正伝の仏法

(参考)


  以下に述べる事は、拙著『入門・仏法と坐禅』からの引用である。



 

(一)「我(自我意識)」とからだ

    我々は、通常、日常生活の中で自分の「からだ」や自分が「生きている」という事実について凡そ真剣に考えた事がない。

    「こうしたい」「こうありたい」「あれが欲しい」というようなことばかり考えて、滅多に我々が生きているということが如何いうことか、深く考えてみようなどと思いもしない。

    例えば、我々は、夜寝る時に、翌日目が覚めないなどと凡そ思いもしない。

    どんな時でも無意識に自分が生きていることを前提にものを考えており、自分の生命の無事について全く疑わないのが我々の通常の在り方(この事実を「信」と言う)である。

    また、日中、脳の生理現象である自我意識の「我」が、まるで自分のからだのことなど全く考えず支配者の如く振舞っているが、夜疲れて眠りに落ちると「我」は消えてしまう。

    しかし、心臓や肺などからだの臓器は生涯休まず活動し続けているのが実態である。

    我々は、日頃「我が」「俺が」と自我意識が全てであるような意志・意欲生活を送っているが、実際は全て「からだ」のお蔭で自己満足追求の人生を送れているのである。

 

(二)からだと宇宙・大自然

 

    (イ)ただ生きている

      さて、我々が生きているということは一体如何いうことであろうか。

      しばしば哲学上の問題として「人は何のために生きているのか」ということが取り上げられたりする。

      また我々は、失意の時、何のために生きているのかと真剣に悩む事がある。

      一般的に人間というものは、生来、何か目的や目標或いは理想というものがないと生きていけないように思い込んでしまっている。

      しかし、自然の中の鳥や動物達は、生まれてきて、その時その時の現実の環境の中で、恐らく彼等自身の過去や将来のことなど考える事なく、ただ現在いのちがあるから、現在を生きているだけだというような生き方をしていると思われる。

      多分人間の自我意識のような強い「我(自我意識)」は殆ど意識されないのであろう。

      考えてみれば、本来この世界に存在するものは、生物も無生物も、全て環境と一体で「ただ」生きている、或いはただ存在している(この事実を「無所得・無所悟」と言う)のである。

      つまり我々が住むこの地球を含む広大な宇宙・大自然が、生物や無生物などありとあらゆるものを生かし、存在させているのである。

      しかし宇宙・大自然には、人間が考えるような意味での目的や目標など当然存在しない。

      人間の目標や目的などは、どんなに高邁なものであっても、人間の生理現象である自我意識の所産に過ぎない。

      ところが、人間は「何のために」などと、何でも自分中心にものを考えないと気が済まないために、恰も宇宙・大自然に意思があるかのように、人間の生存に何か意味や目的を見出したがるのである。

    (ロ)「尽十方界(真実)」「心」、「尽十方界真実人体」「仏」

      ところで、ビッグバンなど日月星辰をも生み出す宇宙生成のエネルギーと根源的に同じ宇宙・大自然のダイナミックな活動やそれが生み出すありとあらゆる事実を仏法要語で「尽十方界(ジンジッポウカイ)」ないし「尽十方界真実」或いは「(シン)」(「こころ」ではない)と言うのである。

      つまり「尽十方界(真実)」「心」が、地球上の生物・無生物をはじめありとあらゆるものを生成すると共に、人間をも生み且つ生かしているのである。当然人間の「身体」も、人間の脳の生理現象である意志・意欲など自我意識とは関係のない宇宙・大自然の生命活動(尽十方界真実)によって生まれた具体的存在であり、これを仏法要語で「尽十方界真実人体(ニンタイ)」或いは「」と言うのである。

      つまり「尽十方界真実人体」とは、「尽十方界(真実)」が、「人間(人体)」している実態を表現した言葉である。即ち尽十方界真実人体は、意志・意欲など自我意識を超えた人間の生命体のことである。

