(1) 現成公案
上述仏法の実態で少し触れた現成公案は、『法華経』が仏法の根本の教えであると考えておられた道元禅師が、同経の主題である諸法実相(ありとあらゆるものは真実である)の絶対事実性に加えて絶対価値性(諸法実相という絶対事実をそのまま頂くことが最高の価値)をより明確化された言葉である。
つまり現成公案とは、仏法の項で述べたように、この世界のありとあらゆるものは全部真(本当)の事実、即ち『法華経』の根本命題である諸法実相である。
しかも現在の事実即ち現実は、如何なる状態にあっても、即ち人間にとって如何に不都合な事実であっても、それは全て過去の成果(因円果満という)であり、それ以外には有り得ないという意味で完全である。
しかもそれはその時の宇宙・大自然(尽十方界)の絶対的事実(様相)であるから、全て取捨選択等せずに、その事実をそっくりそのまま頂く(受け入れる)べきであることを言う。なお一般には、例えば、発心・修行・菩提・涅槃、即ち仏法に目覚め、修行し、さとりを得、最後に煩悩消滅等というように修行の階梯を順に上るというように心境に優劣があると考える。
しかし仏法においては、発心・修行・菩提・涅槃のいずれの在り方も尽十方界真実人体のその時(一時)の表情・様相であると同時にその時の絶対的な事実であるという意味において優劣はない。
要するに、宇宙のありとあらゆるのものは、人間の自我における価値判断とは関係なく絶対的な真の事実であり、且つ此の世に完全に同じものは存在しないという意味で比較を絶した(摩訶と言う)独尊性の故に完全無欠である。
現成公案は、このような絶対的な事実をそのまま素直に頂く態度を言うのである。なお完全無欠に対する不完全という概念は、人間が何かを基準にして物事を比較考量することから生じる概念であり、宇宙・大自然においては比較を絶しているから、全てそれ自身だけのものであるが故に完全である。
因みに、唯仏与仏乃能究尽(『法華経』)(ありとあらゆるものは完全に尽十方界真実している)や大地有情同時成道(ありとあらゆるものは同様に完全に真実している)も現成公案の事実を表現している。
(2) 現実をそのまま素直に頂く
仏法の頂き方(現成公案)として、酒井老師が常々「現実をそっくりそのまま素直に頂くことである」と仰っていた。日常生活の中で具体的には如何すればよいのかという疑問が生まれる。
凡そ仏法を学ぶ者の基本姿勢は、先ず大自然に生かされて生きている現在の自己(尽十方界真実人体)は全て過去の成果(遺伝的素質が環境との相互作用により形成して来た現時点の全人格)であり、しかも実際に現在の自己の在り方以外には有り得ない絶対的な自己(現在の尽十方界の一様相)であることを深く自覚しなければならない。
その上で、現在の自己をそのまま素直に受容、即ち過去の自分を反省することはあっても、決して劣等感や不平不満或は優越感等を抱くことなく、有りの儘の自己を認識し、且つ現在置かれている自己の境遇に素直に順応して生きていくことである。ところで日常生活の中で、自己が何か新しい事態に直面するようなことがある場合、通常喜怒哀楽等の興奮に上せることが多いが、時間が経てば次第に自己の生命本来のリズムに戻り、必然的に平常底(生命本来の在り方)に収まらずには収まらないものであることもよく自覚すべきである。
さて次に、具体的なケースとして、「現実をそのまま素直に頂く」という意味は以下のように考えられる。
- 現実とは、現在生起し或は生起しつつあって実際に自己が直面するありとあらゆる事実(尽十方界の現時点の様相)を言う。
即ち直接間接に自己に影響を及ぼす可能性があるため自ら実際に何らかの対応を迫られる、自然・物理現象(地震・風水害等)、政治的(選挙の投票行動等)・経済的(物価変動等)・社会的(秩序・風俗等の変化)事実、或は他者及び自己の行為(場合によっては火災・交通事故等の過失行為等)並びに事実(発病等)等、その他あらゆる出来事(諸法実相)である。
