上述仏法や平常心是道の説明の中で、我々人間は、自我を超えた身体(尽十方界真実人体、仏)の生命活動の中で自我中心の人生を送っているが、その身体自体の生命活動の在り方を三昧、解脱、悟と言うことを述べた。
それではお釈迦様が菩提樹下で坐禅をしていて、暁の明星を見て悟られたという悟りと前記身体の生命活動の在り方である悟との関係は如何であろうか。
(1) 成道の語
まずお釈迦様が「我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏。」と仰ったお悟り(成道)の言葉の意味は、人間は尽十方界真実によって生かされて生きている(尽十方界真実人体)、また山川草木をはじめ、ありとあらゆるものは勝手に存在しているのではなく、人間と同様に尽十方界真実によって存在させられて存在している(完全に真実している)のだという事である。
そしてこの事実を大乗、本来成仏と言うことは前述大乗の説明の通りである。(但しこのような絶対的真実は科学的証明には親しまない。)このようなお釈迦様の悟りの言葉は、お釈迦様が真実を求めて出家して以来、様々な苦行を経た後、その様な苦行が結局自分が勝手に描いた理想即ち自己満足の追求に過ぎず、却って本来最も大切な身体を徒に傷める愚行であることに気付かれた。
そこで改めて菩提樹下における回光返照(自己の本来の姿を知る)の坐禅を行じた結果、機が熟して、自我意識を超えた身体本来の在り方即ち尽十方界真実人体であることに目覚めたという事実を表現している。この場合のお釈迦様の悟りは正に宇宙・大自然の真実に目覚めるというお釈迦様の認識の働きを意味するものであるから、通常一般の用法におけるさとりであると言える。
しかしこの悟りは単なる精神的なさとり(認識)だけではなく、釈尊の生涯の修行の在り方(大事了畢リョウヒツ)を決定するものであった。
しかも真実に目覚める機縁になった菩提樹下のお釈迦様の坐禅そのものは、尽十方界真実の実修実証即ち本来の悟であることは間違いない。
(2) 不染汚の行
更に言えば、内山老師も述べられている通り、一般に上記の菩提樹下の成道ばかりが強調される嫌いがあるが、釈尊入滅最後の教誡に「比丘放逸をなすなかれ。我れ不放逸を以っての故に自ら正覚を致せり。云々」(『長阿含』「遊行経」)とあるように、釈尊は生涯不放逸即ち自己満足追求を放棄する修行(不染汚の行)を努められたのであり、その故に正覚即ち悟(尽十方界真実)を行じ続けられたのだということがわかる。
従ってお釈迦様の悟は、初めて尽十方界真実に目覚めたという通常の認識的な意味のさとりであるだけでなく、成道以後入滅に至る迄、常に自己満足追求の放棄(尽十方界真実の実修実証)即ち坐禅(悟)を行じ続けられたのであるから、基本的に真実実践の生涯に亘る悟であったことは間違いなく、まさに真の覚者即ち仏陀であったと言える。