(一)『坐禅儀撰述由来書』
『普勧坐禅儀』撰述の由来は、酒井得元老師提唱「普勧坐禅儀と坐禅箴」(『返照』第450号及び451号・妙元寺返照会・野沢和光)並びに大久保道舟編『道元禅師全集』「解題」(筑摩書房刊)等を要約すると、以下のとおりである。『普勧坐禅儀』は、日本曹洞宗の祖である永平道元禅師が仏法参学の大事を了畢して宋から帰朝した後、先ず最初に撰述されたものであるが、禅師の主著『正法眼蔵』の「弁道話」に「すぎぬる嘉録のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし」と言われていること、及び帰朝が嘉録三年(1227年)の秋であったと伝えられていること等から、一般に撰述はその頃であったと推察されている。
更に、禅師が帰朝直後の落ち着けない状況の中にあって、この坐禅儀を撰述された理由については、差し迫った事情があってのことであり、その間の事情は、永平寺収蔵の禅師親筆に係る『坐禅儀撰述由来書』によって推察出来るとされている。
酒井老師によれば、撰述の背景となる当時の我が国の宗教の状況は、前掲「弁道話」から読み取ることができるとされる。つまり、当時の我が国は、仏教の受け入れ側の民衆が余りに精神的な程度が低く、現代と同様、目先の利益にのみ終始していたようであり、仏教も仏教としてではなく、現世利益の用にのみ受け入れられていたのが実情のようである。従って人間の自我意識を超えた宇宙・大自然の在り方である「無所得・無所悟」(全てのものはただ生かされて生きている)の「仏法」(宇宙・大自然の全てのものの在り方・姿)などは全く夢想だにされていなかったに違いない。却って彼等には、本来の仏法というようなものは、この世の戯言でしかなかったのかも知れない。禅師にしてみれば、そのような悲しい現実に直面して大変な戸惑いを感ぜられたに違いない。
要するに、せっかく難値難遇の正師・如浄禅師より相承した正伝(生命本来の在り方の実践)の仏法も、無縁の衆生を前にしては、施す術もなく困惑されたと見えるが、その辺の消息は、「弁道話」の「大宋紹定のはじめ、本郷にかへりし、すなはち弘法救生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。しかあるに弘通のこころを放下せん。激揚のときをまつゆゑに」という言葉から窺い知れる。道元禅師をしても流石に無縁の衆生に対しては、「激揚のときをまつ」しかなかったようである。
禅師の、たとえ東方の辺地ではあっても、正伝の仏法を伝えて、是非とも日本の人々に、正法の法雨に浴させたいという仏教者としての強い責任感も、あまりの現実との距離に当面して、一旦立ち止まらざるを得なかったというのが実情であった。
ただ、そうは言っても、そのような大衆の中からも、本当の仏法を学ばんとする者が出ないとは限らない。禅師は、そうした奇特な学道者のために、純一の正伝の仏法を明確にしないで放置しておくわけにはいかないと考えられたのであろう。
そこで本当の仏法即ち宇宙・大自然の全てのものの本来の在り方、言い換えれば宇宙・大自然に生かされて生きている生命そのものの在り方を実修実証(自我意識・自己満足追求の放棄の努力)する無所得・無所悟の「只管打坐(シカンタザ)」の坐禅を闡明にする『普勧坐禅儀』を最初に撰述されたのである。
しかもそれはあらゆる人に勧める即ち「普勧」することが出来る本当の坐禅でなければならなかった。特に「普勧」の二字において、正に禅師の坐禅儀の基本的性格、即ち「正伝の仏法」の性格が表明されているのであった。
当時、我が国には、既に坐禅は天台宗などにおいても伝えられていた。しかし、その当時の坐禅の基準となっていた長盧宗サク(チョウロソウサク)編『禅苑清規(シンギ)』所収の「坐禅儀」は、坐禅の行法そのものはそれ程変わらないものの、坐禅そのものの性格・意義や行者の心構えについては、道元禅師のそれとは根本的に次元を異にするものであった。つまり、それは修行の一方法、即ち単なる瞑想技術ないし常人のかなえられない特殊な心境に到達する事を目的とする所謂「習禅」であった。
