3、釈尊の成道(悟)
以上、我々が「生きている」ということの実態について述べてきたが、ここで仏教の開祖釈尊が、所謂「真理」即ちそれに拠って全て説明が可能な一つの根本原理を求めて出家し、長い求道の末菩提樹下で悟られた内容が如何いうものかについて知っておく必要があろう。
釈尊の悟りは、「我と大地有情と同時成道、山川草木悉皆成仏」という言葉に端的に表現されている。つまり、人間は宇宙・大自然の生命活動即ち「尽十方界真実」によって生かされて生きている。同様に山川草木をはじめありとあらゆるものは、勝手に存在しているのではなく、すべて宇宙・大自然によって存在させられているという事実を完全に表現している、即ち尽十方界真実しているということである。そしてこのような事実を、仏法用語で「本来成仏」と言うのである。
要するに、釈尊は、様々な苦行を経た後、その様な苦行が結局自分が勝手に描いた理想即ち自己満足の追求に外ならず、反って生命の根源である身体を徒に傷める愚行であることに気付くと共に、ありとあらゆるものが「本来成仏」(尽十方界真実)であることを悟られたのである。そして大自然である身体本来の在り方(尽十方界真実人体)である坐禅、即ち後述の自我意識の放棄を努力する無所得・無所悟(ただ生かされて生きている在り方)の只管打坐(シカンタザ)を行じられたのである。
因みに、釈尊については、一般に菩提樹下の成道ばかり強調される嫌いがあるが、釈迦入滅最後の教誡に「比丘放逸をなすなかれ。我れ不放逸を以っての故に自ら正覚を致せり。」(『長阿含』「遊行経」)とあるように、釈尊は、生涯「不放逸」即ち自己満足追求の放棄(尽十方界真実の実践)を勤められたのであり、それが正に「正覚(悟)」であったのである。