1、「我(自我意識)」とからだ
我々は、通常、日常生活の中で自分の「からだ」や自分が「生きている」という事実について凡そ真剣に考えた事がない。病気になったり、年を取ってからだのあちこちが痛くなったりして時々不安になることがあっても、すぐにからだのことなど忘れて、「こうしたい」「こうありたい」「あれが欲しい」というようなことばかり考えて、滅多に我々が生きているということが如何いうことか、深く考えてみようなどと思いもしない。
例えば、我々は、夜寝る時に、翌日目が覚めないなどと凡そ思いもしない。どんな時でも無意識に自分が生きていることを前提にものを考えており、自分の生命の無事について全く疑わないのが我々の通常の在り方(この事実を仏法用語の「信」と言う)である。
また、日中、脳の生理現象である自我意識の「我」が、まるで自分のからだのことなど全く考えず支配者の如く振舞っているが、夜疲れて眠りに落ちると「我」は消えてしまう。しかし、心臓や肺などからだの臓器は生涯休まず活動し続けているのが実態である。我々は、日頃「我が」「俺が」と自我意識が全てであるような意志・意欲生活を送っているが、実際は全て「からだ」のお蔭で自己満足追求の人生を送れているのである。
つまり自我意識の「我」が、「我」以外のことなど凡そ考えずに「我」中心でいられるのは、「我」の所有物のように考えているこの「からだ」が「我と関係なく」生きている即ち生命活動しているからこそである。ところがこの「我」自体は、「我」の発生源である「からだ」のことなど少しも思い遣る事がないのが現実の姿である。