      なお「身心」という言葉は、一般に「からだ」と「こころ(精神)」という意味に使われているが、仏法では上述のように「心(シン)」とは宇宙・大自然の生命活動を意味し、「心」の具体的な姿・形が人間の「身(身体)」であるという意味であり、上述のとおり、自我意識が発現する以前の尽十方界真実人体のことを意味するのである。

      以上の事から、我々の意志・意欲や思考などの自我意識は、単に人間の身体の一部である脳の生理現象に過ぎず、人間生命の実物即ち尽十方界真実人体とは直接関係のない人間の生命活動の現象に過ぎない。

      即ち尽十方界ないし尽十方界真実人体の一時の表情・景色に過ぎないものである。

      例えば、我々は、人生において、いつも苦しい事は嫌で、幸福で満足していたいと願う。

      即ち自己満足の追求は我々の習性である。

      自分の思い通りに行けば喜び、行かなければ悲しみ苦しむ。喜怒哀楽は我々の人生においては不可避である。

      しかしこのような人生の喜怒哀楽も、我々の身体の生命活動の一時の表情・景色であって、大自然そのものである身体の生命本来の在り方から言えば、その時その時の一時的な生理現象・風景に過ぎない。どんなに悲しくても、どんなに喜んでいても、しばらくすると、身体の方で疲れて、自然に眠らずにはおられなくなる。

      眠ってしまえば、自我意識はお休みである。大自然である身体の生命活動のリズムは自我意識にはお構いなしである。

      どんな喜びも悲しみも時間と共に収まらずには収まらない。それが大自然そのものである我々の身体の生命活動の実態である。

     

    (ハ)精神上の「迷」「さとり」と真の「悟」

      従って、人間の自我意識(脳の生理現象)である精神上の「迷い」や「さとり」等は、単に人間の生命活動(脳の働き)に於ける表情であり、その時(一時)の「尽十方界(宇宙・大自然)」ないし「尽十方界真実人体」の様相スガタに過ぎない。

      我々は、往往にして迷いは悪くさとりは良いと考えるが、どちらも人間が生きている上におけるその時々の生命の風景に過ぎず、基本的に良し悪しの問題ではない。

      仏法における真の「悟」とは、そのような生命の一時の表情・景色である精神・心理上の所謂「さとり」などではなく、自我意識発現以前の宇宙・大自然の生命活動そのもの尽十方界真実ないし尽十方界真実人体)を言うのである。

     

    (ニ)「解脱」「脱落」「三昧」

      上述のような「生命活動と自我意識」の関係を喩えて言えば、「川の流れと波」のようなものである。

      つまり、人間の「生命活動」を「川の流れ」とすれば、自我意識である人生の「喜怒哀楽・迷悟」などは川の「波」のようなものである。

      川の流れ(生命活動)において、流れの表情は波となって、逆巻いたり静かになったりその時々で様々な表情(喜怒哀楽・迷悟)を浮かべるが、川そのもの(生命)は流れ(活動)続けて変わることがない。

      このような事実を、仏法では「解脱」「脱落」「三昧」と言うのである。

      この川の流れ即ち生命活動そのものを上述の真の「悟」と言うのである。

(三)釈尊の成道(悟)

    因みに、仏教の開祖釈尊が、所謂「真理」即ちそれに拠って全て説明が可能な一つの根本原理を求めて出家し、長い求道の末菩提樹下で悟られたと伝えられるが、釈尊の悟りは、「我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏」という言葉に端的に表現されている。

    つまり、人間は宇宙・大自然の生命活動即ち「尽十方界真実」によって生かされて生きている。

    同様に山川草木をはじめありとあらゆるものは、勝手に存在しているのではなく、すべて宇宙・大自然によって存在させられているという事実を表現している、即ち尽十方界真実しているということである。

    そしてこのような事実を、「本来成仏」と言うのである。

    要するに、釈尊は、様々な苦行を経た後、その様な苦行が結局自分が勝手に描いた理想即ち自己満足の追求に外ならず、反って生命の根源である身体を徒に傷める愚行であることに気付くと共に、ありとあらゆるものが「本来成仏」(尽十方界真実)であることを悟られたのである。

