U、『普勧坐禅儀』の本文解説
『新普勧坐禅儀講話』(小倉玄照著・誠信書房)は、東晋の道安(314〜385年)が確立した経典註釈の伝統的手法「三分科経」に基づき、『普勧坐禅儀』の構成を三段落(序分・正宗分・流通分)に分けている。 本書もこれに倣って、以下の段落(一)〜(七)を「序分」(経説の由来・因縁の叙述)、(八)〜(十一)を「正宗分」(本論)、(十二)〜(十六)を「流通(ルヅウ)分」(結論。経説の功徳の叙述及び流布の勧進)とする。
〔一〕、序分(経説の由来・因縁の叙述)
〔一〕、序分
以下(一)〜(七)は、総じて坐禅の意義・教理などが説かれている。
(一)【本文】原ぬるに夫
( れ、道本( 円通( 、争( か修証( を仮( らん。
【意訳】 「原」点(もともと)に帰って考えてみれば、一体、「道」即ち宇宙・大自然の生命活動乃至在り方(尽十方界真実)は、本来、「円通」即ち人間の自我等は関係なく行き詰まりというものが無い。
どうして殊更「修証」即ち「精神的なさとり」を求める修練の必要などあろうか(そのようなさとりを求めるような修練など必要ない)。<註> 「道」は言う、言葉、真実などの意味があるが、ここは真実或いは仏道即ち尽十方界真実の意。上述「正伝の仏法」の(ロ)「尽十方界(真実)」「心」、「尽十方界真実人体」「仏」参照。
「争か〜らん」は古文法における反語で、「如何して仮る必要があろうか、いや必要は無い」の意。次の「何ぞ〜ん」も同じ。
なお「本」は「ほん」ではなく、「もと」(本来)と訓む。「ほん」と言えば、「道の根本」という意味になってしまい、ありとあらゆるものが仏法(尽十方界真実)である事実に反する。仏法には、本体と現象という考え方は無い。
また、ここの「修証」は心理的なさとりを求める修練を意味し、本来の尽十方界真実(宇宙・大自然の在り方・姿)を実践する修行という意味とは異なる。
(二)【本文】宗乗( 自在、何( ぞ功夫( を費( さん。
【意訳】 「宗乗」即ち生きているという最も大切な大自然の働き・在り方は、「自在」即ち自我意識を超えた身体の生命活動であって、殊更「功夫」即ち意識的に特別な修練をしなければならないということはない。
<註> 「宗乗」は曹洞宗においては、特に「道元禅師の教義」というような用語法もあるが、ここは本来的意味で最も大切な大自然の働き・在り方の意味である。
「功夫」は本来修行に精進すること、或いは坐禅のことであるが、ここは上記のように自我意識が介在する特別な修練の意味。
(三)【本文】況( んや、全体迥( かに塵埃( を出( ず、孰( か払拭( の手段を信ぜん。大都( 、當處( を離れず、豈( に修行の脚頭( を用うる者ならんや。
【意訳】 まして、「全体」即ち尽十方界乃至尽十方界真実人体には、「塵埃」即ち人間の自我意識に基づく概念である汚れやゴミ、是非、善悪などは本来存在しないから、誰も「払拭の手段」即ち最初から存在する筈も無いゴミの清掃の方法など信じることなどない。
「大都」即ち尽十方界真実人体における本来の在り方・姿というものは、「當處を離れず」即ち尽十方界真実人体の生命活動そのまま(當處)に任せる(離れず)だけでよい。
尽十方界真実人体(本来の在り方そのもの)は、決して「修行の脚頭を用うる」即ち所謂「さとり」を得る為の手段として修練(看話禅)して得られるものではない。<註> 「孰か〜ん」は反語で、「孰も〜ない」。同様に「豈に〜や」も反語で「決して〜ない」。また「脚頭」は修行の意であるが、「脚」は「行脚(アンギャ)」、「頭」は接尾辞。
(四)【本文】然れども毫釐( も差有れば天地懸( に隔たり、違順( 纔( かに起れば、紛然( として心( を失す。
【意訳】 しかしながら、「毫釐も差有れば」即ち一寸でも間違って自我意識が介入すると、本来の尽十方界真実人体(大自然の生命活動そのまま)の在り方からは天地の開きほどに大きく乖離してしまうことになるし、「違順」即ち自分の意に反するとか適うとか、或いは好き嫌いだとかの自我意識が少しでも働くと、染汚(自己満足的)となって、「心」即ち尽十方界真実(本来の大自然の生命の在り方)が失われる。
