先述の街の大きな書店等では、種々の仏教書に混じって所謂坐禅入門書が並んでいる。
しかし澤木、酒井、内山各老師の著作を除けば、坐禅について本当に分かって書かれたものを見かけることは殆ど無いと言っても過言ではない。
一般的に看話禅系統の所謂さとる為の坐禅という全く誤った考え方が人口に膾炙してしまっており、これを正すのは容易なことではない。
私が本書で仏法から現成公案まで鏤々述べてきたのは、仏法をよく理解して頂くと共に、その実践である本当の坐禅を知って頂くためである。
(1) 典拠
まずインド的な瞑想技術中心の坐禅から尽十方界真実実践の坐禅へと一転機を画し、中国禅宗を事実上確立したとされる六祖大鑑慧能の言葉を以下に紹介する。
- 「何を坐禅と名づく。此の法門の中無障無碍なり。外一切善悪の境界に於て、心念起こらざる。名づけて坐と為す。内に本性を見て乱れざるを禅と為す。」(『六祖壇経』)
次にこの文の意味を述べる。
さて法門とは身体全体のことであり、その中無障無碍ゲとは、生きている事実において邪魔になるようなものは何も無い、即ち人生の苦悩などは生命活動の表情・風景であって本来障害ではないということである。この言葉は六祖の禅の基本である。
次に一切善悪の境界とは自我(意志意欲・分別)活動のことである。
心念起こらざるとは、心(尽十方界の活動)の表情が念(精神活動)であり、取捨選択(選り好み)の念が起きない様な身体の姿勢を確保していることであり、この姿勢が坐である。
つまり自我活動により積極的な行動を起こし難い状態、即ち身体が生命活動している本来の生命の在り方を確保することである。更に本性を見とは、本性は本来の生命活動の在り方(尽十方界真実)であり、見は現の意で、実践すること即ち生命本来の在り方を実践することである。
乱れざるは不乱即ち常に正常な位置を保ってリズムを乱さないことである。また自我意識を超越した尽十方界真実人体には、本来内(自己)も外(外境)も無い。
つまり身体は環境と一体(依正一如)で生きているのが真実であり、能所(主客)の対立は無い。例えば呼吸と空気の関係がそれである。
そして禅とは、先述の通り尽十方界真実そのもの、生命そのもののことである。要するに全体としては、「何を坐禅と言うか。坐禅を行じているこの身体において様々な念が沸き起こって来ても、それはその時の生命活動の風景であり且つ尽十方界の真実の姿である。取捨選択せずに放置すれば、生命そのものにおいては何の障害にもならず、生命活動のリズムが自然に保たれて、大自然そのものが行じられている。このような坐禅の正身端坐の外面的相スガタが坐であり、その内面相が禅(生命そのもの)である」ということである。
- 「打坐は即ち正法眼蔵涅槃妙心なり。」(『永平広録』巻四)
次に只管打坐(ただ無目的に坐る)がそのまま正法眼蔵涅槃妙心即ち仏法(尽十方界真実)であるという端的な言葉は、正に道元禅師にして初めて言い得る言葉であり、道元禅師の禅の心髄を表す。
只管打坐の坐禅は、無所得・無所悟即ち何かの為などではなく只生かされて生きていることこそがその本質である大自然の在り方を、そっくりそのまま実践(実修実証)することであり、それは即ち人間的営み(自我意識・自己満足の追求)の棚上げに他ならない。
つまり日頃有目的に明け暮れている自我中心の我々の在り方を放棄して、大自然に生かされているままの本来の生命の在り方に還る努力をする、言わば人間に恵まれた欲を、本来生存に必要な限りで(生命維持が基本)の大自然の在り方に返す努力が只管打坐の坐禅である。
これは仏法の別の言い方をすれば供養諸仏という事である。即ち坐禅は我々が諸仏即ち大自然に供養(自我の放棄)する行為であり、諸仏(大自然)に帰依する姿勢である。或いは布施・報恩感謝の行でもある。
- 「衲子坐禅。直に須く正身端坐を先と為スべし。然る後に調息致心す。若し是れ小乗ならば、元に二門有り。所謂数息、不浄也。小乗の人は、数息を以って調息と為す。然り而して仏祖のベン道、永く小乗と異なる。仏祖曰く、白癩野干之心を発すと雖も、二乗自調之行を作すこと莫れ。」(『永平広録』巻五)
