4、仏法とは何か
さてそれでは「仏法」とは何かと言えば、こうして我々が生きている事実をはじめ、宇宙・大自然全体の生命(生滅)活動やそれから生じるありとあらゆる事実即ち尽十方界真実のことを言うのである。
(1)仏法は思想ではないし定義もできない
(2)「何」「誰」等の疑問詞は仏法の真実を表現
(3)仏法の特徴(イ)〜(ホ)
(イ)
@「四大因縁和合」、「大乗」
A「依正一如(エショウイチニョ)」
B全ての事実は尽十方界のその「時」の様相(ロ)
@「刹那(セツナ)生滅」
A「修行」とは生命活動である
B「平常心是道」
C「心」「悟」「解脱」「脱落」「三昧」は尽十方界の本来の在り方を表現
D「無」「非」「不」「莫」は否定の意味ではなく、尽十方界の在り方を表現(ハ)
「諸法実相」、「現成公案(ゲンジョウコウアン)」の信仰
(ニ)
「全体本然(ホンネン)」
(ホ)
最後に、宇宙・大自然の在り方は、無所得・無所悟(ただ生かされて生きている姿)であり、非思量、不染汚(フゼンナ)、只管(シカン)など、いずれも自我意識(意志・意欲)発現以前の生命活動の在り方である。
(4)仏
(1)仏法は思想ではないし定義もできない
しかし仏法そのものは、宇宙・大自然全体の事実そのものであるから、これを定義する事は出来ないのである。つまり仏法は、所謂「思想(観念)」や「〜という考え方」等というような人間の概念ではなく、現実・実際の「事実」そのものなのである。
確かに仏法とは、上述のように、宇宙・大自然全体の生滅活動におけるありとあらゆる事実(真実)等と一応説明することは出来るが、「宇宙・大自然」という言葉そのものが既に概念であって、「宇宙・大自然」の実物そのものではないから、仏法を定義した事にならない。例えば、ケーキの実物の味を定義する事が出来ないのと同じである。
ところで、一般的に言って、人間は、事物(現象)の背後に何か本源・本質のようなもの或いは原理・原則のようなものが存在するのではないかと考え、それを必死に求めようとすると共に、勝手に求め得たと考える本源や原理(概念)で以って知的な理解(納得)を得ようとする習性がある。このような人間が考えた本源や原理が所謂「思想」である。
つまり「思想」とは、人間が自分を単なる観察者の立場に置き、自分だけは其処から除外して自分の前に置いた意識の中の対象即ち「観念」である。我々がものを考える場合、自我(意識)の範囲、自分の経験の範囲だけでしか考えられないという制約がある。しかも上述のように、自我(意識)そのものは、脳の生理現象であり人間生命の活動の一表情に過ぎないものであって、宇宙・大自然(尽十方界)の生命活動全体を自我(意識)が把握する事は根本的に不可能なのである。
ところが仏法は、人間が勝手に考えた根本原理としての真実・真理というようなものではない。仏法は我々を生かしている宇宙・大自然の活動やありとあらゆる事実(尽十方界真実)であり、それは悉く真の事実、即ち動かし難い現実の絶対的な事実である。
つまり仏法で言う真実とは、抽象的な意味の真理や真実ではなく、現実にこの世界で生滅するありとあらゆる真の事実のことなのである。 従って、人間の思考や感覚によって、仏法(尽十方界真実)を把握しようとしても不可能だということである。
(2)「何」「誰」等の疑問詞は仏法の真実を表現
しかし、中国禅宗の祖師達は、「何」「如何」「什麼(ナニ)」或いは「誰」など「疑問詞」を使って「仏法の真実」を端的且つ正確に表現する方法を見つけている。例えば、我々は今迄見た事も無い事物や人に出逢った時、これは「何」、この人は「誰」、と素朴な疑問を持つ。この「何」、「誰」という疑問詞は、我々の既知の概念では把握できない未知の事物や人の実態について、当該実物の無限定性を最も正確に表現し得る言葉であると言える。