<註> 「毫釐」は毫も釐も細い毛。毫は蚕の口から出る糸十糸、十毫を一釐という。少し。わずか。また極めてわずかなものの形容。
「天地懸に隔たり」は天地の間隔の測りがたいほどのへだたり。
「毫釐も差有れば、天地懸に隔たり」は、『信心銘』(三祖鑑智僧サン(カンチソウサン))の言葉。
「違順」は、「違」は意に反する、「順」は意に適うこと。「紛然」はごたごたする、入り混じって乱れている様。
「心」は上述「正伝の仏法」の(ロ)「尽十方界(真実)」「心」、「尽十方界真実人体」「仏」参照。
(五)【本文】直饒( 会( に誇り悟( に豊かにして、瞥地( の智通( を獲( 、道( を得、心( を明めて、衝天( の志( 気( を挙( し、入頭( の辺量( に逍遥( すと雖( も、幾( ど出身の活路を虧闕( す。
【意訳】 たとえ、「会」即ち仏法を会得したと誇り、「悟」即ちさとった(精神上のさとりで本当の悟ではない)と自己満足し、「瞥地の智通」即ちちらっと仏法を垣間見て、「道を得」即ちこれこそ真実と思い、「心を明らめ」即ち本来の生命の在り方が解ったと思って、「衝天の志気を挙す」即ち有頂天になり、「入頭の辺量に逍遥す」即ち真実のほんの一端に触れていい気分で楽しんでいても、「出身の活路」即ち自我意識乃至自己満足を放棄して本来の生命の在り方へ帰る方法が、殆ど「虧闕」即ち抜け落ちてしまっている。
<註> 「会」は理解、領解する。会取。会得。ここの「悟」は精神上のさとり。上述「正伝の仏法」の(ハ)精神上の「迷」「さとり」と真の「悟」参照。
「瞥地」地をチラッと見る。「智通」は会得、またはさとること。
「心」は尽十方界真実で、こころではない。
「衝天の志気」は天をも衝こうとする壮大な意気。
「入頭の辺量」は、真実のほんの一端に触れること。
「逍遥」はいい気分でぶらぶらする。
「出身」は自我意識を放棄すること。
「虧闕」は抜け落ちる、欠けること。
(六)【本文】矧( んや彼( の祇園( の生知( たる、端( 坐( 六年の蹤跡( 見つ可( し。 少林( の心印( を伝うる、面壁( 九歳( の声名( 尚聞こゆ。 古聖( 既に然り。今人( 盍( ぞ弁ぜざる。
【意訳】 「祇園の生知」即ち生まれながらの聖者であったお釈迦様が、尽十方界真実の実修実証である正身端坐を六年も修行された在り方を見れば明らかであろうし、正伝(生命本来の在り方)の仏法を中国へ伝えられた菩提達磨大師が、少林寺で、九年に亘って「心印」即ち坐禅(無所得・無所悟の只管打坐)を行じられた有名な故事からも偲ばれる。
「古聖」即ちお釈迦様や達磨大師のような昔の聖人は坐禅を努められた。
まして「今人」即ち今時の我々凡夫が、如何して身体本来の在り方を実践する坐禅を努めないでよいものだろうか(大いに努めなければならない)。<註> 「祇園」は祇園精舎。祇園に建てられた精舎(仏教寺院)。釈尊は、生涯の後半二〇余年の雨期には多くをここで過したという。
「生知」は生まれながらにしてさとること。生来の知者。
「少林」は嵩山の少林寺。二祖慧可が断臂した伝説も伝えられる。
「心印」は仏心印の略。仏印とも言う。印は印可・印証で、師と弟子が相契合(感応道交)すること。
仏の拈華を摩訶迦葉が微笑することによって仏心を印証され、それが歴代の祖師を通じ、以心伝心によって伝えられてきた。端的には坐禅のことである。
「面壁九歳」は面壁九年。九年間達磨大師が面壁即ち壁に向かって坐禅したという故事。
「盍」は反語。
(七)【本文】所以( に須( らく言( を尋ね語を逐( うの解( 行( を休すべし。 須らく回光( 返照( の退歩( を学すべし。 身心( 自然( に脱落して、本来の面目( 現前( せん。 恁麼( の事( を得んと欲せば、急に恁麼( の事( を務( めよ。
【意訳】 だから、当然、「言を尋ね語を逐うの解行」、即ち言葉の観念的理解に終始するような学問(概念)仏教は止めるべきである。
そして是非「回光返照の退歩」即ち尽十方界真実人体である身体本来の生命活動(大自然)の在り方に任せる修行(坐禅)を実践すべきである。
(坐禅すれば、)身体は「自然に脱落」即ちおのずから自我意識を超越した尽十方界真実人体そのものに立ち帰り、「本来の面目」即ち大自然の生命本来の相・在り方(ただ生きている在り方)になっているのである。
