『普勧坐禅儀』 概説

大自然と坐禅


我々人間は、宇宙・大自然(これを仏法では「尽十方界」という。)によって生かされて生きている。我々だけではない。ありとあらゆるもの、例えば人間にとって取るに足りないような石ころや虫や草なども勝手に存在しているのではない。全て宇宙・大自然によって存在させられて存在している。

因みに、この事実を仏法では「本来成仏」という。また宇宙・大自然のありとあらゆる生滅活動のすがた・在り方を「尽十方界真実(宇宙・大自然の真の事実)」という。


その証拠に、我々は誰でも、自分の意志で生まれて来ようと思って生まれて来た者は一人も無い、ただ物心が付いたらこのように呼吸し存在していただけである。

また自分の意志意欲即ち自我活動が休憩中である睡眠時においても、我々が勝手に自分のものだと思っているこの身体自身は、有り難い事に身体の生命活動を休まず続けてくれている。逆に自分の意志に反して突然身体の方の都合で病気になったりする。

要するに、我々の意志意欲に関係なく、この身体は、呼吸活動をはじめ自らを取り囲む環境と共に相互作用しながら、宇宙・大自然と一体で生きている(因みに、この事実を仏法では「()(しょう)一如」という。)のである。


日頃我々は自分の意志意欲だけで生きていると思っているため、身体というものがこの宇宙・大自然の一つであることに気付かないし、気付こうともしない。

しかし、端的に言えば、自分の外側にある自然だけが大自然なのではなく、自分に最も親しいこの身体そのものが明らかに宇宙・大自然そのもの(尽十方界真実)なのである。


だからこそ、仏法では、人間の身体を「尽十方界真実人体(にんたい)(宇宙・大自然の真の事実が人間の身体である)というのである。

それでは改めて、仏法とは何かと言えば、余りにも当たり前過ぎて殆ど誰も気に留めることがない宇宙・大自然の生滅活動やありとあらゆる事実(尽十方界真実)をいうのである。そして我々は仏法(尽十方界真実)を生きているのである。


ところで、上述のように、人間は、自ら宇宙・大自然そのものでありながら、人間は特別な存在であって、人間以外の他の生物とは全く異なったものだと勝手に思い込んでいる。その大きな理由は、人間には精神活動即ち自我活動が生理現象(因みに、これを仏法では「業」という。)として恵まれているからである。

つまり人間の生命活動における脳の働きの中には、他の生物と違って、自我活動が生理的習性として特別恵まれている。そのお蔭で、人間は幸か不幸か目的・理想を持ち、その追求に終始するよう生理的に宿命づけられている。そしてその必然的な結果として、人間は喜怒哀楽が不可避な生き方を余儀なくされている。


ところで、このような人間の自我を起因とする喜怒哀楽は、人間の身体の本来の生命活動に伴うその時々の様相・景色・表情に過ぎない。それは恰も大河における水の本流とその波紋との関係に喩えてみれば理解しやすい。

即ち、大河の水の本流は常に流れ続けているが、その時々の流れの様相は常に変化している。風が吹けば波紋を浮かべ、風が凪げば波も収まるなど、外界の情況によって様々な表情を浮かべながら、流れも変化する。しかし水の本流そのものは、その表情である波紋に関わりなく常に流れ続けている。因みに、この様な波紋に関わらない本流の在り方を、仏法では「平常心是道」と言うのである。

同様のことは人間の本来の生命活動と自我との関係にも言える。人間の自我活動はその時々の自分の周囲の情況によって影響を受け、悟ったり迷ったり、喜んだり悲しんだり常に変化する。しかし身体そのものは、その時々の自我活動に伴う喜怒哀楽には関わりなく生命活動を続けている。言わば、喜怒哀楽などの自我活動は、身体の生命活動のその時々の表情・景色に過ぎない。


ところが、我々人間の日常生活は、波紋である喜怒哀楽の表情ばかりに終始してそれが全てであるような生き方をしている。そのため本流である身体そのものを完全に見失っている。

仏法で説かれる「平常心是道」とは、身体(生命活動)本来の在り方から眺めて、喜怒哀楽などをその時々の何ともない当たり前の風景として頂く生き方をいうのである。


本来、宇宙・大自然の在り方は、その中で生かされて生きている人間の自我意識などとは全く関係が無い。即ち宇宙・大自然そのものは、人間が考えるような意味での目的・目標・理想など有り得ない。従って人間にとって困る天変地異なども、宇宙・大自然の在り方からすれば、人間の思惑など全く関係のない宇宙・大自然の何ともない当たり前(平常底)の活動の様相である。