    そして大自然である身体本来の在り方(尽十方界真実人体)である坐禅、即ち後述の自我意識の放棄を努力する無所得・無所悟(ただ生かされて生きている在り方)の只管打坐を行じられたのである。

 

(四)仏法とは何か

    さて、それでは「仏法」とは何かと言えば、こうして我々が生きている事実をはじめ、宇宙・大自然全体の生命(生滅)活動やそれから生じるありとあらゆる事実即ち尽十方界真実のことを言うのである。    

    (イ)仏法は思想ではないし定義もできない

      しかし仏法そのものは、宇宙・大自然全体の事実そのものであるから、これを定義する事は出来ないのである。

      つまり仏法は、所謂「思想(観念)」や「〜という考え方」等というような人間の概念ではなく、現実・実際の「事実」そのものである。

      一般的に、人間は、事物(現象)の背後に何か本源・本質のようなもの或いは原理・原則のようなものが存在するのではないかと考え、それを必死に求めようとすると共に、勝手に求め得たと考える本源や原理(概念)で以って知的な理解(納得)を得ようとする習性がある。

      このような人間が考えた本源や原理が所謂「思想」である。

      つまり「思想」とは、人間が自分を単なる観察者の立場に置き、自分だけは其処から除外して自分の前に置いた意識の中の対象即ち「観念」である。我々がものを考える場合、自我(意識)の範囲、自分の経験の範囲だけでしか考えられないという制約がある。

      自我(意識)そのものは、脳の生理現象であり人間生命の活動の一表情に過ぎないものであって、宇宙・大自然(尽十方界)の生命活動全体を自我(意識)が把握する事は根本的に不可能なのである。

      ところが仏法は、人間が勝手に考えた根本原理としての真実・真理というようなものではない。

      仏法は我々を生かしている宇宙・大自然の活動やありとあらゆる事実(尽十方界真実)であり、それは悉く真の事実、即ち動かし難い現実の絶対的な事実である。

      つまり仏法で言う真実とは、抽象的な意味の真理や真実ではなく、現実にこの世界で生滅するありとあらゆる真の事実のことなのである。

      従って、人間の思考や感覚によって、仏法(尽十方界真実)を把握しようとしても不可能だということである。

     

    (ロ)「何」「誰」等の疑問詞は仏法の真実を表現

      しかし、中国禅宗の祖師達は、「何」「如何」「什麼(ナニ)」或いは「誰」など「疑問詞」を使って「仏法の真実」を端的且つ正確に表現する方法を見つけている。

      例えば、我々は今迄見た事も無い事物や人に出逢った時、これは「何」、この人は「誰」、と素朴な疑問を持つ。

      この「何」、「誰」という疑問詞は、我々の既知の概念では把握できない未知の事物や人の実態について、当該実物の無限定性を最も正確に表現し得る言葉であると言える。つまり疑問詞は、無限定の事実・実物を表現し得るという点において、正に無量無辺の仏法の実態を表現するのに相応しいということである。

      因みに、禅問答における「如何なるか是仏法」という問は、通常「仏法とは何か」という問者の質問形式であるが、仏法の常識としては、「如何なるか」は「如何なるものも」と訓むのが決まりであり、この問は「如何なるものも(ありとあらゆるもの)が仏法だ」という意味になる。

      この場合、問者が自ら分かって質問したか否かは別として、質問と同時に自ら答えた事になる。

      これを仏法では「問所は答所の如し」(「問所の道得」)と言うのである。なお同様に「誰か」は「誰でも」と訓むのが仏法の常識である。

     

    (ハ)仏法の特徴

      ところで、仏法(宇宙・大自然全体の生命活動のありとあらゆる事実)には以下のような性質ないし特徴が認められる。

        (A)

        @「四大因縁和合」、「大乗」
          まず、尽十方界に存在するありとあらゆるものは、生物であれ、無生物であれ、自分勝手に存在しているものはなく、何らかの条件(因縁)によって存在させられている。