「恁麼」即ちこのような大自然の生命本来の在り方・尽十方界真実人体そのものに立ち帰りたいと思うなら、直ちに「恁麼」即ち尽十方界真実(無所得・無所悟の大自然の生命の在り方)を実修実証(坐禅)しなければならない。<註> 「須らく」は当然、是非。「解行」は分別知識の上でのみ理解しようとすること。
「回光返照」は光輝いていた太陽が西に沈むとき、空が反射で明るく光ること。転じて、外に向かう心を翻して、内なる本来の自己(生命本来の姿)に帰ること。
「退歩」は歩を退く、即ち本来の姿に戻ること。本来の自己に帰家穏坐すること。
「脱落」は上述「正伝の仏法」の(ニ)「解脱」「脱落」「三昧」参照。
「恁麼」は尽十方界真実の事。本来の姿。もともと宋代の俗語で、このような、そのとおり、どんな、何れ等の代名詞。名称以前、概念以前のナマの真実。『正法眼蔵』「恁麼」巻がある。
雲居道膺(ウンゴドウヨウ)(〜902)の示衆の一句「恁麼の事を得んと欲せば、須らくこれ恁麼人なるべし。既にこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼の事を愁へん」を出典とする。
〔二〕、正宗分
(八)からは、坐禅の具体的実際的な方法などが説かれる。上述(二)坐禅儀の(イ)「正身端坐」参照。
(八)【本文】夫れ参禅は静室
( 宜しく、飲食( 節( あり。 諸縁を放捨( し、万事を休息して、善悪を思わず是非を管( すること莫( れ。 心( 意識の運転を停( め、念想( 観の測量( を止( めて、作仏( を図ること莫れ。 豈坐臥( に拘( らんや。
【意訳】 さて、「参禅」即ち坐禅の具体的な方法であるが、まず静かな所がよろしい。「飲食節」即ち坐禅するにあたり過食や空腹状態はよくない。
「所縁を放捨し、万事を休息」即ち坐禅の姿が、そのまま日常生活の様々な関わりを全て放擲し全ての自我活動を棚上げしてしまった姿なのである。従って坐禅中は、物事の善し悪しや正誤とかの様々な分別判断・取捨選択の思いが脳裡に浮かんできてもそのままにして、取り合わない。
「心意識の運転」即ち身体の生命活動に伴う脳の生理現象である自我意識が活動を始めてもそれに引きずられず、「念想観の測量」即ち様々な精神集中の方法等により特殊な心理状態になろうとする計らいを止める。また「作仏を図ること莫れ」即ち自分で勝手に考えた仏の理想境地のようなものになろうとしてはならない。
つまり仏になろうなどと考えなくとも、坐禅そのものが「莫図作仏」(原漢文)、即ち絶対的な作仏の姿勢(尽十方界真実人体の姿)そのものである。
(坐禅は、)決して「坐臥」即ち行住坐臥(日常の自我意識が支配する生活姿勢)の一つの姿勢である「坐」とは違うのである。<註> 「参禅」は坐禅である。『正法眼蔵』「坐禅儀」には明確に「参禅は坐禅なり」と説示されている。因みに「参」とは専ら行ずるの意味もあるが、あくまで皆が一緒に坐ることである。
「諸縁を放捨し、万事を休息」については、『御抄』は坐禅することが「諸縁を放捨し、万事を休息」することになり、坐禅の姿そのもののことであるとしている。
「善悪を思わず、是非を管すること莫かれ」は、本来原漢文の「不思の善悪、莫管の是非」であり、「不」も「莫」も否定の意味ではない。大自然の絶対的な働き・姿を意味する。即ち「不思」「莫管」とは「自然のまま」という意味で、坐禅の時、善・是が起きて来ようが、悪・非が起きて来ようが、分別判断はそのままにして取り合わないことである。
「心意識」は心・意・識を厳密に区別することなく、思慮分別の意味を総称した自我意識をいう。「運転を停め」の「停め」とは通常の「中止する」ことではなく、身心脱落の意味である。即ち生ずる儘、滅する儘の自然のありのままの姿のことであり、本当の意味の「無念無想」のことである。「念」が生じること自体は生理現象であるから止められない。ただ一度生じた念を追いかけないようにするだけである。そのためには後述の正身端坐して組んだ手の形を正しく保つ努力をするのである。