- そのまま素直に頂くとは、上記現実に対する認識及びにそれについての対応即ち決断及び行動等以下の一連の行為を言う。
- 先ず上記現実に直面した場合の自己の認識は、自己の能力・知識・経験・境遇等(全人格)に相応した自己の主観的認識であるが、その時は自己にとってそれ以外の認識は不可能であり、その自己の主観的認識をもって対応する(現実と自己はその時の尽十方界の様相として一体即ち依正一如である)しかない。
その際、欲見・僻見・偏見等自我に基づく認識の偏向(本来そのまま素直とは言えない)が存在しても、自分自身に偏向の自覚がない限り、そのまま主観的認識を構成する。もし偏向に気付けば正すべきである。
また一般的には、自己が現実に直面した時点に於いて自己の主観的認識をもって対応(決断・行動)するのが通常であるが、実際の対応迄に時間的余裕がある場合、専門家等他人の意見を参考にすることも有り得る。
当然参考にする行為は自己の人格態度(その時の尽十方界真実人体の様相・表情)そのものである。
- 次に上記認識に基づき自己が実際に対応即ち決断し且つ行動する。但し、欲見・僻見・偏見等偏向に基づく対応は、自ら気付く限り当然避けるべきである。なお場合によっては、対応には不作為(何も対応しない)も有り得る。
- 更に、現実をそのまま素直に頂いた結果、実際社会において生じた評価や効果等が、世俗的に自己に不利なものであっても、全て潔く受け入れる覚悟がなければならない。
- ところで仏法から言えば、上記認識や対応に於いて合格・不合格は無い(如何せねば或は如何あらねばならぬことは無い)。
つまり如何なる対応をしても本来成仏即ち大自然に生かされて生きている事実(尽十方界真実人体)に変わりは無い(例えば犯罪者も大自然に生かされて生きている)。
言わば、どんな行為も尽十方界(宇宙・大自然)のその時の一様相であり、尽十方界真実人体のその時の在り方・表情である。
例えば、迷・悟が生命活動(尽十方界真実人体)の表情であり、何れも表情であると言う点で尽十方界真実として変わりがないのと同様である。
ただし人間社会(自我世界)に於ける評価(成功・失敗等)は別問題である。仮に、素直に頂かなかった(自己満足追求等の)場合も、同様に尽十方界のその時の一様相であり、本来成仏(尽十方界真実人体)であることに変わりは無い。
また当該行為が惹起した実際社会での評価・効果等も同様に別問題である。
- 最後に、以上如何なる行動(対応)をとっても、本来成仏ならば、仏道修行など必要無いではないかという古来天台本覚門に提起された根本的且つ重要な疑問が生じる筈である。
然し仏道とは、大自然から授かった自己の生命(本来仏)を、深信因果(大自然にお任せ)の道理に従って、欲望満足の追求や自我の暴走のため(自我活動は仏の行為ではない)に奉仕しないよう努めることである。
また人間の自我に関係のない宇宙・大自然から見れば、人間の自我は生命活動の全てではないことが明らかであり、大自然本来の在り方即ち無所得・無所悟(ただ生かされて生きている在り方)の尽十方界真実の実践(仏行=只管打坐)を努力することが、本来の大自然の在り方に忠実な生き方なのである。従って仏道は、日常生活において、後述自我の放棄・超越を修行する坐禅を常に標準として生きることが最上(畢竟帰処)であるとする信仰であり、本来仏だからこそ、仏に相応しい行を只管努めるだけである。
なお、現実をそのまま素直に頂くを坐禅そのものに即して言えば、坐禅中自然に沸々アタマに浮かぶ種々の念(あらゆる現実)は、そのまま素直に頂く(浮かび放しにして取り合わない(不作為))が、その種々の念を殊更浮かばないように努力したり或は追いかける(思考活動)ことは、現実をそのまま素直に頂かないことになる。
また特殊な心理状態、例えばアタマに何も浮かばない所謂「無」の状態や恍惚的な心理状態(幻影)を現出させようとすることも、すべて自然に反する自我活動である。肝要なことは、常にアタマのノボセを覚ますことである。