6、坐禅 (その1)
これまで述べてきた自我意識とからだと大自然の関係を基本に仏法(禅)が理解できれば、これから説明する坐禅ないし只管打坐の意義も理解できる筈である。
ところで、街の大きな書店等では、種々の仏教書に混じって坐禅入門書や禅に関する書物が並んでいる。しかし澤木興道老師やその高弟の酒井得元及び内山興正各老師(何れも故人)の著作を除けば、仏法や坐禅について本当に分かって書かれたものを見かけることは皆無と言っても過言ではない。特に坐禅については、一般に「看話(カンナ)禅(公案禅、臨済禅)」系統の所謂「さとる」為の坐禅という全く誤った考えが人口に膾炙してしまっており、これを正すのは容易なことではない。以下に、正しい坐禅、即ち道元禅師の只管打坐の坐禅を説明する。
(1)坐禅に関する典拠(道元禅)
(イ)「正身端坐(ショウシンタンザ)」
(ロ)「只(祇)管打坐」(「只管」、「無所得・無所悟」)
(ハ)「非思量」「不思量」
(ニ)「念(正念、無念)」
(ホ)「不染汚」
(へ)「調息致心」以下(3)(4)(5)は6、坐禅(その2)
(1)坐禅に関する典拠(道元禅)
まず坐禅に関する決定的な典拠を挙げてみよう。
◎打坐は即ち正法眼蔵涅槃妙心なり。(『永平広録』巻五)
このような「只管打坐(ただ坐る)」がそのまま「正法眼蔵涅槃妙心」即ち尽十方界真実(仏法)であるという端的な言葉は、正に道元禅師にして初めて言い得る言葉であり、「道元禅」の心髄を表している。只管打坐の坐禅は、「無所得・無所悟」即ち「何の為でもなく、只生きている(存在している)」ことがその本質である「大自然の在り方」を、そっくりそのまま実修実証(実践)することであり、それは即ち人間的営み(自我意識)の棚上げに他ならない。つまり日頃有目的に明け暮れている自我中心の我々の在り方を放棄して、大自然そのままの生命の在り方に戻る努力をすることであり、言わば人間に恵まれた欲を、本来生存に必要な範囲(生命維持が基本)の大自然の在り方に返す行が只管打坐の坐禅である。
◎何を坐禅と名づく。此の法門の中無障無碍なり。外一切善悪の境界に於て、心念起こらざる。名づけて坐と為す。内に本性を見て乱れざるを禅と為す。(『六祖壇経』)
これはインド的な瞑想技術中心の坐禅から宇宙(尽十方界)規模の坐禅へと一転機を画し、中国禅宗を事実上確立したとされる六祖大鑑慧能(638〜713年)の言葉である。まず「法門」とは「身体全体」のことであり、その中「無障無碍(ゲ)」とは、生きている事実において邪魔になるものは何も無い、即ち人生の苦悩は生命活動の風景であって障害ではないということである。次に「一切善悪の境界」とは「自我活動(意志意欲・分別)」のことである。「心念起こらざる」とは、「心(宇宙・大自然の活動)」の表情が「念(精神活動)」であり、取捨選択の念を起こさない様な身体の姿勢を確保していることである。
そして「坐」は、人間が自我活動により積極的な行動を起こしにくい状態、即ち身体が大自然(生命活動)している本来の生命の在り方を確保することである。また「本性を見」とは、「本性」は「本来の生命活動の在り方」であり、「見」は、「現」の意で「実践」すること、即ち「生命本来の在り方を実践する」ことである。「乱れざる」は「不乱」即ち常に正常な位置を保ってリズムを乱さないことである。
更に自我意識発現以前の尽十方界真実人体には、本来「内(自己)」も「外(外境)」も無い。つまり身体は環境と一体(依正一如)で生きており、能所(主客)の対立は無い。これを「一行三昧」とも言う。そして「禅」とは、尽十方界真実そのもの、生命そのもののことである。
要するに、「何を坐禅と言うか。坐禅を行じているこの身体において様々な念が沸き起こって来ても、それはその時の生命活動の風景であり且つ尽十方界の真実の姿である。取捨選択せずに放置すれば、生命そのものにおいては何の障害にもならず、生命活動のリズムが自然に保たれて、大自然そのものが行じられている。このような坐禅の正身端坐の外面的相(スガタ)が「坐」であり、その内面相が「禅」(生命)である」ということである。
◎外諸縁を止め、内心あへぐことなし。心牆壁の如くにして、以て道にいる。(達磨の壁観)