          即ち、すべてのものは、「四大(シダイ)」(仏教用語。「地水火風」という異質の要素)が何らかの条件によって和合した相(スガタ)である。

          この「四大因縁和合」の事実を、「如去如来」或いは「大乗」(あらゆるものは勝手に存在していない)と言う。

        A「依正一如(エショウイチニョ)
          また、例えば、人間の身体(「正法」と言う)は、身体単独で存在し得るものではない。

          身体は、その時間的・空間的全体の環境(「依法」と言う)と一体でしか生きられない(「尽十方界真実人体」)のであって、この事実を「依正一如」と言う。

          つまり身体は環境、即ち空気の存在をはじめ、身体の存在し得る場所など時空全て一体でしか生きられないのである。

        B全ての事実は尽十方界のその「時」の様相
          更に、この世界のあらゆる事実は、全て尽十方界(宇宙・大自然)のその「時」の様相である。

          例えば「見る・聞く」等の働き・行為等も、尽十方界のその時の様相である。

          つまり、例えば、私が今話をしている姿は尽十方界の今の「時」の様相であり、しかも同時に、誰かが私の話を聞いている姿も同じく尽十方界の今(時)の様相である。

          或いは今全然別の場所で犬が吠えているとしたら、それも尽十方界の今(時)の様相である。人間をはじめ全てのものがこの宇宙・大自然(尽十方界)の構成員であり、人間の生命活動は宇宙・大自然の生命的活動の一つの相である。

          このようなものの見方は、「有時(ウジ)」という重要な仏法のものの見方に基づいている。

          「有時」とは「有は時なり」ということであるが、「有」とは、事件(法)、ありとあらゆるものの生きている姿、存在のことである。

          「存在」とはあらゆるものの生命活動の姿・形であり、その姿・形を常に努力(この事実を「諸行無常」と言う)している「時」の姿である。或いは別の言葉でいえば上述の「心」の姿であるということである。

          「時」は「心」と同義である。つまり「有時」とは、尽十方界の生命活動の一時的具体的な様相・姿である。即ち宇宙全体の具体的な在り方が「有時」である。

          因みに、仏法には「物体」という概念は無い。

          要するにありとあらゆる事実(「有」と言う)は、全て尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の一時的具体的な様相・姿であり、「時」或いは「心」の姿なのである。

       

      (B)

        @「刹那(セツナ)生滅」
          次に、宇宙に存在するありとあらゆるものは、一刻も休まず生命活動ないし生滅活動(この事実を「刹那生滅」と言う)を続けているが、この生命活動の事実を「修行」と言い、「仏向上事(仏は向上事なり)」とも言うのである。
        A「修行」とは生命活動である
          例えば、奇異な表現と思われるかもしれないが、「石は石を一刻も休まず修行(存在努力)している」のである。

          かつて日航機事故で、飛行機の「金属疲労」が問題になったが、仏法から言えば、金属も休み無く金属を努力(修行)し続けているのであるから、疲労するのは当たり前の事実なのである。

          勿論人間の身体も休み無く「修行(生命活動)」し続けている。通常の国語辞典の説明にあるように、特別人為的な努力だけを修行というのではない。有情非情を問わず、ありとあらゆるものにおける生命活動のことを「修行」というのである。

          またこのような宇宙・大自然が生命活動ないし生滅活動を続けている在り方そのものを、既に述べたように、「脱落」(通常の国語辞典の「抜け落ちる」の意味とは異なる)「解脱」「三昧」と言うのである。

          因みに、「三昧」についても、一般に「釣り三昧」等と使われる場合は「熱中・夢中」の意味であり、仏法の三昧とは凡そ反対の意味の「のぼせ、陶酔、満足追求」等の自我活動を表していることに注意すべきである。

        B「平常心是道」
          そしてこのような宇宙・大自然の活動は、いつも「平常底」即ち何ともなく、当たり前であり真実である。

          これを「平常心是道」と言う。ここで「平常心」の「心」は、上述のように、宇宙・大自然生命活動(尽十方界真実)のことであり、人間の精神・心理作用としての「こころ」を意味するのではない。

          つまり「心」の活動は、人間にとって如何に不都合な事であっても、例えば地震・台風・火山の噴火などが起こっても、常に尽十方界から見れば、何ともなく、あたりまえの平常底の「心」の在り方なのである。

