端的に言えば、尽十方界(宇宙・大自然)の絶え間ない活動は常に平常底であり真実であるということを表現している。ここの平常底とは、例えば大地震、台風、火山の噴火や洪水等、人間にとって不都合な宇宙・大自然の活動も、宇宙・大自然それ自体においては、本来当たり前で何とも無い絶対的な真の事実である。
しかもまたこの平常底の事実は、大自然の一部である我々の身体の生命活動においても同じである。
つまり、我々は、平生自己の満足追求に伴う様々な生活上の喜怒哀楽が人生の全てであるかのように錯覚しているが、尽十方界真実人体である我々の身体そのものは、そんな我々の意志・意欲の如何に拘らず、本来の生命活動を休み無く続けてくれている。
だからこそ我々は人生を続けていけるのである。
言わば人間の喜怒哀楽は人間生命のその時その時の景色・表情に過ぎないのである。
その証拠にどんな大きな喜び悲しみも決して何時までも長続きはせず、時間の経過と共に平常底に戻らざるを得ない。
以上のような平常底の実態を大河の流れと波の関係で説明すると、大河の流れ(宇宙・大自然の生命活動)は、時々刻々の状況により、その水面は穏やかであったり、波打ったり変化する(活動の表情)が、流れ(生命活動)そのものは常に変わりなく続いている。
この流れ続ける事実を三昧、解脱、脱落、悟と言い、水面の波はあくまで生命活動のその時々の一時の表情に過ぎない。
そしてこの在り方は、宇宙・大自然の一部である人間の身体についても同じ事である。即ち人間は、身体の生命活動(川の流れ)の中で生命活動の表情である自我中心の喜怒哀楽の人生(波)を送っている。
まさに自我を超えた身体(尽十方界真実人体、仏)の生命活動そのものを上述の三昧等と言うのである。
要するに宇宙・大自然(尽十方界)においては人間の利害・思惑等は無関係である。
我々人間はこの平常底の中で生かされ、生き、蠢いているのであるが、平常底の真実は余りにも当たり前過ぎて人間に特別な感覚を引き起こさないし、体験・経験(分別・知覚)出来るものでもない。
いつも何とも無く平凡であり無事(何事もない)である。
(3) 信
因みに、このように常に活動・変化し続ける宇宙・大自然(人間の身心を含む)の真実(尽十方界真実)に、我々自身が全く無関心である在り方・実態を「信」と言うのである。
従って所謂信心と言うことも信は心なり(信心一如)と言うことであり、日常使用される精神的な信仰のこころと言う意味とは根本的に異なるのである。
(4) 平常心是道
要するに平常心是道とは、人間性即ち自己満足追求(意志・意欲)に価値をおくのではなく、平常心(尽十方界真実)そのもの(無所得・無所悟)に無限の価値を見出すことであり、これこそ正に仏道の極意を表現しているのである。
なお道とは、真実、言葉、言う、真実の実践等の意味が有る。従って平常心是道である仏道は、尽十法界真実即ち尽十方界真実人体そのものを実践すること、つまり人間性(自己満足追求)を放棄ないし超越(振り回されない)することである。
そしてその唯一の方法が後述只管打坐即ち無所得・無所悟(ただ大自然に生かされて生きている在り方)の坐禅なのである。