5、禅とは何か
(1)禅と仏法は同じである
ここで、「禅」とは何か、「仏法」と如何違うのかということについて言えば、根本的に禅も仏法と異なるものではない。禅と仏法は本来同じものである。
「禅」は、インドの「禅那(ジャーナ)」(静慮)、即ち「身体と呼吸と精神の調整」に重点をおいた「禅定」に起源を持つもので、当初インドにおいては、所謂「習禅」と呼ばれる「瞑想技術」に重点を置いた超現実的な「神通」ないし神異的な信仰を中心とするものであった。ところが、インドから中国に瞑想技術としての「坐禅」が伝来し、相当の時間が経過するうちに、次第に中国の高度な文化や風土の影響を受けて、神異的な神通思想が克服されて、日常的現実的なものに昇華されていった。こうしたインド禅の中国的変容の最終的な完成は、隋の天台智(ギ)(538〜598年)による『摩訶止観』の体系であるが、それはなお神異的な残滓を残しており、それを完全に払拭したのが菩提達磨(ボダイダルマ)に始まる「中国禅宗」であると言われている。
(2)禅・禅宗誕生の意義
禅や禅宗が生まれた理由は、天台教学など概念だけの学問中心の仏教を乗り越える処にあった。即ち禅宗は、経典の文字の解釈に終始することを離れて、実践(坐禅修行)中心の活きた仏法を挙揚した。つまり仏教が、余りにも学問的且つ煩瑣になって生命力を失ってしまっていた。そこで本当の血の通った仏法を求めた中国人のための、言わば「中国的大乗仏教」として新しく蘇ったのが中国禅宗であると考えられる。
(3)「小乗仏教」と「大乗仏教」の相違
このことは、インドにおいて、所謂「声聞・縁覚」等の自己満足(自己の悟り)を追求する「小乗仏教」から独立して、新しく利他行(自己満足追求の放棄)を標榜する「菩薩」の「大乗仏教」が生まれてきた現象と相似する。
即ち小乗、特に「部派仏教」では「アビダルマ(阿毘達磨)」による学問理論の研究が流行したが、それらは実践に関係の無い議論が多く修行の面を疎かにした。大乗仏教の展開は、このような部派仏教の弊害を矯正しようとして始まったものであり、徒な理論よりも信仰や実践を重視するものであり、その理論自体も実践を裏付ける為の理論であった。
例えば、歴史上の聖人である釈尊が、「法身仏」(尽十方界真実)にまで発展し、『法華経』の「唯有一乗法」(この世界のありとあらゆるものは尽十方界真実である)から「大乗」が導き出された。また「本来成仏」「悉有(シツウ)仏性」等も同様の事実を表現する言葉として生まれてきた。
要するに、小乗仏教は、「成仏」「さとり」という「理想・目的」を持って修行する。即ち自己満足の追求に終始する。ところが大乗仏教では、小乗のような理想・目的というようなものは無い。何故なら大乗では仏は修行して到達するものではない。初めから「すべてが仏」である。即ち「本来成仏」であるから、その修行は本来的に自我を放棄した「仏行」である。
なお、禅宗では、唐の時代の禅者の言行を中心に伝えた「話頭」、「古則」等が重視され、古則・公案が言わば経典のような役割を果たしている。即ち「公案」は、修行者が仏道を学ぶ上の身近な手本である。