          そしてこのことは、大自然そのものである人間の身体と自我意識の関係についても同じ事であり、既に川の流れと波の関係の喩えで説明したとおりである。

        C「心」「悟」「解脱」「脱落」「三昧」は尽十方界の本来の在り方を表現
          本当の仏法の教えは、人間の本来の生命活動における一時の表情・風景に過ぎない「自我(意識)」即ち「精神や心理上の事象」等は本質的な問題としては取り扱わない。

          つまり仏道は、私たちを生かしている宇宙・大自然の生命活動の在り方(尽十方界真実、尽十方界真実人体)に目を開かせて、宇宙・大自然に報恩感謝して生きること(自己満足追求の放棄)を説くものである。

          従って「心」も「解脱」も「悟」も「三昧」も、全て宇宙・大自然の生命活動の絶対的な在り方・姿を意味する言葉であって、人間の自我に起因する精神・心理上の事象(自我意識)を表現するものではないのである。

        D「無」「非」「不」「莫」は否定の意味ではなく、尽十方界の在り方を表現
          ついでに言えば、例えば通常の国語辞典では「否定」を意味する「無」「非」「不」「莫」等の言葉も、仏法のキイワードとしては、基本的に否定の意味ではなく、尽十方界(大自然)の絶対的な在り方・姿、即ち人間の恣意の入る余地の無い厳粛な大自然の事実を意味しているのである。

        (C)

        「諸法実相」、「現成公案(ゲンジョウコウアン)」の信仰
        第三に、この世界のありとあらゆるものは全部真(の事)実、即ち『法華経』が説く所謂「諸法実相」である。

        しかも現在の事実(現実)は、如何なる状態にあっても、即ち人間にとって如何に不都合であっても、全て過去の成果(これを「因円果満」と言う)であるという意味で完全であり、その時の宇宙・大自然(尽十方界)の絶対的事実(様相)である。

        しかもこのような絶対的な事実を全て取捨選択等せずにまともにそのままそっくり絶対的な価値として受け入れることである

        これを「現成公案」の信仰と言うのである。

        要するに、宇宙のありとあらゆるのものは、人間の自我意識による価値判断には関係なく絶対的な真の事実であり、この世に完全に同じものは存在しないという意味で比較を絶した(「摩訶マカ」と言う)独尊性の故に完全無欠である。「現成公案」の信仰は、このような絶対的な事実をそのまま素直に頂く態度を言うのである。

        なお、上述の完全無欠に対する「不完全」という概念は、人間が何かを基準にして物事を比較考量することから生じる概念であり、宇宙においては比較を絶しているから、全て同じものは無くそれ自身として完全である。

        また「不浄」、「汚い」、「ゴミ」等の概念についても同じことが言える。それは人間の自我の習性である比較考量の所産から来るものである。

        (D)

        「全体本然(ホンネン)
        第四に、宇宙・大自然においては、ありとあらゆるものが真実であるから、「これこそは真実」というものはない。

        即ち「それに拠って全て説明が可能な一つの根本原理」即ち形而上学などで言う「真理」等は求め得るものではない。仏法においては、現実にこの宇宙・大自然に生滅するありとあらゆる事実が全て真の事実即ち真実であり、これを「諸法実相」と言うことは上述のとおりである。

        つまり現実は、その時の宇宙・大自然の生命活動に於ける表情・景色(尽十方界の様相)であるが、それはその時の動かし難い真の事実でもある。そして同時に宇宙・大自然全体が絶対的な真実であり、これを「全体本然」と言うのである。

        要するに、仏法の真実の在り方は、正体が無い、決まっていない (判断以前)。或いは真実は「虚空」(手がかり無し)の如く掴むことが出来ないものである。

        例えば、気象現象において、晴れ・雨・曇り等様々な状態があるが、どの状態が最高、正常、本当であるという事は出来ない。

        全体として「真実の天気」であることに変わりがないのと同じである。

        (E)