これも道元禅師が正しい坐禅の在り方を端的に示した非常に重要な言葉である。
衲子は禅僧のことである。
正身端坐は、後述の通り、足を結跏趺坐又は半跏趺坐に組んで姿勢を正し、手を足の上で組み、面壁して兀坐することである。
調息致心(調息が致心)は、欠気カンキ一息(大きく息を吐く)して気分を転換することである。
数息は数息観のことで、息を数えて散乱の心を収めることであり、不浄は不浄観のことで、貪トン欲や色欲を収めることである。
白癩野干ハクライヤカンは下品で卑しいことであり、二乗自調之行は小乗の自力行、即ち自ら一種特別な心境になることがさとりだと考えて、その心境に陶酔するような瞑想技術に終始する坐禅を言う。つまり仏祖の坐禅は、後述正身端坐即ち手足を組んで姿勢を正すことが根本であり、それによって自然に息も整う。
ところが小乗は数息観や不浄観等の瞑想技術を用い、数息で息を整える。
然し仏祖の修行は永遠に小乗とは異なる。
仏祖は「たとえ野狐等のような卑しい気持ちを発したとしても、小乗の自力行即ち自己満足追求のための技術的な誤った修行をするよりは未だましだ」と示されている。
従って間違っても自分勝手な特別な心境になることを目指すような座禅、即ち座禅を手段と心得るような修行をしてはならないということである。(註:後述看話禅の場合、坐禅を座禅と表記することが多い。)
(2) 坐禅儀
以上の典拠から、坐禅は人間の自我意識を超えた基本的な生命活動の在り方の実践(実修実証)である。
以下に坐禅の実態を表現する重要な言葉を解説しながら、坐禅の実際を説明するが、その根本は道元禅師撰述の『普勧坐禅儀』である。
- (ア)、正身端坐 (只管打坐)
- まず坐禅における身体の姿勢の在り方である正身端坐について説明する。
- まず壁に向かった坐處に座褥ニク(座布団)を置き、その上に坐蒲フ(小型の円形の蒲団で、詰め物はパンヤ)を置く。
そしてこの坐蒲の上に臀を乗せて足を組む。足の組み方は、結跏趺坐ケッカフザ又は半跏趺坐(結跏趺坐が出来ない場合)とあるが、結跏趺坐は右足を左の腿の上に乗せ、左足を右の腿の上に乗せて足を交差させる。半跏趺坐はただ左足を右の腿の上に乗せるだけでよい。
なお両膝はしっかり座褥につくようにする。上体の重みが両膝と坐蒲上の臀との三点にかかる状態にする。
その際腰を立てて尻を後方に突き出すようにし、背骨を伸ばし首筋も伸ばして顎を引き、舌を上顎に付け上下の唇歯も相着けて、後頭部で天を突き上げるようにする。
足を組むことは自我による生活行動が直ちには出来ないということで、我がまま勝手はしないという姿勢である。
- 次に両肩は張らず楽にして、右の手を既に組まれた左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置いて、両掌で半円を描くような感じで、両方の親指が水平に軽く触れる程度に出合わせる(法界定印と言う)。これは坐禅中意識を明確に保つバロメーターである。
目は普通に開いて壁を見、視線は前方約60度に落とす(凝視するのではない)。
これが所謂達磨の面壁であるが、これは周囲の環境に邪魔されないための工夫であると共に、坐禅が瞑想技術ではない証拠でもある。
- 更に口を開いて息を大きく吐く(欠気カンキ一息)ことによって気分を転換すると共に、二、三度身体をゆっくり左右に揺すって姿勢に無理や窮屈なところがないようにリラックスさせた後、不動(兀ゴツ坐)の姿勢に入る。
そして鼻でする呼吸は自然に任せる。
- 坐禅の時間は一チュウ(線香の燃焼時間40〜50分間)を単位とし、坐禅が長時間に亘って行われる場合は、一チュウ毎に経行キンヒン即ち揖イツ手又は叉シャ手して堂内を静かに緩歩する。
なお経行の呼吸法を規制するのは誤りである。
- 以上が正身端坐の基本の形であるが、このような坐禅の姿勢を続けている時、我々の身体(尽十方界真実人体)が生命活動を営んでいる証拠に、我々の脳裡に自然に何らかの思い(念)、色々の考え等が忽然と浮かんで来る(忽然念起)。
最初に浮かんでくる念は、人間が如何ともし難い自然の生命活動の働きであり、決して妄念などではなく正念である。