「念想観」は思慮分別をめぐらしてある一つの観念をすること。「作仏を図ること莫れ」は、原漢文の「莫図作仏」。「莫」は上記の通り、大自然の絶対的な働き・姿を意味。「図」は、図るという意味ではなく、描く、〜の図、〜の姿勢の意。従って「図作仏」は身体で仏を作る姿勢、作仏を描くの意。「莫図作仏」は絶対的な作仏の姿勢即ち尽十方界真実人体の姿である。上述(二)坐禅儀の(へ)「図作仏」「磨G作鏡」「坐仏」参照。「坐臥」は行住坐臥。日常の自我意識が支配する生活姿勢。
(九)【本文】尋常( 坐處( には厚く坐物( を敷き、上に蒲団( を用う。 或は結跏( 趺( 坐( 或は半( 跏( 趺坐。 謂( く結跏( 趺( 坐( は先ず右の足を以て左のモモの上に安じ、左の足を右のモモの上に安ず。 半( 跏( 趺坐は但だ左の足を以て右のモモを圧( すなり。 寛( く衣帯( を繋( けて斉( 整なら令( むべし。 次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌( を右の掌の上に安( じ両( の大拇指( 面( いて相( サソう。 乃( ち正身( 端坐して左に側( ち右に傾き前( に躬( り後( に仰ぐことを得ざれ。 耳と肩と対し鼻と臍( と対せしめんことを要す。 舌上のアギトに掛けて唇歯( 相著( け、目は須らく常に開くべし。 鼻息( 微( かに通じ、身相( 既に調えて欠気( 一( 息( し、 左右揺振( して兀( 兀として坐定( して、箇( の不思量底( を思量せよ。 不思量底如何( が思量せん。 非思量( 。 此れ乃ち坐禅の要術なり。
【意訳】 「尋常」即ち通常、坐禅する場合には、厚い「坐物」即ち座褥(ニク)(座布団)を敷いて、その上に坐蒲(ザフ)を置いて坐る。坐り方には、結跏趺坐と半跏趺坐とがある。結跏趺坐というのは、先ず右の足を左のLの上に置き、左の足を右のLの上に置く。半跏趺坐はただ左の足を右のLの上に置くだけである。 「衣帯」即ち着衣は窮屈でなく、しかもだらしなくならないように整えて着る。
次に右の手を左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置く。両の親指の先をそっと付け合せ円相を作る。こうして正身端坐をするのであるが、左に傾いたり右に傾いたり、前かがみになったり、後ろへ反りかえったりしてはならない。耳と肩とが対し、鼻と臍とが対するようにする。舌は上顎に付け、唇も歯も上下合わせて閉じる。目は普通に自然のまま開く。呼吸は鼻で意識せず自然にする。
坐禅の姿勢が整ったら、「欠気一息」即ちはぁーと大きく息を吐き、左右に身体を揺すって坐を安定させてから、「兀兀」即ち不動の姿勢を努力する。
そうして「箇の不思量底を思量」即ち自我意識の活動による仕事は一切しない(アタマ手放し)で、大自然の本来の身心の在り方(尽十方界真実)をそのまま努める。「不思量底如何が思量せん」即ちどうすることも出来ない大自然そのままの(自我意識を働かせない)状態であればよい。「非思量」即ち大自然に生かされて生きているそのままの姿である。
これが正に坐禅の「要術」即ち肝心かなめの構えである。<註> 「衣帯」は僧尼の着る衣服・腰帯の総称。
ここの箇所については、前述(二)坐禅儀(イ)「正身端坐」及び(ハ)「非思量」「不思量」参照。
(十)【本文】所謂( 坐禅は習禅( には非ず、但是れ安楽の法門なり。 菩提( を究尽( するの修証なり。 公案( 現成( 羅籠( 未( だ到らず。 若( し此の意を得ば龍の水を得るが如く虎の山に靠( るに似たり。 當( に知るべし正法( 自( ら現前し昏散( 先ず撲落( することを。
【意訳】 所謂正伝(本来の生命の在り方を努める)の坐禅は、決して「習禅」、即ち「さとり」を手に入れる或いは特殊な心境になる目的を以て修練する自己満足追求のための座禅(看話禅)などではない。正にこれは、「安楽の法門」即ち人間の策略でどうする事も出来ない大自然の生命の本来の在り方そのものである。
「菩提を究尽するの修証」即ち尽十方界真実(宇宙・大自然)の本来の在り方をそっくりそのまま実践(実修実証)することである。