「外諸縁を止め、内心あへぐことなし」は只管打坐の坐禅のことである。「心牆壁の如く」は「牆壁」が所謂「平常底」を意味するから「平常心」のことである。従って後段は正に「平常心是道」のことである。なおこれに関して、黄檗(オウバク)希運(〜855―9年)は、「達磨の面壁はすべて人をして転機あらしめず」(『伝心法要』)と言っている。即ち、坐禅したからと言って、何も変わらないと言うことである。
通常、人間は何か功利的な結果を求めがちだが、坐禅はただ尽十方界真実を実践することだけであり、「平常心是道」の具体的修行に過ぎないことを述べている。
(2)坐禅儀
以上のように、坐禅が如何なるものか、上述の典拠から明らかであるが、簡単にいえば坐禅は人間の自我意識発現以前の基本的な生命活動乃至基礎的生命の在り方の実践(実修実証)である。
そこで以下に坐禅の実態を表現するキイワードを解説しながら、坐禅の実際を説明するが、その根本は道元禅師撰述の『普勧坐禅儀』である。
(イ)「正身端坐(ショウシンタンザ)」
最初に坐禅における身体の姿勢の在り方である「正身端坐」について説明する。
まず壁に向かった坐處に座褥(ニク)(「座布団」)を置き、その上に「坐蒲(フ)(小型の円形の蒲団で、詰め物はパンヤ)」を置く。そしてこの坐蒲の上に臀を乗せて足を組む。
足の組み方は、「結跏趺坐(ケッカフザ)」又は「半跏趺坐」(結跏趺坐が出来ない場合)とあるが、「結跏趺坐」は右足を左のももの上に乗せ、左足を右のももの上に乗せて足を交差させる。「半跏趺坐」はただ左足を右のももの上に乗せるだけでよい。なお両膝はしっかり座褥につくようにする。上体の重みが両膝と坐蒲上の臀との三点にかかる状態にする。その際腰を立てて尻を後方に突き出すようにし、背骨を伸ばし、首筋も伸ばして顎を引き、舌を上顎に付け上下の唇歯も相着けて、後頭部で天を突き上げるようにする。
足を組むことは自我による生活行動が直ぐにはし難い形であり、我が侭勝手はしないという姿勢である。
次に両肩は張らず楽にして、右の手を既に組まれた左の足の上に置き、左の掌を右の掌の上に置いて、両掌で半円を描くような感じで、両方の親指が水平に軽く触れる程度に出合わせる(*所謂「法界定印」と言い、意識を明確に保つバロメーター)。
目は普通に開いて壁を見、視線は60度前方に落とす(凝視するのではない)。
更に口を開いて息を大きく吐く(欠気(カンキ)一息)ことによって気分を転換すると共に、二、三度身体をゆっくり左右に揺って姿勢に無理や窮屈なところがないようにリラックスさせた後、不動(兀(ゴツ)坐)の姿勢に入る(尚臍下丹田に力を入れるのは誤り)。そして鼻でする呼吸は自然に任せる。
坐禅の時間は「一チュウ」(線香の燃焼時間40〜50分間)を単位とし、坐禅が長時間に亘って行われる場合は、一チュウ毎に「経行(キンヒン)」即ち「叉(シャ)手又は揖(イッ)手」して堂内を静かに「一息半趺」(一呼吸の間に半歩だけ前進する)で緩歩する(詳細は省略)。
以上が正身端坐の基本の形であるが、このような坐禅の姿勢を続けている時、我々の身体(尽十方界真実人体)が生命活動を営んでいる証拠に、我々の脳裡に自然に何らかの思い(念)、例えば、仕事のこと等が忽然と浮かんで来る。
最初に浮かんでくる念は、我々が如何ともし難い身体(生命活動)の自然の働きであり、決して妄念ではなく「正念」である。ただ初念が浮かんでも、上記の正身端坐を続ける、即ち「覚触(ソク)」(正しい坐相を維持する努力)により、目前の壁が自然に眼に映り、その瞬間にその念は脳裡から消えてしまう。この場合自我意識は発現せず、生命本来の在り方から外れることが無い。
ところがその最初の念が消えず、そのまま次々思い(次念以降)を追い続ける、例えば、仕事の予定や段取り等に思いを巡らし始めると、それは既に「考え事」即ち自我意識が活動を始めているのであり、もはや厳密には坐禅ではなく、生命本来の在り方から乖離し始めているのである。そのように自我活動が始まると、不思議に前述「法界定印」の親指の形が自然に崩れたり、背筋が曲がったり、自ずと坐相が崩れて来る。
つまり坐禅中、生理現象である自我活動は隙あらば始まろうとするが、常に正身端坐、即ち「覚触」の姿勢を続けて、生命本来の在り方に立ち帰る努力をすることが要諦である。