ただ初念が浮かんでも、二念を追わず正身端坐を続ける。即ち覚触ソク(正しい坐相を維持する努力)により、目前の壁が自然に眼に映り、その瞬間にその念は脳裡から消えてしまう。この場合自我意識は発現せず、生命本来の在り方から外れることが無い。
ところがその最初の念が消えず、そのまま次々思い(次念以降)を追い続ける、例えば浮かんだ念を捉まえて思いを巡らし始めると、それは既に考え事(思考)であり、自我意識が活動を始めているのであり、もはや厳密には坐禅ではなく、生命本来の在り方から乖離し始めている。ところでそのように自我活動が始まると、不思議に前述法界定印の親指の形が自然に崩れたり、背筋が曲がったり、自ずと坐相が崩れて来る。
つまり坐禅中、生理現象である自我活動は隙あらば始まろうとするが、常に正身端坐、即ち覚触の姿勢を続けて、生命本来の在り方に立ち還る努力をすることが肝要である。
因みに坐禅中の居眠りは身体自体が要求する自然な姿ではあるが、勿論坐禅ではない。
- なお坐禅と現成公案の関係について改めて述べると、脳の生理現象として自然に様々な念(考え)が浮かんで来るが、そのこと自体は身体の生命活動であるから、尽十方界真実として素直に頂くしかない。それはその時の尽十方界の真実であり現成公案であるから、全て受容するしかない。
この場合に、念が浮かばないように自ら意識して念の発生を押さえ込もうとするならば、逆に自我意識を働かせることになり、自分の好み或いは満足を追求することになって、却って坐禅の在り方から乖離する。
但しすべて頂くという意味は、次々起こって来る念を全部追いかけ掴まえる事ではない。
あくまで正身端坐に終始して、次々起こってくる念をその都度追わず、身体本来の在り方に任せていくことが、現成公案を実践することである。要するに只管打坐即ちただ無目的(只生かされて生きている在り方)に坐るということが坐禅の根本であるが、前記六祖の言葉で明らかなように、坐が禅の実態であると同時に、禅の事実が坐であり、自我意識を棚上げにした正身端坐が坐禅の全てである。
そこには通常の所謂思考は勿論、自己満足(自分で描いた理想の心境)の追求というような自力行は有り得ない。
- (イ)、不染汚 フゼンナ
- 修行の在り方の指標不染汚について、最も有名な六祖と南嶽懐譲の問答を以下に紹介する。
南嶽が六祖に参じた時、
六祖曰く「什麼イズレの処より来たのか。」
南嶽曰く「嵩スウ山安国師の処から来ました。」
六祖曰く「是れ什麼物インモブツ(如何なるもの)恁麼来インモライ(如何して来たる)。」
しかし南嶽は何とも答えることが出来なかった。
その後八年間南嶽は六祖の会下で修行して、六祖の言ったことを会得した。
そこで南嶽は六祖に八年前の話を持ち出して、「あの時和尚が言われた什麼物恁麼来を会得しました。」と言った。
六祖曰く「汝作麼生ソモサンか会エす。」
南嶽曰く「説似一物即不中(一物を説似するに即ち中アタらず)。」
六祖曰く「還って修証を仮るや否や。」
南嶽曰く「修証は即ち無きにあらず、染汚することは即ち得不ジ。」
六祖曰く「祇だ此の不染汚、是れ諸仏之護念する所なり、汝亦是の如し、吾も亦是の如し、乃至西天の諸祖も亦是の如し。」
この公案で、まず仏法の常識として疑問詞の什麼、恁麼、作麼が、尽十方界真実を表現しているのである。六祖が南嶽に「什麼の処より来たのか」と問うたのは、単に地理的な出所を聞いたのではなく、仏法修行者としては当然根本課題である自己の出所を自覚しているか否かを試したのである。
更に未熟な南嶽に対して、什麼物恁麼来即ちありとあらゆる事実はありとあらゆる在り方だ(真実は此れこそと決まったものではない)、或いは諸法実相(あらゆるものが真実)だ、更に言えば本来成仏だと、尽十方界真実の在り方を示したのである。
然しこのことが分からなかった南嶽は、分かるまでに六祖の指導の下で八年の修行を必要とした。終に尽十方界真実に開眼した南嶽の言葉は説似一物即不中即ち尽十方界真実を説明しても適当しない、或いは真実は把握不可能だということであった。