「公案現成」即ちそれはそのまま宇宙・大自然である尽十方界真実人体の実態であり、「羅籠未だ到らず」即ち生命活動の一時の表情に過ぎない自我意識が入り込む余地の無い本来の生命の在り方である。
若しこのような尽十方界真実人体ないし只管打坐の信仰を素直に頂く事ができれば、龍が水を得、虎が山に放たれたように、大自然にただ生かされて生きている我々の身心本来の在り方即ち尽十方界真実人体がそこに実現するのである。
(実際に坐禅をしてみれば)本当に分かるだろう。(坐禅の時、)「正法」即ち本来の自己である尽十方界真実人体が自然に実現しており、「昏散」即ち様々な心理現象も、身体の生命活動のその時々の単なる一時的な表情に過ぎないものであって、消失してしまうということが。<註> 「習禅」については、上述(三)禅の偏向(看話禅)参照。
「安楽」とは人間の策略でどうする事も出来ない大自然の在り方、本来の姿。「菩提」は尽十方界真実のこと。「究尽」は尽十方界真実の働きを全部頂くこと。「公案現成」については、酒井老師の「現成公案」巻の提唱録『安心して悩め』(大法輪閣)に於ける解説を紹介する。
つまり、「現成」とは、「現実そのままが完全なもの、仏の姿である」ということであり、「現」は「目前に展開している生の姿」、「人間の思惑(自我意識発現)以前のそのままの姿」を意味している。但し「隠顕」、即ち「隠れていたものが表に顕れる」ということではない。また「成」は「成仏」の成であり、「完全」という意味である。つまり目前に展開している事実が全て完全な事実であるということである。
次に、「公案」とは、「目の前に展開している現実の実態」のことである。即ちあらゆるものが如何なる状態にあっても全て真実であり、常に現実は変化している。しかもこのような事実の在り方自体は永久に変化しないということである。ここの「公」は「平と不平」ということ、即ち凸凹を平均するのではなく、凸は凸のまま凹は凹のままという意味であり、所謂「公平」という意味ではない。つまり「此の世に同じものは一つもない」という絶対事実としての現実を表現している。また「案」は、「守分」ということであり、「平は平、不平は不平、各々が絶対的である」という事を意味している。これについて「高所は高平、低所は低平」という有名な言葉があり、高いものを崩して低くすることではないことを表している。以上のことから、「現成」も「公案」も結局同じ「尽十方界真実の実態」を表現しているのである。
因みに、「公案」の意味について、元の時代、臨済系の中峰明本(1263〜1323年)の『広録』中の『山房夜話』に「公案とは乃ち公府の案牘に喩るなり」とある(「公府」は政府のこと、「牘」は立札のことを指す)が、時間的にこれに先立つ『正法眼蔵聴書抄(御抄)』(1303〜1308年)は、「現は隠顕にあらず、成は作学にあらず。公と云うは平等の義也、案と云うは守分の義也。平不平を名けて公と曰ふ、守分を名けて案と曰ふ」と解釈しており、酒井老師は『御抄』説の方を中峰の解釈に当然先立つものとして採られている。「羅籠」は、羅は鳥の網、籠はかごのこと。網やかごに入れられて身動きならぬさまから、身心の自由を妨げる自我意識を意味する。
「龍の水を得るが如し」は本来の在り方に安住していること。自己の本来の生命活動に還ったこと。「虎の山に靠るに似たり」は獰猛精悍な虎も、山に靠らなければ、その本分を発揮することが出来ない。学人も坐禅をしてこそ、自我意識発現以前の本来の尽十方界真実人体であり得る。「正法」は尽十方界真実人体。
「昏散」は昏沈散乱の略。昏沈は心が朦朧として活気のないこと。散乱は心が外物を追う逐うて乱れ平静さを欠くこと。「撲落」はもぬける。無くなる。
(十一)【本文】若し坐より起( たば徐徐として身を動かし安祥( として起つべし 卒暴( なるべからず。
【意訳】 若し坐禅を止めて、起つ場合は、ゆっくりと左右に上体を揺すって、「安祥」即ち静かに穏やかに起つようにする。決して「卒暴」即ち粗暴な身のこなしをしてはならない。
<註> 一般に、坐禅を止める時(出定)は、両手を掌を上向けて両膝の上に置き、始める時(入定)と反対に始め小さく、段段に大きくからだを左右に揺すって、その後口を開いて息を吐き(欠気一息)、両手を伸ばして地を押さえ、軽々と座を起つ。…(瑩山禅師の『坐禅用心記』の趣意)
