2、からだと宇宙・大自然
(1)ただ生きている
ところで、我々が生きているということは一体如何いうことであろうか。しばしば哲学上の問題として「人は何のために生きているのか」ということが取り上げられたりする。また我々は、失意の時、何のために生きているのかと真剣に悩む事がある。特にキリスト教徒等は、自らの不遇の時「神の御意志は如何なのか」などと悩んだりする。一般的に人間というものは、生来、何か目的や目標或いは理想というものがないと生きていけないように思い込んでしまっている。その主な原因は、人間社会においては、子供の頃から家庭も学校も社会も、「理想を持て」「夢を持て」と、理想や目標を持つことが生きていくための絶対条件であるかの如く決め込んできたからであろうと思われる。
しかし、一寸身近な自然に目を向けてみると、例えば、寒い冬でも、雀たちは、餌などあるように見えない道のあちこちで何か啄ばんだり、屋根や電線に止まって羽繕いをしたり、或いは不意に何処かへ飛び去ったり、およそ行き当たりばったりに生きているように見える。また人気のない公園の隅などで、野良猫が身動きせずにじっと寒さを堪えている姿などを見かける。雀も猫も、生まれきて、その時その時の現実の環境の中で、恐らく彼等自身の過去や将来のことなど関係なく、ただ現在いのちがあるから、現在を生きているだけだと思われる。多分人間の自我意識のような強い「我」は殆ど意識されないのであろう。
恐らく人間も地球上に誕生した当初は、雀や猫などと同様に、恵まれたいのちを環境に対応しながらただ生きていたのではないかと考えられる。ところが、何らかの原因で脳が環境との相互作用により発達し、次第に「自分(のもの)」という自我意識が強烈に働くようになっていったものと思われる。
考えてみれば、本来この世界に存在するものは、生物も無生物も、全て環境と一体で「ただ」生きている、或いはただ存在している(この事実を「無所得・無所悟」と言う)のである。つまり我々が住むこの地球を含む広大な宇宙・大自然が、生物や無生物などありとあらゆるものを生かし、存在させているのである。
しかし宇宙・大自然には、人間が考えるような意味での目的や目標など当然存在しない。人間の目標や目的などは、どんなに高邁なものであっても、人間の生理現象である自我意識の所産に過ぎない。ところが、人間は「何のために」などと、何でも自分中心にものを考えないと気が済まないために、恰も宇宙・大自然に意思があるかのように、人間の生存に何か意味や目的を見出したがるのである。
因みに、このような宇宙・大自然の事実は、科学的証明に親しまないが、誰でも直観として首肯できるであろう。
(2)「尽十方界(真実)」「心」、「尽十方界真実人体」「仏」
ところで、ビッグバンなど日月星辰をも生み出す宇宙生成のエネルギーと根源的に同じ宇宙・大自然のダイナミックな活動やそれが生み出すありとあらゆる事実を仏法用語で「尽十方界(ジンジッポウカイ)」ないし「尽十方界真実」或いは「心(シン)」(「こころ」ではない)と言うのである。つまり「尽十方界(真実)」・「心」が、地球上の生物・無生物をはじめありとあらゆるものを生成すると共に、人間をも生み且つ生かしているのである。当然人間の「身体」も、人間の脳の生理現象である意志・意欲など自我意識とは関係のない宇宙・大自然の生命活動(尽十方界真実)によって生まれた具体的存在であり、これを仏法用語で「尽十方界真実人体」或いは「仏」と言うのである。
つまり「尽十方界真実人体」とは、「尽十方界(真実)」が、「人間(人体)」している実態を表現した言葉である。即ち尽十方界真実人体は、意志・意欲など自我意識を超えた人間の生命体のことである。なお「身心」という言葉は、一般に「からだ」と「こころ(精神)」という意味に使われているが、仏法では「心(シン)」とは宇宙・大自然の生命活動を意味し、「心」の具体的な姿・形が人間の「身(身体)」であるとの意味であり、上述のとおり、自我意識発現以前の尽十方界真実人体のことを意味する。
因みに、仏法で「心」は、通常「精神・心理作用」を意味しないことを心得ておかなければならない。本当の仏法の基本を学ばなければ、このような仏法のキイワード(要語)の本当の意味を知ることが出来ない。
以上の事から、我々の意志・意欲や思考などの自我意識は、単に人間の身体の一部である脳の生理現象に過ぎず、人間生命の実物即ち尽十方界真実人体とは直接関係のない人間の生命活動の現象に過ぎない。即ち尽十方界ないし尽十方界真実人体の一時の表情・景色に過ぎないものであるということを心得ておかなければならない。
例えば、我々は、人生において、いつも苦しい事は嫌で、幸福で満足していたいと願う。即ち自己満足の追求は我々の習性である。自分の思い通りに行けば喜び、行かなければ悲しみ苦しむ。喜怒哀楽は我々の人生においては不可避である。しかしこのような人生の喜怒哀楽も、我々の身体の生命活動の一時の表情・景色であって、大自然そのものである身体の生命本来の在り方から言えば、その時その時の一時的な生理現象・風景に過ぎない。どんなに悲しくても、どんなに喜んでいても、しばらくすると、身体の方で疲れて、自然に眠らずにはおられなくなる。眠ってしまえば、自我意識はお休みである。大自然である身体の生命活動のリズムは自我意識にはお構いなしである。どんな喜びも悲しみも時間と共に収まらずには収まらない。それが大自然そのものである我々の身体の生命活動の実態である。
(3)精神上の「迷」「さとり」と真の「悟」
従って、人間の自我意識(脳の生理現象)である精神上の「迷い」や「さとり」等は、単に人間の生命活動(脳の働き)に於ける表情であり、その時(一時)の「尽十方界(宇宙・大自然)」ないし「尽十方界真実人体」の様相(スガタ)に過ぎない。我々は、往往にして迷いは悪くさとりは良いと考えるが、どちらも人間が生きている上におけるその時々の生命の風景に過ぎず、基本的に良し悪しの問題ではない。仏法における真の「悟」とは、そのような生命の一時の表情・景色である精神・心理上の所謂「さとり」などではなく、自我意識発現以前の宇宙・大自然の生命活動そのもの(尽十方界真実ないし尽十方界真実人体)を言うのである。
(4)「解脱」「脱落」「三昧」
上述のような「生命活動と自我意識」の関係を喩えて言えば、「川の流れと波」のようなものである。つまり、人間の「生命活動」を「川の流れ」とすれば、自我意識である人生の「喜怒哀楽・迷悟」などは川の「波」のようなものである。川の流れ(生命活動)において、流れの表情は波となって、逆巻いたり静かになったりその時々で様々な表情(喜怒哀楽・迷悟)を浮かべるが、川そのもの(生命)は流れ(活動)続けて変わることがないということである。このような事実を、仏法では「解脱」「脱落」「三昧」と言うのである。この川の流れ即ち生命活動そのものを上述の真の「悟」と言うのである。
因みに、仏法のキイワード(要語)は、通常の国語辞典や漢和辞典或いは仏教辞典を引いても本当の意味は分からない。正師に学ぶしか正しい意味は学べないのである。