因みに、キリスト教等に於ける所謂「創造主」たる「神」の存在などは、単に人間の自我(思考)の所産に過ぎない。


以上、信じようが信じまいが、我々が宇宙・大自然(尽十方界真実)によって生かされて生きているというのが実態であり、これは絶対事実であって、人間が考えた所謂「思想」などではない。

そこで、この「尽十方界真実」を我々が本当に首肯し、受け入れることができたならば、我々人間は、この尽十方界真実の中で人間だけに恵まれた自我を、如何に頂いて生きていくべきかが、次に問われてしかるべきであろう。


この問に対し、人間は宇宙・大自然によって自我活動も恵まれたのだから、恵まれた自我を最大限使って、自己の欲望満足追求の人生を生きることが何故悪いかという考え方が当然存在するだろう。恐らく大多数の人々はこの考え方に組するのではないかと思われる。


しかし、よく考えてみると、我々は、経験的に自己の欲望満足の追求が必ずしも我々に本当の救いを齎すものではないことも知っている筈である。

我々が自己の理想や目的を追求しても、必ずしも期待どおりの結果が得られるとは限らない。むしろ自分の思いどおりに行くことの方が稀である場合が多い。仮に満足を得ても、次々に新たな欲望満足を求めるようになるのが人間の生理的習性である。しかも往々にして自己の欲望満足の追求に暴走して、反って自ら激しい苦悩を招くことが多い。

ここに、自我活動を恵まれた人類に、「宗教」即ち人間の究極的根本的生き方(畢竟帰)に対する信仰が生まれた理由が存在するのである。


人類の先達である釈尊は、人間にとって生老病死は避けることができないものであり、必ずしも自己の欲望満足の追求が究極の救いにはならないことに夙に気付かれて出家し、仏法(尽十方界真実)を悟られ、しかも生涯仏道修行を勤められたのである。

つまり、釈尊の悟りは、「我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏」という釈尊の成道の言葉が表現しているように、「我々人間も人間以外のありとあらゆるものも、全て同じように宇宙・大自然に生かされて生きている。人間だけが特別なのではない」ということであった。

また、我々の目前に展開する現実の姿は全て真実(因みに、これを仏法では「諸法実相」という。)であって、選り好みせず、そっくりそのまま全て素直に受け入れるべきことを悟られたのである。

そしてその修行は、生涯自己の満足追求を放棄する修行即ち無所得・無所悟(ただ生かされて生きている本来の在り方)の「只管(しかん)打坐(たざ)」(尽十方界真実の在り方を努力する修行)の坐禅を続けられたのである。


しかし我々人間は、生来的に業である自我活動は避けられず、自己の欲望満足の追求を完全に放棄すれば生きていけないことも事実である。

そのため、仏道は、上述のように、身体(生命活動)本来の在り方から喜怒哀楽などをその時々の風景として眺め「平常心是道」に生きることが根本の修行となる。それが当に自我を超越、即ち自我の存在を前提にただ自我に振り回されない生き方であり、尽十方界真実人体(宇宙・大自然に生かされている人間)としての勤めである。

具体的には自我中心の自己の欲望満足の追求に生きるのを止めて、宇宙・大自然にただ生かされて生きている(無所得・無所悟)という生命本来の在り方を修行(坐禅)することが、仏道の信仰に生きるということである。


言わば、車の運転において、安全且つ故障しないためには、最高可能速度で走ることを止めて常に適正速度で走る安全運転を心がけると同様に、我々の生き方として、自己の欲望満足を最大限に追求するのではなく、通常の生命維持に必要な程度に止めておく、或は少なくとも欲望満足の追求に暴走しないことが、仏道修行の根本である。これが当に釈尊の『遺教経』における「少欲・知足」の教えである。

そして、仏道修行即ち尽十方界真実を努力する具体的な方法は、「只管打坐」の坐禅以外にはないのである。


さて坐禅は、正身端坐を努力することであるが、壁に向かって、黙って坐蒲の上に脚を組み手を組んで坐り、背筋を伸ばし姿勢を正して、一切我が儘勝手をしない、即ち積極的な自我活動(思考活動)を放棄するという姿勢である。


実際の坐禅においては、自然に脳裡に様々なことが浮かんで来る。色々浮かんでくること自体は、我々が生きている証拠、即ち身体の生命活動の表情であって、浮かんでくる様々な念は、所謂「妄念」ではなく「正念」であって、坐禅においては、ただ浮かび放しにすればよい。

例えば、朝、我々が目覚めた時、何にも浮かんでこなかったら大変である。洗顔することも、朝食を摂ることも、為すべき事が全然浮かばなかったら人間として生きていけなくなる。