〔三〕、流通分
以下は、補足的に坐禅の功徳を説明すると共に、坐禅の普及を強く勧めている。
(十二)【本文】嘗
( て観る超凡越聖( 坐脱立亡( も此の力に一任することを。 況んや復( 指竿( 針鎚( を拈( ずるの転機、払拳棒( 喝( を挙( するの証契( も、 未( だ是れ思量分別の能( く解( する所に非ず。 豈神通( 修証の能く知る所とせんや。 声色( の外( の威儀( たるべし。 那( ぞ知見( の前( の軌則( に非ざる者ならんや。
【意訳】 禅の歴史を考えて見れば、「超凡越聖」、即ち凡夫だ聖人だという人間の自我意識に基づく分別・概念を超えた生命本来の在り方は、尽十方界真実人体そのものを行じる坐禅によってこそ現実のものとなるのであり、また古人の中には、「坐脱」即ち端坐したまま命終したり、「立亡」即ち立ったまま息絶えた人もいるが、彼等は特に奇跡を現じたのではなく、彼等の坐禅人としての修行生活が徹底していた現れなのである。
まして師家が学人を接得する手段とも成り得た、例えば「指竿針鎚」、即ち、倶胝(グテイ)イ和尚の「指」一本突き立てるだけの説法(所謂「倶胝一指頭禅」)や、迦葉(カショウ)尊者に門前の刹「竿」(説法旛)を倒せと言われた阿難(アナン)の大悟、或いは、互いに道友である洞山良价(トウザンリョウカイ)と神山僧密(シンザンソウミツ)が把「針」(ハシン)(裁縫)の折に仏道を確認したり、迦葉尊者が安居(禁足修行期間)中所在不明の文殊大士を詰問し、「鎚」を打って道場から追放しようとした故事などに見られる「転機」即ち当意即妙の働きはもとより、手荒い指導手段である「払拳棒喝」、即ち羅漢桂チン(ラカンケイチン)の「払」子(ホッス)の豎起(ジュキ)や、趙州(ジョウシュウ)が真の道人か否かを試した二人の庵主の「拳」頭の豎起(拳固を突き上げる仕草)の相違、或いは学人を打擲して鍛えた徳山宣鑑(トクザンセンカン)の「棒」や激励・叱咤するための臨済義玄(リンザイギゲン)の「喝」など、数々の師弟の「証契」即ち只管打坐を実践する者にして始めて得られる師弟間の修行・信仰の一致は、全く坐禅の実修実証における尽十方界真実の働きであって、人間の思慮分別で観念的に理解・納得する次元のことではない。
「神通修証」即ち坐禅に非科学的・神秘的な奇特玄妙の心理状態になることを期待して修練する者には決して想像もつかない大自然そのものの働きである。
つまり「声色の外」即ち人間の感覚を超えた、「威儀」即ち尽十方界真実そのものである偉大な姿・形(坐禅)なのである。
要するに、「知見の前」即ち思慮分別に基づく知識見解以前の「軌則」即ち大自然の法則(尽十方界真実)なのである。<註> 「指竿針鎚」は師家が学人を接得する種々の手段。「指」については『正法眼蔵三百則』第二百四十六則、「竿」については同第六十九則、「針」については同第九十三則、「鎚」については『正法眼蔵』「安居」巻参照。「払拳棒喝」は師家の修行僧を導く手段。「払(子)」については『正法眼蔵三百則』第二百二十九則、「拳」については同第二百八十二則、「棒(警策)」については同第三十一則、「喝」については臨済録参照。
「証契」は、証はさとり。契はかなう。資(弟子)の証が師の証に相適うこと。師資二面なく、一如の時をいう。「神通」は神変不可思議・無礙自在な力用。「声色」は六境(色声香味触法)のこと、感覚。「威儀」は、「威」は偉大、「儀」は作法・かたち、偉大な形。即ち威は儀、儀は威である坐禅のこと。「知見」は自我意識の所産である知識見解。「軌則」は軌範法則・事理の意。知見解会を離れた尽十方界真実。
(十三)【本文】然れば則ち上智下( 愚( を論ぜず、利人鈍者( を簡( ぶこと莫れ。専一( に功夫せば正に是れ弁道なり。 修証自( ら染汚( せず、趣向( 更に是れ平常( なる者なり。
【意訳】 そういう訳(坐禅は人間の自我意識を超えた尽十方界真実の実践)であるから、「上智下愚」即ち人間の自我の世界における賢愚は問題にならないし、「利人鈍者」即ち才気・学問の有無等も関係がない。