ところが、道元禅師の坐禅は、「打坐(坐禅)は正法眼蔵涅槃妙心(宇宙・大自然の真実)なり」(『永平広録』巻五)とあるように、特別な心境に到達するために努力するような瞑想技術や習禅ではなく、ただ大自然に生かされて生きている人間生命の本来の在り方を努力するために坐るだけ、即ち人間の生命活動のその時々の表情・景色に過ぎない脳の生理現象としての自我意識(自己満足追求)を放棄・超越して「ただ坐る」だけで、一切理想や修行の目的等を持たない無所得・無所悟の只管打坐であると同時に、それが仏法の全体であり、仏道修行のすべてであるという坐禅であった。
その相違を端的に言えば、当時の一般的な坐禅は、特殊な境地(さとり)を目指す理想(自己満足)追求の所謂「小乗仏教」の修行であるのに対し、道元禅師の坐禅は、「本来成仏」が基本である所謂「大乗仏教」の仏行、即ち自我(自己満足追求)を放棄する修行であるということである。
従って、道元禅師にしてみれば、当時流布している『禅苑清規』の坐禅儀では、根本的に正伝の仏法の弘通に役立たないどころか、反ってマイナスになるというおそれから落ち着かない中での取り急ぎの撰述となったのだと考えられる。
(二)天福本と流布本、及び『正法眼蔵』「坐禅儀」と同「坐禅箴」の関係
さて、現在『普勧坐禅儀』には、所謂「天福本」(天福元年(1234)の奥書がある親筆本)と「流布本」の二本が存在している。前述嘉録三年当時の執筆本(「嘉録本」)が現存しないので、嘉録本が如何なるものかは知り得ないが、前掲「解題」は、親筆本は嘉録本を浄書したものだと推定している。また禅師の著作の「坐禅儀」には、和・漢両様の文があって、和文のものは『正法眼蔵』の中に、漢文のものは『永平元禅師語録』及び『道元和尚広録(第八)』等に収められている。前者は単に「坐禅儀」の名称だけであるが、後者は「普勧」の二字が冠せられている。今日一般に流布しているのは後者(本書冒頭掲載、但し原漢文の訓み下し文)である。ところで、親筆本と流布本とでは、文章がかなり相違している。酒井老師は、流布本は親筆本に推敲の手を加えたもので、『正法眼蔵』「第十一坐禅儀」(寛元元年(1243)十一月の奥書)の述作の前後或いはそれ以後の撰述と推理されている。老師は、その理由について、両者の相違は、特に二つの重要な語句の有無に有るとされる。即ち、一つは「非思量」(大自然そのままの身体の生命本来の在り方)の語であり、他は「菩提を究尽するの修証」(坐禅は大自然に生かされて生きている身体本来の生命の在り方をそっくりそのまま頂戴する行)の語句であり、これらの語句が、親筆本には見られないのに対し、流布本には見られるということである。
つまり、道元禅師は生涯を通じて仏法参究に努め、『正法眼蔵』の述作に尽力されたのであるが、天福元年(1234)の親筆本から八年の歳月をかけた坐禅参究の成果が、先ず誤った坐禅を正す意味を持つ『正法眼蔵』「第十二坐禅箴」(仁治三年(1242)の奥書)に結実したと考えられる。
この巻は、冒頭に薬山弘道大師の「非思量」の公案を挙げて、「坐禅は非思量である」、即ち坐禅は自我意識を超えた大自然の身体本来の生命活動に任せる姿勢だということを説示するものであるが、親筆本当時より一層坐禅が仏法(宇宙・大自然の真実の実態)そのものであることを明確にされたのである。
そして更にその成果を踏まえて、その坐禅の儀則を明確にするため「第十一坐禅儀」(寛元元年(1243)奥書)を作られたのだと考えられる。即ち『正法眼蔵』七十五巻本の編集順序においては、先年に撰述をされている「坐禅箴」を特に「坐禅儀」の後に持って来て、成立年次とは逆に第十一と第十二の順序を入れ替えられたのである。以上のことから考えて、「非思量」等の語句がある流布本は、「坐禅箴」述作後、「坐禅儀」の前後またはそれ以後だと推定されるのである。
さて、以上、『普勧坐禅儀』撰述の由来について述べたが、次章「正伝の仏法」では、『普勧坐禅儀』の本文の解説に入る前に、その理解を容易にするために、我々の自我意識(我)とからだ、そしてからだと宇宙・大自然の関係、更には仏法とは何かということを述べておきたい。
なお次章に述べる仏法に関する要語は、通常の国語辞典は勿論、仏教辞典や禅学辞典における意味とは異なる場合が多いことを予め注意して頂きたい。それらの各種辞典の類は、仏法に於ける要語の本当の意味を理解して解説しているものは殆どなく、本当の仏法を学ぶには不適切である事を念のため申し添えておきたい。
詳しくは拙著『酒井得元老師提唱より聴き書 正伝の仏法 正法眼蔵と只管打坐』、 『入門・仏法と坐禅』を参照されたい。