つまり疑問詞は、無限定の事実・実物を表現し得るという点において、正に無量無辺の仏法の実態を表現するのに相応しいということである。
因みに、禅問答における「如何なるか是仏法」という問は、通常「仏法とは何か」という問者の質問形式であるが、仏法の常識としては、「如何なるか」は「如何なるものも」と訓むのが決まりであり、この問は「如何なるものも(ありとあらゆるもの)が仏法だ」という意味になる。この場合、問者が自ら分かって質問したか否かは別として、質問と同時に自ら答えた事になる。これを仏法では「問所は答所の如し」(「問所の道得」)と言うのである。なお同様に「誰か」は「誰でも」と訓むのが仏法の常識である。
以上のように、禅問答における疑問詞の役割は、仏法(禅)を学ぶ際、忘れてはならない基本である。
(3)仏法の特徴
ところで、仏法(宇宙・大自然全体の生命活動のありとあらゆる事実)には以下のような性質ないし特徴が認められる。
(イ)
まず、尽十方界に存在するありとあらゆるものは、生物であれ、無生物であれ、自分勝手に存在しているものはなく、何らかの条件(因縁)によって存在させられている。即ち、すべてのものは、「四大(シダイ)」(仏教用語。「地水火風」という異質の要素)が何らかの条件によって和合した相(スガタ)である。この「四大因縁和合」の事実を、仏法用語で「如去如来」或いは「大乗」(あらゆるものは勝手に存在していない)と言う。
@「四大因縁和合」、「大乗」
A「依正一如(エショウイチニョ)」
また、例えば、人間の身体(「正法」と言う)は、身体単独で存在し得るものではない。身体は、その時間的・空間的全体の環境(「依法」と言う)と一体でしか生きられない(「尽十方界真実人体」)のであって、この事実を「依正一如」と言う。つまり身体は環境、即ち空気の存在をはじめ、身体の存在し得る場所など時空全て一体でしか生きられないのである。
B全ての事実は尽十方界のその「時」の様相
更に、この世界のあらゆる事実は、全て尽十方界(宇宙・大自然)のその「時」の様相である。例えば「見る・聞く」等の働き・行為等も、尽十方界のその時の様相である。つまり、例えば、私が今話をしている姿は尽十方界の今の「時」の様相であり、しかも同時に、誰かが私の話を聞いている姿も同じく尽十方界の今(時)の様相である。或いは今全然別の場所で犬が吠えているとしたら、それも尽十方界の今(時)の様相である。人間をはじめ全てのものがこの宇宙・大自然(尽十方界)の構成員であり、人間の生命活動は宇宙・大自然の生命的活動の一つの相である。このようなものの見方は、「有時(ウジ)」という重要な仏法の物の見方に基づいている。「有時」とは「有は時なり」ということであるが、「有」とは、事件(法)、ありとあらゆるものの生きている姿、存在のことである。「存在」とはあらゆるものの生命活動の姿・形であり、その姿・形を常に努力(この事実を「諸行無常」と言う)している「時」の姿である。或いは別の言葉でいえば上述の「心」の姿であるということである。「時」は「心」と同義である。つまり「有時」とは、尽十方界の生命活動の一時的具体的な様相・姿である。即ち宇宙全体の具体的な在り方が「有時」である。因みに、仏法には「物体」という概念は無い。
要するにありとあらゆる事実(「有」と言う)は、全て尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の一時的具体的な様相・姿であり、「時」或いは「心」の姿なのである。
(ロ)
次に、宇宙に存在するありとあらゆるものは、一刻も休まず生命活動ないし生滅活動(この事実を「刹那生滅」と言う)を続けているが、この生命活動の事実を「修行」と言い、「仏向上事(仏は向上事なり)」とも言うのである。