尚ここの一物の「一」は全、全体、全部の意味で、全物即ち尽十方界のことである。そこで六祖は本当に南嶽が仏法を会得したかどうかを確かめる為に、「尽十方界真実の在り方がそうだとするなら、即ち本来成仏(あらゆるものは尽十方界真実として完全である)ならば、真実の修証(実践)即ち修行は不要なのか」と問うた。
これに対し南嶽は「修行は当然必要ですが、有所得即ち自己満足追求の修行であってはならない。自己満足追求でない本当の修行をしなければならない」と答えた。最後に南嶽のこの答えに満足した六祖は、「不染汚即ち自我意識を超えた大自然の生命の在り方を努めることこそが、諸仏が護念するところであり、汝も私も同様に心掛けるところである。
それだけではない。インドの釈尊以来の仏祖方も同じである」と念を押した。以上の公案から分かるように、不染汚は、自我意識を超えた大自然の生命の在り方を言い、不染汚の修行は、先述の正念を保つ努力であり、また平常心是道の修行である。
逆に染汚とは、自我意識(分別判断)の活動、自己満足の追求であり、所謂虜知念覚リョチネンカク(分別・知覚)が働いている状態である。
或いは特殊な心理状態(ノボセ・興奮)であることもある。これらは全て生命活動の表情に過ぎず、生命活動そのものの真実を覆うものである。
(3) 禅の偏向(看話禅)
次に禅の偏向の問題について述べる。
まず中国禅宗には大きく二つの系統がある。即ち六祖の弟子である青原行思と南嶽懐譲の二つの系統である。
前者は曹洞宗の祖洞山良价から天童如浄、そして日本曹洞宗の祖 永平道元(1200〜1253)に至る禅の流れと、
後者は臨済宗の祖 臨済義玄から大慧宗杲、そして日本臨済宗の白隠慧鶴に至る流れとである。ところで中国では、宋初時代以後『伝燈録』等古典の編纂が盛んに行われた。
それは唐代の日常生活に即した禅の実践とその誤りを正す現実の禅問答や思想を文学的抽象的な古人の軌則として定型化したもので、士大夫(知識階級)層に対する公案研究の組織的方法が考案された。
そしてこのような方法を考案したのが、大慧宗杲であり、所謂公案禅或いは看話カンナ禅と言われる禅をでっち上げた(一種の新興宗教)。
その特徴は、例えば座禅中に大疑、即ち趙州狗子の公案の所謂無字を取り上げて、全身全霊で無の考えに熱中し、彼の所謂究極的な「大悟」即ち特殊な心理状態を求めてそれに陶酔する。
言わばインド小乗仏教以来の瞑想技術である精神集中の一種であり、所謂自調の行であって、正に禅の偏向と言うべきものである。本来坐禅は、主客合一・能所泯亡・依正一如等と表現される実態、即ち生かされて生きている事実を実修実証することである。
ところが公案禅は、主客合一をはき違えて、人為的に対象と一体になろうとする、例えば無字の公案において、自我意識が無という対象と一体になろうとするものである。
なお大慧は、曹洞宗の宏智ワンシ正覚の只管打坐の坐禅を主体的な大疑の欠如であると批判し黙照邪禅と呼んだ。
然し宏智は却って『黙照の銘』を著わし、大慧を相手にしなかった。
要するに大慧は仏法の何たるかを全く理解せず独善(自我中心)に陥っていた。因みに宏智正覚撰述の『坐禅箴』の中に、仏祖が仏を行ずる坐禅の実態を述べた「不触事而知、不対縁而照」(事に触れずして知り、縁に対せずして照らす)という言葉がある。
つまり不蝕事も不対縁も共に知覚分別に基づかない尽十方界の真実の在り方を示している。
即ち知も照も対象を判断して解るという自我意識の知覚・分別の次元ではなく、能所(主客:自我意識と対象)を超えた尽十方界真実人体ないし尽十方界の知の在り方・様相、照の在り方・様相である。
つまり知は尽十方界真実人体としての知であり宇宙・大自然の生命活動である。
また照も同様に尽十方界の生命活動そのものである。
いずれも同じ尽十方界(真実人体)の或る時の様相であることを表している。なお特別修行した人しか悟れないような看話禅は、真の普遍的な宗教とは言えない。
黙照禅のように、誰でも只管打坐すれば尽十方界真実を実践出来ると同時に、それが成仏であるという尽十方界真実人体と坐禅の信仰こそ真の宗教に値するものである。