誰でも「専一に」即ちただ自我意識を放棄・超越して「功夫」即ち正身端坐を努力すれば、まさしく「弁道」即ち尽十方界真実(宇宙・大自然の本来の姿)を実践しているのである。
「修証」即ち身体の生命活動そのものを行ずることは、自然に「染汚」即ち脳の生理現象に過ぎない自我意識を超えており、「趣向」即ち修行の方向は人間の自我意識を超えた「平常なる者」即ち平常底の生命の事実、身体本来の生命の在り方を行ずることである。<註> 「弁道」は、「道」即ち尽十方界真実を努力する事。仏道に精進すること。「染汚」は自我意識が働く事。分別を以て汚すこと。「不染汚」は無為であり、意志意欲以前の尽十方界に生かされている本来の自己、尽十方界真実人体。「趣向」は目標を持って修行すること。「平常」は平常底、平常心是道即ち尽十方界真実。大自然本来の在り方・姿。
『正法眼蔵三百則』上巻第十九則の南泉・趙州師弟の問答を以下に挙げる。
趙州が南泉に問う「如何なるか是れ道(仏法)」。泉云く「平常心是道」。州云く「如何が趣向すべき(自分はこれから、一体何を目標に修行すればよいでしょうか)」。泉云く「向かわんと擬すれば便ち背く(こう在りたいと努力すれば、却って平常心から離れる)」。州云く「擬せずんば、いかでか道なることを知らん(模索の努力がなければ、一体、どうして、これこそが真実・平常心であると納得できるのでしようか)」。泉云く「道は知にも属せず、不知にも属せず(真実は、感覚の対象となるものではない。分かった分からないの問題ではない)。知は是れ妄覚(分かったということは自我意識であり、自分が勝手に納得しただけである。妄は主観的な判断、独断)、不知は是れ無記(分からないのは何も無いこと。知で生活活動を営む。不知のところでは生活(意欲)活動はない。不知なことは、全く自分とは無関係で無記である。自我意識の活動は、常に知と不知とを手足にしている。知も不知も自我意識のその時々の姿である)。若し不擬の道(不擬は「絶対信(後述「信」参照)」の在り方、尽十方界真実である身体本来の在り方。所謂平常底の生命の事実。)に真達(身体本来の生命の在り方を行ずる。後述「只管打坐」)せば、猶大虚(広大無辺。大空)の廓然蕩豁(カクネントウカツ)(何とも手応え無しの平常底。只管打坐の実態)なるが如し。豈強いて是非すべけんや(只管に徹底せよ)」。州、言下に頓に玄旨を悟る。
(十四)【本文】凡( そ夫れ自界( 他方 西天( 東地等しく仏印( を持( し、一( ら宗風を擅( にす。 唯( 打( 坐を務めて兀地に礙( えらる。 万( 別千差( と謂( うと雖も、祗管( に参禅弁道すべし。 何( ぞ自家( の坐牀( を抛却( して、謾( りに他国の塵境( に去( 来( せん。 若し一歩を錯( れば當面( に蹉( 過( す。
【意訳】 大体、「自界他方」即ち尽十方界において、「西天東地」即ちインド、中国、日本を問わず、仏道修行者は等しく「仏印」即ち生命本来の在り方である只管打坐を行じることにより、「一ら」即ち全て、「宗風」即ち宇宙・大自然の生命本来の在り方を遺憾なく発揮してきた。
ただ正身端坐を努力すれば、「兀地に礙えらる」即ち自ずから本来尽十方界真実人体を実修実証する坐禅が現成している。「万別千差」即ち人間の機根は千差万別であっても、誰でも尽十方界真実(宇宙・大自然の生命本来の姿)を行ずることが可能なのだから、「祇管に参禅弁道」即ち只管打坐の坐禅を努力すればよいのである。
如何して「自家の坐牀を抛却」即ち尽十方界真実人体である本来の自己に帰る努力(帰家穏坐)をしないで、徒に「他国の塵境に去来」即ち自分勝手なさとり(理想)を求める必要があろうか、そんな愚かな事をする必要は無い。
もし「一歩を錯れば」、即ちさとりを求めるような間違った修練に趣けば、「当面に蹉過」即ち忽ち本当の坐禅から外れて踏み誤ってしまう。<註> 「自界他方」は、「自界」は我々の住む娑婆世界、「他方」は十方諸仏の世界、即ち尽十方界(宇宙・大自然)のこと。「西天東地」はインドと中国。「仏印」は仏たる標印、即ち坐禅。「一」は全ての意。「宗風」は家風、禅風即ち尽十方界真実のこと。「礙えらる」は邪魔する意。正身端坐そのものに邪魔されて、坐禅そのものになること。