ただし、坐禅の場合は、このような日常生活の場合とは異なり、浮かんできたこと(念)を追いかけずにそのまま放置し、自我活動を開始させない努力が必要である。

日常の思考習慣の儘、浮かんできたことについて考え始めると、それは自我活動の始まりであり、単に考え事をしているだけになって、本来の坐禅ではなくなってしまう。

しかもこのように考え事をしている状態の場合、必ず坐相即ち姿勢が崩れている。特に重ねて組んでいる両手の(おやゆび)の形が決って崩れてしまっているものである。

従って、坐禅は、何かアタマに浮かんで来たら、組んでいる両手の拇の形を常に崩さないように気を付ける努力が最も肝要であり、背筋を伸ばし、顎を引いて姿勢を常に正し、前方の壁のやや下方に視線を自然に落としていれば、浮かんできたことがふっと消えるものである。

しかし、一つの念が消えても、また直新たにアタマに何か浮かんで来る。再び同じように両手の拇の形を崩さず、姿勢を正す努力を続ければ、再び念は消える。こうして坐禅中ずっと正身端坐を努力し続けるのである。実際に坐禅をしていると、足が痛くなるが、その時は足を組み替えたり、休めたりして、再び続ければよいのである。


これが「無所得・無所悟」即ちただ大自然に生かされて生きている在り方であり、生命の表情を表情としてただ頂く、つまり生きている限り身体(生命)の表情があって当然であるが、表情はあくまで表情に過ぎないことを知って、表情に振り回されない身体本来の在り方を努力することが、所謂「只管打坐(ただ坐る)」の坐禅の実態である。


因みに同じ「座禅」の名で所謂「悟り」を求めるものがあるが、これは本当の「禅」(「尽十方界真実」と同意)の名には値しないものである。

「悟り」を求めるということは、自らでっち上げた特別の境地・特殊な心理状態になる、言わば陶酔を目的とした自己満足追求の自我活動に過ぎない。つまりこのような座禅は、これこそ「真実の悟り」というものを自ら想定する個人的特殊な心理状態に陶酔する技術的なものである。

この座禅が求める所謂「悟り」とはある特殊な心理状態をいうのであるが、根本的な誤りとして、悟ったと言う個人のその特殊な心理状態を何か客観的な基準で誰が検証できるのか、通常の合理的な知性を具えた人間であれば、明らかにいかがわしい事に気付く筈である。

本当の仏法は宇宙・大自然そのものであるから、上述の釈尊の悟りのとおり、ありとあらゆるものが真実である。これこそ真実と決め込むことは人間の自我がそのように決め込むのである。

例えば気象の場合、晴れ、曇り、雨、雪など色々あるが、どれが真実の気象であるのか、全部真実の気象であることに変わりがない。大自然は全て真実である。坐禅中脳裏に種々の念が浮かんでくるが、その全てが大自然の現象であり、真実である。何も浮かんでこない時もあるが、そのような状態も身体の生命活動の一つの表情に過ぎない。

なお上述のような宇宙・大自然規模の本来の坐禅は誰でも実践可能であるが、特殊な人しか悟れないような悟りを求める座禅は、一般普遍的な宗教の資格を欠くものであり、中国で成立した本来の「禅」の在り方から堕落したものである。

因みに、一般的に精神的・心理的な範疇の概念だと誤解されている「悟り」「(しん)」「解脱」「三昧」などの仏教要語は、上述のような宇宙・大自然の絶対的な在り方・様相(尽十方界真実)を意味する言葉であって、決して人間の自我活動に起因する精神・心理上の事象を表現するものではない。


最後に、改めて、何故このような坐禅をするのかと言えば、上述のように、本来我々の身体は大自然にただ生かされて生きているのだという事実をよく知って、日頃我が儘勝手に使っているこの身体を大自然の本来の在り方に返すということである。そして生命の表情に過ぎない自我意識に振り回されないことを努力することである。

ここで振り回されないということの意味は、無理に喜びを抑え悲しみを堪えるということではない。喜びも悲しみも生命の表情であるからその時の姿として素直に表情として表せばいいのであるが、あくまでそれは一時の表情であって、生命(身体)そのものを見失わないようにすることである。  実際に坐禅をしてみて、初めて日頃の我々の自我活動の実態がよく分る。大自然に生かされて生きている本来の身体というものは、我々の身体において自我活動を開始していない状態・在り方を言うのであり、坐禅は身体が身体本来の在り方を努力する姿である。

日頃我々が自分の欲望満足の追求が出来るのも、我々の意志意欲に関わりなく我々の身体が休むことなく活動しているお蔭である。我々は日頃の自分の身体に対して報恩感謝すべきであり、その唯一の方法が坐禅により身体を本来の自然の在り方に返すことである。我々のこの身体の本来の在り方(尽十方界真実人体)を「仏」と言うのであり、仏に対する信仰の表現が坐禅である。

 



ページの先頭へ

『普勧坐禅儀』の解説 T坐禅総説

解説『普勧坐禅儀』目次