因みに、坐禅中の居眠りは身体自体が要求する自然な姿ではあるが、それは勿論坐禅ではない。
なお坐禅と「現成公案」の信仰の関係について述べておくと、脳の生理現象として自然に様々な念(考え)が浮かんで来るが、そのこと自体は身体の生命活動であるから、尽十方界真実として素直に頂くしかない。それはその時の尽十方界の様相であり現成公案であり、全て受容するしかない。この場合に、念が浮かばないように自ら意識して念の発生を押さえ込もうとすることは、逆に自我意識を働かせることになり、自分の好み或いは満足を追求することになって、坐禅の在り方から乖離する。
但し「すべて頂く」という意味は、次々起こって来る念を全部追いかける事ではないのは勿論である。その様な事を始めると、そこから自我意識の活躍が始まり正しい坐禅の姿は失われる。あくまで「正身端坐」に終始して、次々起こってくる念をその都度追わず、身体本来の在り方に任せていくことが、現成公案を実践することである。
(ロ)「只(祇)管打坐」(「只管」、「無所得・無所悟」)
次に「只(祇)管打坐」即ち「ただ無目的に坐る」ということが坐禅の根本であるが、上述六祖の言葉で明らかなように、「坐」が「禅」の実態であると同時に、禅の事実が坐であり、自我意識を棚上げにした正身端坐が坐禅の全てである。
そこには通常の所謂「考え事」は勿論、自己満足(自分で思い描いた理想の心境)の追求というような自力行は有り得ない。
「只管」或いは「無所得・無所悟」とは、「ただ」という意味であるが、それは大自然の在り方ないし大自然の生命活動の実態のことである。即ち大自然の営みは「無量無辺」であり、あらゆるものは、人間的な意味では「無目的」に、即ち「ただ存在させられて存在し」或いは「ただ生かされて生きている」のが実態である。それが人間の意志意欲等を超えた宇宙・大自然の実態である。また「坐」(「打」は単に強め)は、上述の正身端坐の通り、身体が大自然(生命活動)している即ち生きている事実を確保することである。
このように「只管打坐」は、身体を生命活動の表情・景色(意志意欲・心理等)を超えた生命本来の姿(尽十方界真実)に全て任せてしまうことであり、それが自我活動から生み出される一切の錯覚(でっちあげの理想等)から免れる方法でもある。
以上只管打坐は、大自然の在るがままのすがたに無限の絶対的な価値をおく信仰である。
なお只管打坐には人間生活(意志意欲)が始まらないよう厳しい正身端坐の努力がなされていなければならない。つまり常に正身端坐の姿勢を保つ努力(覚触)によって生命本来のあり方(真実の姿)から外れないように努力しなければならない。そのままにしているならば、我々は「業識」即ち生理的習性によって本人の意志に関係なく必ず坐の中での人間の生活(自我意識の活動)を開始してしまう。その時にはもはや只管打坐では無くなっている(生理的習性による逸脱)。
(ハ)「非思量」「不思量」
薬山惟儼(ヤクサンイゲン)(751〜834年)が初めて使った「非思量」(不思量)という言葉の実態について以下に説明する。
或僧が薬山に問う「兀兀地(ゴツゴツチ)に什麼(ナニ)をか思量する。」薬山曰く「箇の不思量底を思量す。」僧曰く「不思量底如何が思量せん。」薬山曰く「非思量。」
まず「兀兀地」は兀坐即ち正身端坐のことであるが、或僧が薬山に「坐禅中は什麼(何)を思量するのか」と問うた。この「思量」は考えることではなく、「坐禅の姿勢のこと」即ち「努力する」という意味である。「坐禅はどんな努力(姿勢)が必要か」という問である。
ここで注意すべきは「什麼」という疑問詞である。仏法における疑問詞は「問所は答所の如し」でそれがそのまま答である。この場合は「兀兀地の思量は什麼だ」ということになり、什麼は、定義不可能な仏法の事実であり、自我を超えた身体本来の姿(尽十方界真実)を表現している。従って「坐禅を努力することは身体本来の生命(尽十方界真実)の在り方・姿だ」ということになる。
次に薬山は此れに対して「思量箇不思量底」(思量は箇の不思量底だ)と答えている。この「不思量底」の「不」も、否定の意味ではなく、大自然の絶対的な事実を表す。故に不思量底は、「不」の「思量」即ち「不(大自然)」を努力するということで、「大自然の在り方(本来の姿)を努める」ことである。即ち人間が介在しない(自我意識発現以前)大自然即ち身体本来の在り方(尽十方界真実)を努力することである。