        最後に、宇宙・大自然の在り方は、無所得・無所悟(ただ生かされて生きている姿)であり、非思量不染汚(フゼンナ)只管(シカン)など、いずれも自我意識(意志・意欲)発現以前の生命活動の在り方である。
        つまり宇宙・大自然には、人間世界における目的や意志・意欲の観念は無いし、同様に人間固有の満足や問題の解決等という観念も無い。

        また人間の欲望(自我)に起源する、時間、空間、多少、大小、長短、或いは是非、善悪等の概念も無い。同様に、多少・大小・長短等も人間の自我に起因する欲望が生んだ概念である。

 

(五)仏

    基本的に、仏とは「仏法」や「法」と同義である。即ち宇宙・大自然のありとあらゆる事実即ち「尽十方界真実」を言う。また「尽十方界真実人体」を指すこともある。

    勿論お釈迦様や仏陀を表すことは言うまでもない。なお「仏祖」(仏と祖師)という語も同義である。

 

(六)禅とは何か

    (イ)禅と仏法は同じである

      ここで、「禅」とは何か、「仏法」と如何違うのかということについて言えば、根本的に禅も仏法と異なるものではない。禅と仏法は本来同じものである。

      「禅」は、インドの「禅那(ジャーナ)」(静慮)、即ち「身体と呼吸と精神の調整」に重点をおいた「禅定」に起源を持つもので、当初インドにおいては、所謂「習禅」と呼ばれる「瞑想技術」に重点を置いた超現実的な「神通」ないし神異的な信仰を中心とするものであった。

      ところが、インドから中国に瞑想技術としての「坐禅」が伝来し、相当の時間が経過するうちに、次第に中国の高度な文化や風土の影響を受けて、神異的な神通思想が克服されて、日常的現実的なものに昇華されていった。

      こうしたインド禅の中国的変容の最終的な完成は、隋の天台智(テンダイチギ)(538〜598年)による『摩訶止観』の体系であるが、それはなお神異的な残滓を残しており、それを完全に払拭したのが菩提達磨(ボダイダルマ)(〜534年?)に始まる「中国禅宗」であると言われている。

     

    (ロ)禅・禅宗誕生の意義

      禅や禅宗が生まれた理由は、天台教学など概念だけの学問中心の仏教を乗り越える処にあった。

      即ち禅宗は、経典の文字の解釈に終始することを離れて、実践(坐禅修行)中心の活きた仏法を挙揚した。

      つまり仏教が、余りにも学問的且つ煩瑣になって生命力を失ってしまっていた。そこで本当の血の通った仏法を求めた中国人のための、言わば「中国的大乗仏教」として新しく蘇ったのが中国禅宗であると考えられる。

     

    (ハ)「小乗仏教」と「大乗仏教」の相違

      以上のことは、インドにおいて、所謂「声聞・縁覚」等の自己満足(自己の悟り)を追求する「小乗仏教」から独立して、新しく利他行(自己満足追求の放棄)を標榜する「菩薩」の「大乗仏教」が生まれてきた現象と相似する。

      即ち小乗、特に「部派仏教」では「アビダルマ(阿毘達磨)」による学問理論の研究が流行したが、それらは実践に関係の無い議論が多く修行の面を疎かにした。大乗仏教の展開は、このような部派仏教の弊害を矯正しようとして始まったものであり、徒な理論よりも信仰や実践を重視するものであり、その理論自体も実践を裏付ける為の理論であった。

      例えば、歴史上の聖人である釈尊が、「法身仏」(尽十方界真実)にまで発展し、『法華経』の「唯有一乗法」(この世界のありとあらゆるものは尽十方界真実である)から「大乗」が導き出された。

      また「本来成仏」「悉有(シツウ)仏性」等も同様の事実を表現する言葉として生まれてきた。

      要するに、小乗仏教は、「成仏」「さとり」という「理想・目的」を持って修行する。

      即ち自己満足の追求に終始する。

      ところが大乗仏教では、小乗のような理想・目的というようなものは無い。

      何故なら大乗では仏は修行して到達するものではない。

      初めから「すべてが仏」である。

      即ち「本来成仏」であるから、その修行は本来的に自我を放棄した「仏行」である。

      なお、禅宗では、唐の時代の禅者の言行を中心に伝えた「話頭」、「古則」等が重視され、古則・公案が言わば経典のような役割を果たしている。

      即ち「公案」は、修行者が仏道を学ぶ上の身近な手本である。

 