(十五)【本文】既に人身( の機要( を得たり、虚( く光陰を度( ること莫れ。 仏道の要機を保( 任( す。 誰( か浪( りに石火( を楽まん。 加以( 形質( は草露( の如く、運命は電光に似たり。 シュク忽( として便( ち空( じ須臾( に即ち失す。
【意訳】 我々は、「人身の機要を得たり」即ち尽十方界真実人体を恵まれているから、何時でも生命本来の在り方に帰る事ができる。折角頂いた大自然のいのちを、「虚しく光陰を度ること莫れ」即ち徒に自己満足追求(さとりを求める)の為に費やすべきではない。
「仏道の要機を保任」、即ち仏道は自己満足追求の放棄を最も大切にしなければならない。誰でも無常の命を生きているのだから、決して「石火」即ち瞬時の満足(さとり)を追求するだけであってよいものではない。
そればかりではない。「形質」即ち身体は草葉の露のように脆いものであり、「運命」即ちいのちは稲光に似て儚いものである。いのちは「シュク忽」即ちたちまちにして尽き(「空じ」)、身体は「須臾」即ちあっという間に滅びてしまう。<註> 「機要」は、機は枢機、要は肝要。もっとも大切で肝要なこと。「要機」は最も肝要なこと。「保任」は保護任持の略。おのれのものとして大事にすること。「電光」は稲光り。須臾、シュク忽のたとえ。「須臾」は、(一)時間の小単位。極小単位である刹那の120倍を恒刹那といい、恒刹那の30倍を一須臾という。(二)しばらく。ごく僅かの時間。(三)すみやかに。とみに。
(十六)【本文】冀( くは其れ参学の高流( 久しく摸象( に習つて真龍を恠( しむこと勿れ。 直指( 端的の道に精進し、絶学無為( の人を尊貴( し、仏( 仏の菩提に合沓( し、祖( 祖の三昧( を嫡嗣( せよ。 久しく恁麼( なることを為( さば須く是れ恁麼なるべし。 宝蔵( 自ら開( けて受用( 如意( ならん。
【意訳】 どうか、「参学の高流」即ち仏道を学ぶ修行者の方々に、お願いしたいものだ。これからもずっと、「摸象に習って」即ち迷悟・喜怒哀楽など一時の生命活動の表情・景色に振り回されずに、自我意識発現以前の生命本来の尽十方界真実(人体)を実践していただきたい。また「真龍を恠しむこと勿れ」即ち自分が理想とするさとりを得ようとするような自己満足追求を放棄して、本来の尽十方界真実(真の悟)を実修実証してもらいたい。
そして「直指端的の道」即ち尽十方界真実の実践そのものである只管打坐の坐禅を努め励むと共に、「絶学無為の人」即ち仏(尽十方界真実人体)を尊重し、「仏仏の菩提」即ち全ての真実実践者の真実の修行生活に、自らを「合沓」即ち重ね合わせ、「祖祖」即ち歴代の仏祖方(仏と祖師)の「三昧」即ち正伝の坐禅を正しく受け継いでもらいたい。 とこしえに、「恁麼なること」即ち尽十方界真実の実践(坐禅)に徹するならば、まさに「恁麼」即ち仏(尽十方界真実人体)が実際に実現しているであろう。
そしてその時、「宝蔵」即ち我々にとって最高の宝である身体本来の生命活動により、「受用如意」即ち自我意識が支配する人生(人間生活)は棚上げされて、誰でも自我(人間生活)に伴う行き詰まりが自然に無くなっているのである。<註> 「参学の高流」は参禅し仏道を学ぶ人びとの尊称。「高流」とは参禅する修行者を尊敬した語。
「摸象」は、「群盲、象を摸す」の故事。即ち大勢の盲人が象の体を撫でて、それぞれ自分の触れた部分だけで大きな象の全体を判断した気でいるように、真実(生命活動)の一時の表情だけに振り回されて、真実(生命活動)全体を見失う事。
「真龍を恠しむ」は、「葉公(セツコウ)愛龍」の故事に基づく語。春秋時代、楚の人、葉公子高は、龍を愛し、居室に龍の彫刻・絵画を掲げて愉しんでいた。天の真龍がこれに感じ降ってきたところ、子高は本当の龍を見て驚き失神したという。自分の好みだけを追求する自我・人間性。「直指」は直ちに指し示すこと。「直指端的の道」は坐禅のこと。
「絶学無為」は、『証道歌』(永嘉玄覚 675〜713年)の冒頭「君見ずや、絶学無為の閑道人、妄想を除かず真をもとめず」から引用。「嫡嗣」は正しい血筋の跡取。嗣法の弟子。嫡子。「受用如意」は自分の思うままに、自由自在に使用すること。