なお「箇」は強めの語である。従って(坐禅の)努力は自然の生かされたままの身体の在り方を努力することである。
つまり「不思量底を思量する」とは、「不思量であることを努力する」、即ち自我意識の活動による仕事は一切しないで、大自然の本来の身心の在り方(尽十方界真実)をそのまま努める(「回光返照(エコウヘンショウ)」と言う)ことである。
然し更にこの僧は、「不思量底」即ち「身体本来の在り方」は、「如何思量」即ち如何すればよいのかと問うているが、同様にこれも「如何」という疑問詞であるから、「不思量底」は「如何が思量」だとなり、「如何」は、真実のあり方として何も決まったものはない即ち「無相」ということである。
つまり身体本来の在り方(不思量底)は「如何ともすることが出来ない」即ち大自然そのままの状態にするだけであると自ら答えていることになる。
最後に薬山はこれまでの問答を総括して「非思量」と答える。この「非」も、「不」と同様当然否定の意味ではなく、「非(大自然の絶対的な姿・働き)」の努力をすることであり、不思量と全く同じ意味である。
要するに「非思量」とは、尽十方界真実人体の生命活動のことであり、身心の本来の在り方即ち大自然に生かされたままの姿である。
そしてこの事実をこそ「無念無相」と言うのである。よく坐禅中全く何もアタマに浮かんでこない状態を無念無相だと誤解している人が多いが、全く誤りである。このような誤りの原因は、「無」を通常の否定の意味に取るからである。そうではなく、ここでも無は人間の意志意欲に関わりの無い大自然の絶対的な事実を指しているのである。
従って「無念」は「無」の「念」即ち、人間の意志意欲に関わりなく、人間生命における脳の働きにより忽然と浮かんでくる「思い(念)」のことである。
また「無相」も「無」の「相」即ち、「大自然の働き」による「姿ないし形」である。
以上のことから、我々が「考える」という精神活動も非思量(不思量)によって考えている、即ち尽十方界真実により考えさせられて考えているのである。故に人間は「考えられること」以上のことは全く考えることは出来ないのである。
更に言えば、我々は非思量に支えられて生死(人生)しているのである。
因みに、不、非、無と並んで「莫(マク)」の例を紹介すると、『普勧坐禅儀』の中に「是非を管すること莫かれ」という言葉があるが、これは「莫管是非」と訓むべきで、莫は否定の意味ではない。即ち「莫管」とは「自然のまま」という意味で、坐禅の時、是が起きて来ようが、非が起きて来ようがそのままにしておくということである。
(ニ)「念(正念、無念)」
「念」とは、生命活動即ち脳の働きにより生じるものであり、坐禅中のみならず、日常生活に於ても我々が生きていく上で必要不可欠な働きであり、人間が意志意欲する以前の大自然の働き即ち尽十方界真実人体に恵まれた働きである。
ところで念は、まさに「不起の一念」と言われる。「不起」、即ち「不」は絶対的且つ人間の介在を許さないという意味で、「自然に起こる」一念という意味である。しかもこれは人体の生命活動の基本的な姿であり、その表情(心理現象)であると同時に、先述「心」(宇宙・大自然の活動)の表情である。
このような「念」は、本人の意識に上るものと、上らないものとがある。意識に上った時にはじめて「念」として明確に意識しそれを追求する。その時点で「自我意識」の活動が始まる。脳の生理現象であるこのような「念起」も、それを捉えて追いかけなければ、念は念の形をなさないで生命活動の表情として消えていく。生命活動の中から取り上げるものがなければ「人生」(生活)は始まらない。
つまり「意志意欲活動」というものは、生理現象の契機を捉えて、尾ひれをつけて追求し続けて行くところから人間生活を展開させる。その「最初の契機」が「念起」である。契機を捉える事がなければ、そのまま生理現象は消滅し、次にはまた新しく現象を現象し、それを絶えず続けている。これが尽十方界真実人体の生命活動の実態である。然しながら通常の日常生活においては、人間の生理的習性によって念起念滅しても取り合わない等という事は非常に難しい。それを可能にするのは只管打坐だけである。