(七)仏道修行と現成公案の信仰

    さて、坐禅については次章で詳しく述べるが、坐禅が基本である仏道修行について結論的なことを予め述べておきたい。

    先ず「仏法を学ぶ」ということは、我々が主人公だと考えている自我には関係なく大自然に生かされて生きているという絶対的事実を、我々はそのまま素直に受容することである。

    具体的には、大自然そのものであるこの身体を、日常の生理的習性に因る自我(エゴイズム)中心の生活ないし自己満足追求の人生から解放し、自我意識を超えた大自然の生命本来の在り方を努力することである。

    そしてその唯一の方法が、後述の無所得・無所悟の只管打坐の坐禅であり、その実践が仏道修行の根本なのである。

    そして、仏道を修行する者は、上述の「現成公案」の信仰に遵って、絶対事実である現実をそのまま素直に受け入れて、それに対応、順応して生きていくのが最も基本的な生き方である。

    例えば、「迷い」や「悩み」というものは、人間が生きている限り、生理現象として宿命的に避けられないものであり、頂かなければならないものである。

    これはからだの生命活動の表情であり、すべて大自然の在り方(「尽十方界真実」)である。

    それを素直に頂く事が真実の実践であり、即ち「救い」でもある。

    要するに、現成公案の信仰に生きるということは、生きている限り、苦しい時には苦しむのが真実であると承知して、現実を素直に頂く事である。

    つまり生命活動の表情である悩みや苦しみを全部当たり前のもの(「平常心是道」)として、即ち「お勤め」、真実の実践として素直に頂戴するのである。

    酒井得元老師が、「悲しい時は悲しめということだから悲しめばよい。悲しい時に笑っていたら不自然である。悲しい時の顔というものは決まっている。自然に決まったとおりでよいのである。別に大騒ぎする必要は無い。その時その時に応じて全部頂けばよいのである。結局仏道修行者の修行とは、堪え難いようなことを本当に受け入れることが出来ること、例えば自殺でもしたいほど嫌な気分に襲われる現実をそのまま頂けるようになることである」と仰有たとおりである。

    因みに、我々は「食べていけるだろうか」ということをしばしば心配する。

    これについて、『正法眼蔵随聞記』(第一)の「世間衣糧の資具は生得の命分ありて求めに依ても来らず、求めざれども来らざるにも非ず。只任運にして心に挟むこと莫れ」という言葉に、「生得の命分」ということがある。

    つまり我々が食べたいということは、個人の要求ではなく「命分」即ち「大自然の活動」である。

    我々は命分によって生活している。

    腹が減っている時に食べ物があれば食べればいいし、なければ食べられないだけである。

    我々が生きているということは、自分が勝手に生きているのではない。

    人間が苦しむのは、自分の力で勝手に生きていると思うから苦しむのである。

    我々が生きているということは自然の恵みであるから、食べ物に巡り合えば食べればいいし、食べ物が無い時は環境に恵まれないだけのことだと覚悟するしかないのである。

    一般に自然界の動物は平然と皆そのような生き方をしているのであり、人間だけが必要以上に悩むのである。

    最後に、我々は、大自然の中でしか生きられない。

    また如何に坐禅をして「自我の放棄」に努めても、生きている限り完全に自我活動から逃れる事は不可能である。

    そうだとすれば、逆に我々は、大自然から恵まれるものは勿論、自我活動から生じる結果を全て当然として素直に受け取ることしか方法が無いし、それが真実の実践(現成公案)だと考えるしかないのである。

    そのことを教えてくれるのは、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と「地震災害の見舞い状」に書いた良寛さん(1758〜1831年)である。

    正に有り難い実物見本である。

 


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『普勧坐禅儀』 あとがき

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