@「刹那(セツナ)生滅」
A「修行」とは生命活動である
例えば、奇異な表現と思われるかもしれないが、「石は石を一刻も休まず修行(存在努力)している」のである。かつて日航機事故で、飛行機の「金属疲労」が問題になったが、仏法から言えば、金属も休み無く金属を努力(修行)し続けているのであるから、疲労するのは当たり前の事実なのである。勿論人間の身体も休み無く「修行(生命活動)」し続けている。通常の国語辞典の説明にあるように、特別人為的な努力だけを修行というのではない。有情非情を問わず、ありとあらゆるものにおける生命活動のことを「修行」というのである。
またこのような宇宙・大自然が生命活動ないし生滅活動を続けている在り方そのものを、既に述べたように、「脱落」(通常の国語辞典の「抜け落ちる」の意味とは異なる)「解脱」「三昧」と言うのである。
因みに、「三昧」についても、一般に「釣り三昧」等と使われる場合は「熱中・夢中」の意味であり、仏法の三昧とは凡そ反対の意味の「のぼせ、陶酔、満足追求」等の自我活動を表していることに注意すべきである。
B「平常心是道」
そしてこのような宇宙・大自然の活動は、いつも「平常底」即ち何ともなく、当たり前であり真実である。これを「平常心是道」と言う。ここで「平常心」の「心」は、上述のように、宇宙・大自然の生命活動(尽十方界真実)のことであり、人間の精神・心理作用としての「こころ」を意味するのではない。つまり「心」の活動は、人間にとって如何に不都合な事であっても、例えば地震・台風・火山の噴火などが起こっても、常に尽十方界から見れば、何ともなく、あたりまえの平常底の「心」の在り方なのである。そしてこのことは、大自然そのものである人間の身体と自我意識の関係についても同じ事であり、既に川の流れと波の関係の喩えで説明したとおりである。
C「心」「悟」「解脱」「脱落」「三昧」は尽十方界の本来の在り方を表現
因みに、一般に仏法は精神上の問題を扱う宗教だという根本的な誤解があるために、仏典のキイワード(要語)等を初めから精神的・心理的な範疇で理解しようとして、本当の仏法から大きく乖離してしまう。例えば「心」「悟」「解脱」「脱落」「三昧」等を人間の精神や心理上の事象を表現した言葉だと捉えてしまう。然し本当の仏法の教えは、人間の本来の生命活動における一時の表情・風景に過ぎない「自我(意識)」即ち「精神や心理上の事象」等は本質的な問題としては取り扱わない。つまり仏道は、私たちを生かしている宇宙・大自然の生命活動の在り方(尽十方界真実、尽十方界真実人体)に目を開かせて、宇宙・大自然に報恩感謝して生きること(自己満足追求の放棄)を説くものである。
従って「心」も「解脱」も「悟」も「三昧」も、全て宇宙・大自然の生命活動の絶対的な在り方・姿を意味する言葉であって、人間の自我に起因する精神・心理上の事象(自我意識)を表現するものではないのである。
D「無」「非」「不」「莫」は否定の意味ではなく、尽十方界の在り方を表現
ついでに言えば、例えば通常の国語辞典では「否定」を意味する「無」「非」「不」「莫」等の言葉も、仏法のキイワードとしては、基本的に否定の意味ではなく、尽十方界(大自然)の絶対的な在り方・姿、即ち人間の恣意の入る余地の無い厳粛な大自然の事実を意味しているのである。
(ハ)
「諸法実相」、「現成公案(ゲンジョウコウアン)」の信仰