(ホ)「不染汚」
修行の在り方の指標「不染汚」について、六祖と南嶽懐譲(ナンガクエジョウ)(677〜744年)の有名な問答を以下に紹介する。
南嶽が六祖に参じた時、六祖曰く「什麼(イズレ)の処より来たのか。」南嶽曰く「嵩(スウ)山安国師の処から来ました。」六祖曰く「是れ什麼物(いかなるもの)の恁麼来(いんもにきたる)ぞ。」しかし南嶽は何とも答えることが出来なかった。
その後八年間南嶽は六祖の下で修行して、六祖の言ったことを会得した。そこで南嶽は六祖に八年前の話を持ち出して「あの当時和尚が言われた什麼物恁麼来を会得しました」と言った。
六祖曰く「汝作麼生(ソモサン)か会す。」南嶽曰く「説似一物即不中(一物を説似するに即ち中(アタ)らず)。」六祖曰く「還って修証を仮るや否や。」南嶽曰く「修証は即ち無きにあらず、染汚することは即ち得不(ジ)。」六祖曰く「祇だ此の不染汚、是れ諸仏之護念する所なり、汝亦是の如し、吾も亦是の如し、乃至西天の諸祖も亦是の如し。」
この公案では、まず疑問詞「什麼(インモ)」「恁麼(インモ)」「作麼(ソモ)」等が、仏法の真実即ち尽十方界真実を表現していることは、既に説明してきた通りである。
六祖が南嶽に「什麼の処より来たのか」と問うたのは、単に物理的な出所を聞いたのではなく、仏法修行者としては当然根本課題である自己の出所を自覚しているか否かを試したのである。
更に未熟な南嶽に対して、「什麼物恁麼来(インモブツインモライ)」即ち「ありとあらゆる事実は、ありとあらゆる在り方だ」(真実は此れこそと決まったものではない)、或いは諸法実相(あらゆるものが真実)だ、更に言えば「本来成仏」だと、尽十方界真実の在り方を示したのである。
然しこのことが解らなかった南嶽は、解かるまでに六祖の指導の下で八年の修行を必要とした。
終に尽十方界真実に開眼した南嶽の言葉は「説似一物即不中」、即ち尽十方界真実を説明しても適当しない、或いは真実は把握不可能だということであった。尚ここの「一物」の「一」は「全、全体、全部」の意味で、「全物」即ち尽十方界のことである。
そこで六祖は、本当に南嶽が仏法を会得したかどうかを確かめる為に、「尽十方界真実の在り方がそうだとするなら、即ち本来成仏ならば、真実の修証即ち修行は不要なのか」と問うた。
すると南嶽は「修行は当然必要ですが、有所得即ち自己満足追求の修行であってはならない。自我に汚されない本当の修行をしなければならない」と答えた。
最後に南嶽のこの答えに満足した六祖は、「不染汚即ち自我意識を超えた大自然の生命の在り方を努めることこそが、諸仏が護念するところであり、汝も私も同様に心掛けるところである。それだけではない。インドの釈尊以来の仏祖方も同じである」と念を押した。
但し「不染汚」の「不」は上記の問答の趣旨から、「染汚」を否定する通常の意味である。
以上の公案から分かるように、「不染汚」は、自我意識を超えた大自然の生命の在り方を言い、不染汚の修行は、先述の正念を保つ努力であり、「非思量」の実践である。そしてまた平常心是道の修行である。
逆に「染汚」とは、自我意識(分別判断)の活動、自己満足の追求、乃至意志意欲活動であり、所謂「虜知念覚(リョチネンガク)(分別・知覚)」が働いている状態である。或いは特殊な心理状態(ノボセ・興奮)であることもある。これらは全て生命活動の表情に過ぎず、生命活動の真実を覆うものである。
つまり「染汚」の座禅は、成果を求める作為的なものであり、自己の充足感を求めるものである。
(へ)「調息致心」
坐禅における「調息致心」ということについて付言しておくと、正身端坐をすれば、自然に調息致心も完全に行われるということである。大自然である身体そのものの働きである呼吸を自然そのままに任せることである。『永平広録』巻五に調息致心のあり方を明確に示している(引用省略)。
つまり、道元禅師の師天童如浄禅師(1163〜1228年)は、調息について、言わば「腹式呼吸」を示しているが、道元禅師は、呼吸は自我とは関係が無く、身体の生命活動である自然の呼吸そのままに任せるだけであるとされる。