第三に、この世界のありとあらゆるものは全部真(の事)実、即ち『法華経』が説く所謂「諸法実相」である。しかも現在の事実(現実)は、如何なる状態にあっても、即ち人間にとって如何に不都合であっても、全て過去の成果(これを「因円果満」と言う)であるという意味で完全であり、その時の宇宙・大自然(尽十方界)の絶対的事実(様相)である。しかもこのような絶対的な事実を全て取捨選択等せずに、まともにそのままそっくり絶対的な価値として受け入れることである。これを「現成公案」の信仰と言うのである。因みに、道元禅師(1200〜1253年)の主著『正法眼蔵』七十五巻本は「現成公案」の信仰で貫かれている。また同十二巻本は「報恩行(供養諸仏)」を中心として説かれている。
要するに、宇宙のありとあらゆるのものは、人間の自我意識による価値判断には関係なく絶対的な真の事実であり、この世に完全に同じものは存在しないという意味で比較を絶した(「摩訶(マカ)」と言う)独尊性の故に完全無欠である。「現成公案」の信仰は、このような絶対的な事実をそのまま素直に頂く態度を言うのである。
なお、上述の完全無欠に対する「不完全」という概念は、人間が何かを基準にして物事を比較考量することから生じる概念であり、宇宙においては比較を絶しているから、全て同じものは無くそれ自身として完全である。また「不浄」、「汚い」、「ゴミ」等の概念についても同じことが言える。それは人間の自我の習性である比較考量の所産から来るものである。因みに、「唯仏与仏乃能究尽(『法華経』)」(ありとあらゆるものは完全に尽十方界真実している)や「大地有情同時成道」(ありとあらゆるものは同様に完全に真実している)も現成公案の事実を表現している。
(ニ)
「全体本然(ホンネン)」
第四に、宇宙・大自然においては、ありとあらゆるものが真実であるから、「これこそは真実」というものはない。即ち「それに拠って全て説明が可能な一つの根本原理」即ち形而上学などで言う「真理」等は求め得るものではないし、掴むことは出来ないということである。仏法においては、現実にこの宇宙・大自然に生滅するありとあらゆる事実が全て真の事実即ち真実であり、これを「諸法実相」と言うことは上述のとおりである。
つまり現実は、その時の宇宙・大自然の生命活動に於ける表情・景色(尽十方界の様相)であるが、それはその時の動かし難い真の事実でもある。そして同時に宇宙・大自然全体が絶対的な真実であり、これを「全体本然」と言うのである。
要するに、仏法の真実の在り方は、正体が無い、決まっていない (判断以前)。或いは真実は「虚空」(手がかり無し)の如く掴むことが出来ないものである。
解りやすい例を挙げれば、気象現象において、晴れ・雨・曇り等様々な状態があるが、どの状態が最高、正常、本当であるという事は出来ない。全体として「真実の天気」であることに変わりはないのである。
(ホ)
最後に、宇宙・大自然の在り方は、無所得・無所悟(ただ生かされて生きている姿)であり、非思量、不染汚(フゼンナ)、只管(シカン)など、いずれも自我意識(意志・意欲)発現以前の生命活動の在り方である。
つまり宇宙・大自然には、人間世界における目的や意志・意欲の観念は無いし、同様に人間固有の満足や問題の解決等という観念も無い。
また人間の欲望(自我)に起源する、時間、空間、多少、大小、長短、或いは是非、善悪等の概念も無い。例えば人間は自己満足を追求することから必ず未来を持つ。未来を期待するところから結果の将来を待つ。そこでどの位待つのかということから「時間」を考え、時計を持つようになったのである。同様に、多少・大小・長短等も人間の自我に起因する欲望が生んだ概念である。
(4)仏
以上仏法とは何かについて述べてきたが、同様に「仏」とは何かについて簡単に述べる。
基本的に、仏とは「仏法」や「法」と同義である。即ち宇宙・大自然のありとあらゆる事実即ち「尽十方界真実」を言う。また「尽十方界真実人体」を指すこともある。勿論お釈迦様や仏陀を表すことは言うまでもない。なお後述「禅」(仏法と同義)に、頻出する「仏祖」(仏と祖師)という語も同義である。